共感ベースで読む・囀る鳥は羽ばたかない-矢代に重ねる①

思えば「人生は誰かのせいであってはならない」と奮い立たせて生きてきた人生なので、囀るの中にこの文字を見つけた時、一発で心を持っていかれたことを思い出す。

矢代というキャラクターに対しては、「矢代の立場を考えたらこうだよね」って頭で理解するよりも、直感的に、それはもう感覚的に「わかる」って思うことの方が圧倒的に多かった。
(頭のキレや行動力、臨機応変な立ち回りや演技力については頭で理解することの方が多いけど)
だから、私自身が感じたままの矢代の気持ちを、ストレートになぞってみたい。


矢代の性生活は、自傷行為だった。
なぜ自傷行為をするのか?
それは「心の痛みを可視化する」ためであり、
なぜ心の痛みを可視化するのか?というと
「自分を慰める」ためにする。
なぜ自分を慰めるのかというと、
「明日を生きる」ため。

そう、自傷行為とは遠回りな自己肯定。
自分で自分を救うためにする作業。
そうだ今自分は苦しいんだ、だからほらこんなに痛い。痛いね、でも大丈夫。この痛みが癒える頃には元気になれるから。…そんな感じ。
愛のあるセックスは、矢代にとっては自己肯定の手段を奪われるものでしかなく、ともすれば自分の自己肯定ごと否定される。
そりゃ、「それがどれほどのことかお前には一生わからない」よ。

愛のあるセックスの何が怖いかというと、「本当は愛されたかったんだ」と無理矢理に自覚させられてしまうこと。
自分が自分でいるだけで無条件に愛される、無条件に相手から肯定される…なんてことがあるのだとしたら、一体今まで自分がやってきたことは何だったのか?
もしかして、  間 違 っ て い た ん じ ゃ な い か ?

百目鬼に与えられた愛情たっぷりのセックスは、さぞかし怖かっただろう、どんなに悲しかったことだろう。
人生をかけて全力で自分を愛そうとする姿でさえ、本能的な不安を感じたはず。

本当は酷いの嫌だった
本当は痛いの嫌だった
本当は縛られたくない

その叫びを身体に染み込ませ、その傷を癒すことでこの本音と向き合ってきたのに、愛に触れると、そんな遠回りな作業をしなくても、一瞬で本音を自覚できてしまった。涙に形を変えて。

百目鬼がかけた呪いは、こんな風なかなりの荒療治で、しかも、誰かに愛されれば大丈夫だよ、ではなく俺に愛されて下さい、という限定付き。

矢代はこの呪いを聞こえないように見えないようにしていたけれど、抗争が終わって百目鬼から離れた後に、嫌というほど自覚したと思う。

自傷しなくても与えられる肯定感
初めての体験
なんて、なんて甘いんだろう
まるで果実みたい
なんて気持ちいいんだろう
もう一度食べてみたいな
もう一度食べてみたいな…

でも、もう手を伸ばしても届かない
自分で捨てたから
百目鬼に愛されてみたい
もう会えない
本当は俺も好きだったのに

それなら、いっそ元のやり方に戻そうか
酷いセックスは自分を支えるものだから
好きと思い込めば気持ちがイイし

……あれ?痛いだけで気持ちよくないな
なんでだろう?
愛もない快感もない、無いものだらけだ
俺には何も無い
ああ、ちゃんと痛みはあるのか
痛いだけマシか…
だってもう、この痛みに頼るほかない


そんな思いで井波を選んだ4年間…

②に続きます

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