【短編小説】釘
男は夜道を歩いていた。
人通りはほとんどなく、コンクリートの要塞に押しつぶされそうになるほど無機質な通りをただ進んでいる。
男は黒の鞄を手に提げ、ややうつむき加減だった。最近の生活に不便はないが、マンネリ化というか、なんとなくパターンをこなすだけになってきた日々に嫌気が差し始めていた。
スマホを見たり、音楽を聴いたりするわけでもなくただ家に向けて歩いていると、コンクリートのブロック塀に何か刺さっているのが見えた。
ふと気になって男はそれに近寄った。
釘である。いわゆる五寸釘とかいうやつで、塀に埋まっている部分を除いても5センチはある。本当はもっと長いんだろう、と男は思った。
すると、なぜか男はその釘に惹きつけられるような感覚を覚えた。その場を離れようと思ってもなぜかずっとその釘を眺めてしまう。まるで意識がその釘に吸い込まれていくようだ。
ハッと気がつくと、男は慌てて時計を見た。なんと30分も経っているではないか。男はただ立ち尽くして塀に刺さっている釘を30分間も見つめていたのだ。
「何やってんだ…」
男はそう呟いてまた歩き出そうと体の向きを変えた。その瞬間、
「うわああああ!!!」
と男は叫んでその場で尻餅をついてしまった。
男の背後に、見知らぬ人々が10人ほど立っていたのである。
男は完全にパニックになるも、なんとか絞り出した声で
「だ、誰ですか……?」
と尋ねたが、もちろん答えはない。ただその人々は男の方を見ている。
「なんなんだよもう…!」
そう吐き捨てるように言って、男はなんとか腰を上げてその場を走り去った。
翌日の帰り道、男は周囲を常に警戒しながら歩いていた。会社に行くときに同じ道を通ったが、そのときはもう釘はなかった。だからおそらくもう大丈夫だろう、と思って昨晩釘が刺さっていた塀に近づいた。
釘は、刺さっていた。
「なんで……だって、朝無かったのに……」
そうして男は再び釘が刺さっているのをじっと見てしまった。
そこからは昨晩と全く同じだ。
「ダメだ……!早くここから離れないと……」
と心の中で思っていても、体は思うように動かない。全神経がその釘に吸い込まれる感覚だ。
男はハッと我に返りすぐに時計を確認した。
45分。昨晩より伸びてしまっている。
そして振り返ると、案の定、見知らぬ人々が立っている。これも昨晩より増えていた。
男は最初より驚かなくなったが、やはり振り返る瞬間はかなり怖かった。その人々の顔を見ても、全員感情はないように見えて、蝋人形だと言われても不思議ではない。ただ、瞬きをしたりするのはわかったので少なくとも人間ではあった。
「なんだよ……俺が何したっていうんだよ……」
男はそう呟いてそこを足早に去ると同時に、「明日からは別のルートで行こう」と胸に決めた。
翌日。300メートルほど遠回りになってしまうが、あんな不気味な体験を2度するくらいならこれくらいの苦労は仕方ない、と男は考えていた。
辺りを一応見回してみても怪しいものはない。そして人通りもほとんどなかった。
しばらく歩いていると、男は何かが落ちる音がするのを聞いた。ふと足元を見るとポケットに入れていた家の鍵が落ちてしまっている。
「おお危ねえ…」
そう言って男は鍵を拾うためにかがみ込んだ。
そして、目の前のコンクリートの壁の下の方に、それはあった。
釘だった。男が2日間見ていた五寸釘と全く同じようなものがそこにもしっかりと刺さっていたのだ。
「うわあああああ!!!!!」
男は叫んだが、釘に目をやった時点でもう遅い。昨日や一昨日に味わった吸い込まれる感覚にまた襲われる。
「誰か…!誰か助けてくれ……!!」
そう言おうとしたが、うまく声も出ない。ただただ体がそこに吸い込まれる感覚なのだ。
床に座り込んだ状態で気がついた。
男は時計を見る。1時間。ただため息をつくことしかできない。
そしておそるおそる後ろを見る。
