「十六夜清心」の中で出てくる、清元《梅柳中宵月(十六夜)》詞章

前回令和5年の歌舞伎座の演目紹介をしましたが、第三部の「十六夜清心」の中に出てくる清元の詞章を載せます。
恐らくセリフのところは役者が言うのだとは思います。
それと全体の上演時間の都合で抜いたりするところもあるかもしれません。
1月の歌舞伎座第三部に行こうと思っている方はご参考までに・・・。

清元《梅柳中宵月(十六夜)》詞章

〽朧夜に星の影さえ二つ三つ 四つか 五つか 鐘の音も もしや我身の追手かと、胸に時うつ思いにて 廓をぬけし十六夜が 落ちて行方も白魚の、船の篝に 網よりも 人目厭うて後先に 心置く霜川端を、風に追われて来たりける
「嬉しや今の人声は、追手ではなかったそうな、廓を抜けてようようと、ここまでは来たれども、行先知れぬ夜の道、どこをあてどに行こうぞいの」
暫し佇む上手より、梅見帰りの船の唄
〽忍ぶなら 忍ぶなら 闇の夜は置かしゃんせ 月に雲のさわりなく 辛気待宵十六夜の うちの首尾はエエよいとのよいとの
〽聞く辻占にいそいそと雲脚早き雨空も 思いがけなく吹き晴れて 見かわす月の顔と顔
「ヤ十六夜じゃないか」
「清心様か、逢いたかったわいなア」
すがる袂も綻びて、色香こぼるる梅の花、流石こなたも憎からで
「見ればそなたは唯一人、廓をぬけてどこへ行くのじゃ」
「どこへ行くとは胴慾な、今日ご追放と聞いた故、ひょっとこれぎり逢われまいかと、思えば人の言うことも、心にかかる辻占に、人目を忍んできた私、いずれへなりと、ともどもに連れてのいて下さんせ」
「その志はかたじけないが、ふとした心の迷いより、ご恩を受けし師の坊の、お名を汚せしもったいなさ」
ただ何事もこれまでは夢と思うて清心は今本心に立ちかえり
「京へ上って修行なし、出家得脱する心、そなたは廓へ立帰り、よい客あらば身を任せ、親へ孝行尽しやいのう」
「そりゃ情けない清心様、今更言うも愚痴ながら、悟る御身に迷いしは、蓮の浮気や一寸惚れ 浮いた心じゃござんせぬ」
〽弥陀を誓いにあの世まで かけて嬉しき袈裟衣 結びし縁の数珠の緒を たまたま逢うに切れよとは、仏姿にありながら、お前は鬼か清心様、聞こえぬわいのと取縋り、恨み嘆くぞ誠なる
「そう言やるは嬉しいが、見る影もない所化あがり、わしに心中たてずとも、思い切るのがそなたの為」
「そんならどうでも私をば、連れてのいては下さんせぬか」
「さア悪いことは言わぬほどに、早う廓へ帰りゃいの」
「そのお言葉が冥途の土産」
〽岸より覗く青柳の、枝も枝垂れて 川の面、見ずに入りなん風情なり
「南無阿弥陀仏」
既にこうよと見えければ、清心慌て抱き留め
「アアこれ待った、早まるな」
「イエイエ放して殺して下さんせ、所詮長らえ居られぬ訳故」
「ナニ長らえて居られぬとは」
「勤めする身に恥ずかしい、私ゃお前の」
「オオ、そんならもしや」
「アイナア」
「チエエ、このまま別れて行く時は、腹な子迄闇から闇、とあって一所に伴わば 廓をぬけしそなた故、捕らえられなばかどわかし、再び縄目に逢わんより、いっそこの場でともどもに」
「そんなら死んで下さんすか」
「ほかに思案はないわいの」
ほんに思えば十六夜は 名よりも年は三つまし、ちょうど十九の厄年に、我が身も同じ二十五の、この暁が別れとは、花を見捨てて帰る雁、それは常世の北の国、これは浄土の西の国、頼むは弥陀の御誓い
〽なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ
〽これがこの世の別れかと、互いに抱き月影も、またもや曇る雨もよい
「この世で添われぬ二人が悪縁」
「死のうと覚悟極めし上は」
「少しも早う」
「南無阿弥陀仏」
〽西へ向いて合わす手も、凍る夜寒の川淀へ、ざんぶと入るや水鳥の、浮名を後に残しける。

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