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きものと母の思い出

 今朝はテレビで、令和6年の新年歌会始を観ていました。

入選者の方々のお召しになっているきもの、色留袖を見て、ほとんどの方がピンクだったので、年配の方のピンクもいいいもんだなぁーと、うっとりしていましたところ、

埼玉県の、高橋祐子さん(71)が次のような歌を詠まれて、釘付けになりました。

和だんすは母のぬくもり大島に
袖をとほせば晩年に似る

わたしの母の時代(昭和の前半)は、きものは大切な嫁入り道具で和箪笥に喪服(袷・薄物)訪問着、色無地、小紋、紬、袋帯、名古屋帯など、一通りのものを入れて持ってくるというのが一般的だったのですね。それに布団や座布団、鏡台などを寿と書かれたトラックに積んで、紅白のリボンで飾って、運ぶんです。
あと、フランス人形も定番でしたね。
子宝に恵まれるように、という願いが込められていたようです。

きものがまだ日常着として身近にあった時代のことです。

そんなお母様のきものを受け継いで着ているという方、たくさんおられると思います。家にあるきものをなんとかしたいと思って着付け教室に通われる方も多いんです。

かくいうわたしもその一人。

若い頃は母が何を考えていたか、どんなことに悩み、苦労していたのか知る由もなかった。自分のことで精一杯だった。母がどんな時に幸せを感じ、どんな食べ物が好きだったのか、母の一番好きな色は何色だったのか、、、。

母が亡くなった時、目の前が真っ暗になり、それまで世の中を照らしいた太陽が無くなってしまったような気がしたものです。同年代の方を見るだけで、母を思い出して、ボロボロ涙が出てきました。

ごめんね、おかあちゃん。わたしを産んで、育ててくれてありがとう、最期は何もしてあげられなかった、長いこと苦しかったね。どうか安らかに。

棺に母が一度も袖を通したことのなかった大島と、手紙を入れました。

わたしは結構な弱虫で、辛いことがあると今でも心の中でおかあちゃーんと呼んでいる。そんな時、母のきものを着ると、母に抱かれたような気になって落ち着くのです。

きものが好きだった母。
高度成長期、町工場を営んでいた父が少し儲かって、それで母に「何でもこうたるからいうてみ」(何でも買ってあげるから言ってごらん)と言った時、きものが欲しいと言ったそうです。なのに大切なきものは、箪笥の奥にしまい込んでいた。勿体無いと言って着ることはなかったのです。

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