だが、誰もいない。
おかしいな、と男は思う。そしてなんとなく嫌な予感がして、ゆっくり視線を天に仰いだ。
見知らぬ人々が、座り込んだ男を見下ろすように視線を向けていたのだった。
「うわあああああああああ!!!!!!もうなんなんだよ!!!!!!!!!!」
そう咄嗟に言い放ち、男はまた駆け足でその場を離れた。
こんなことが3日も続いて男が正気でいられるはずもなく、釘を見てからというものほとんど眠れなくなってしまった。しかし会社をそんな嘘みたいな理由で休めるはずもない。男は着実に、日に日に心身ともに疲弊していった。
そして4日目の帰り道、男は半ば諦めていた。どうせ見るんだろ。で、また知らない奴らに取り囲まれるんだろ、と。
しかし、あと角をひとつ曲がれば家というところまで普通に帰ってくることができた。ただ、ここで油断はできないことは分かっている。
そこで、男は目を瞑って走ってその角まで通り抜けることにした。ここまでしたら流石に大丈夫だろう、という考えだ。
男は目を瞑って感覚で走る。よし、この辺りで曲がれば大丈夫だ。そして目を開けようとした瞬間だった。
腹部がなにかとても熱いものに触れた感覚がした。
そしてその後すぐ、その「熱さ」は「痛さ」であることを認識した。そしてその痛みはそこからジワジワと身体中を侵蝕していく。
男は目を開けた。そこには、1人の若者が立っていた。
痛みの根源である腹部に目をやる。
釘が刺さっていた。
あの、3日前まで悩まされていた五寸釘が、今、自分の腹部に、4割くらい侵入している。
目の前の若者に理由を訊く暇もなく、男はその場に倒れ込んだ。
若者は静かに微笑んでいた。
若者は男の腹部に刺さった釘を抜こうとした。
しかし、妙な感覚がする。
意識が、目の前の血にまみれた釘に吸い込まれる気がする。
「は?何だよこれ……」
というが早いか、若者は完全にその場で立ったまま意識を失った。
若者は目を覚ます。スマートフォンで時間を確認すると、30分程度経っているではないか。
「なんなんだよ気味わりいな……」
そう呟いて目の前の死体を見る。シャツの血のシミは1.5倍くらいの広さになっている。
「とっとと逃げるか……」
若者はそう言って釘を抜いて踵を返した。
「うわあああああああああ!!!!!!!」
男を刺した時にはいなかった人が、10人ほど若者の背後に立っていたのだ。
「な……なんだよ……、見てたのか?なあ、どうなんだよ……」
若者は強気でなんとか話すことができたが、背後にいた人々がそれに答えることはない。
「見てたのかって訊いてんだよ!!!!!」
そして、1番真ん中に立っていた30歳くらいの女をその釘で、ひと思いに刺した。
女は表情を全く変えずに、後ろ向きにただ倒れた。後頭部を打つ鈍い音がする。
その瞬間若者は我に帰った。
「違う、違うんだこれは……」
そう言おうとすると、ついさっき味わった感覚に似たものを感じた。
目の前に倒れた女に刺さっている釘に、また、吸い込まれていく感覚。
それを感じた時点で、もう抗うことはできない。
若者はもう、何も言わなかった。
気がついて時計を見る。1時間か、と思う。
そして後ろを振り返る。人がまた立っている。さっきまで立っていた人はいない。
そして若者は言い放つ。
「目撃者いるまま逃げれねえんだよな……」
やることはもう、決まっていた。
それからどのくらい時間が経ったのか、若者は途中から時計を見るのをやめたため分からない。
空が明るくなってきた。新聞配達のバイクのエンジンの音が遠くで聞こえてくる。
若者は何も言うことなく、また釘を抜いて、自分の腹部に突き刺した。
路地裏の亡骸が、またひとつ増えた。
コンクリートの建物同士の隙間から、太陽の光が路地裏に差し込み、それらをなぞるように照らした。
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