閉じ込めれらる
僕は幼い頃からよく閉じ込められることがあった。
それは僕が八歳の頃のことで、季節は八月だった。家族は出かけていて、僕は夏休みの宿題に取り組んでいた。アサガオの観察日記や、自由研究、両手に持ちきれないほどの問題集が山のようにあった。去年の夏休み、最後まで宿題に手をつけなかったことでかなり苦い記憶が残っており、今年はそれを回避するために真面目に、コツコツと、取り組もうと心がけていた。
たし算の筆算を解いているとき、玄関のインターホンが鳴った。戸を開けてみると、宅配業者の男性が立っていた。半袖の作業着を着て、肌はマロンモンブランの栗みたいに茶色く焼けていて、額からは汗が溢れ出している。
「こんにちは。お母さんかお父さんはいるかな?」
僕は首を振り、家には僕一人だけであることを伝えた。宅配業者の男性は残念そうな顔をして、首にかけていたタオルで額の汗を拭い、作業服の胸ポケットから伝票を取り出した。
「それなら、ここに受取のサインをしてもらえるかな? ここだよ」
彼は点線で囲われた『印』の文字に指を差した。僕は言われたとおりに自分の名前を書いた。
「助かったよ坊や。それから荷物なんだけど、どこに運べばいいかな」
彼は家の門に立てかけていた大きな長方形の段ボールを見た。
「組み立て式のベッドらしくて、とても重いんだよ」
「なら、玄関のすぐそこに置いてもらっていいですか」
僕は玄関の近くにある壁を指した。宅配業者の男性は、「あらよっと」と掛け声を出して大きな段ボールを持ち運んでくれた。壁や廊下が傷つかないように慎重に運んだが、動作は遅くなかった。どちらかと言えば早くて、彼は熟練の宅配業者だと子どもの目にもすぐに分かった。
荷物の受け取りを済ませると、僕はすぐに問題集の続きに取り掛かった。今日の予定では昼から国語の漢字ドリルを一冊、最低でも半分済ませなければならない。
僕は黙々と計算を解いていった。たし算引き算の筆算、長さに関する文章問題、それから苦手とする九九の暗唱などをこなしていった。
午前中の宿題を終え、トイレで用を足していると、大きな揺れが発生した。すぐに収まると思ったが、意外にも長く続き、外に出た方がいいと思った。しかし、僕はまだ出している途中だったので、トイレから出ることができず、まず出し切ることだけに集中した。
幸い揺れはそれからすぐに収まり、僕も出すものを出し切ることができた。トイレの水を流し、さあ、外に出ようとするとドアが開かなかった。ドアノブを動かしてもガチャガチャと音をたてるだけで、ドアは開かない。強く押しても引っ張ってもガタガタと音を立てるだけで、これも効果はなかった。力任せにドアを殴ったり、蹴ったりしてみても無駄に終わった。残ったのは手足の痛みと無力感だけだ。
僕はその場に崩れ落ち、どうしてドアが開かないのかと真剣に考えた。そしてあることに気付き、トイレのドアの下を覗いてみた。小指ほどの隙間からは長方形の段ボールの包みが見えた。さっきの地震で荷物が崩れて、倒れてしまったのだ。それも間の悪いことにトイレのドアを塞ぐような形で。
結局、僕はトレイに五時間ほど閉じ込められることになった。助け出してくれたのは母で、僕は軽い脱水症状を起こしていた。父は僕がトイレから出られなくなった話を聞いて、涙が溢れるほどに笑っていた。
この出来事をはじめとして、僕はいろいろな場所で閉じ込められることになった。遠足バスの中に置き去りになったり、学校の個室トイレの鍵が壊れて、半日出られなくなったり、散々な目にあった。
こういった事故は一度や二度なら笑い話で終わる。しかし三回、四回と数を重ねていくとさすがに両親も心配し始め、近くの神社でお祓いを受けることになった。白装束の神主が大幣おおぬさをバットでも振るように大きく振り回し、なにかおまじないみたいな言葉をぶつぶつと呟き、最後に僕の前に立ち、大幣で僕の両肩を叩き、「キェエーーイ」と奇声をあげた。
「もう大丈夫です。今後この子は安全安心した人生を送れるでしょう」
両親は神主に深々と頭を下げ、白い封筒の包みを手渡していた。神主はその封筒を懐に潜め、にんまりと笑っていた。
お祓いを受けた本人はというと、神主の奇怪な動きに驚いて身動きが取れずにいた。滅多にしない正座のため両脚は痺れて満足に動かすこともできない。立ちあがろうとすると、脚の痺れでふらふらとしてしまう。僕の足取りに不安を覚えたのか、母が手を貸してくれた。そして「さあ、九郎も御礼を言いなさい。神主さまのおかげで貴方の厄を取り払ってくれたんですから」と言った。
「ありがとうございました」と僕は言った。頭の下げ方がダメだったのか、母が後頭部を強く押してより低い姿勢になった。
「お気になさらないでください。当然のことを行なっただけです」神主は満足そうな表情をしていた。「そうだ、坊や、きみにこれをあげよう」
神主がくれたのはオレンジ色のお守りだった。表には『安全祈願』、裏には神社名が記している。
「これは日本一ご利益があるお守りだよ。これがあればきみはより安全安心で、幸せな日々を送れるはずだよ」
「良かったな、九郎」
「さあ、神主さまにもう一度御礼を言いなさい」
両親は神主に礼をするように催促してくる。僕は言われたとおりにもう一度神主に礼を述べ、頭を深く下げた。今回は母に頭を強く押さえられることもなかった。
神社でお祓いを受けた翌年、僕は中学生になった。地元には三つの校区があり、小学校を卒業すると同時にほとんどの生徒が一つの中学校に叩き込まれ、三年間を一緒に過ごすことになる。生徒の中には校区外の仲のいい友人たちがいて、「久しぶり!」「元気だったか?」「お前と一緒なんて最悪だ」とくだけた挨拶をしあったりした。
僕は自分の校区出身の生徒があまりいないクラスに属することになった。机の位置は名前の順に割り振られ、「外見そとみ」という珍しい苗字から教室の真ん中にある席に座ることになった。
教室の中央の席に座るのはあまり心地のよいものではなく、いつも視線を気にしてしまい、背中がむずむずとした。ときどき、丸めたノートの切れ端が飛んでくることもあった。床に落ちたそれを広げると、「黒板が見えないから頭を下げろ」と書いてあり、後ろを振り向くと、別の校区出身の高橋が指をさしていた。彼はサッカー部に所属していて、クラスの中心人物だった。僕は高橋の要求を拒否した。
昼休みなると、僕の席には男子と女子の混成グループが集まる。そして弁当を片手に話し合いを始める。勉強や部活のこと、それから怖い上級生たちの名前をあげたりした。
「俺は細貝先輩と知り合いだから色々と可愛がられているんだ」
高橋はサッカー部に所属する怖い上級生について自慢していた。
「細貝先輩って怖そうな見た目だけど、案外いい人だよね」
「でも目が細くてすっげえ怖いぜ。あの人」と高橋が付け加えた。
高橋たちは昼の予鈴が鳴るまで延々と話し続ける。一体どこからそんなに話すネタを持ってくるのかと不思議に思ったりした。
教室の中心に位置する僕の席の周りに、クラスの中心人物たちが集まるのが恒例になった。席の位置的に彼らのグループに誘われるのが自然の成り行きかもしれないが、そんなことは決して起こらなかった。あったとしても僕ははねつけるだろう。なぜなら中心人物は高橋であり、彼は黒板の一件以来僕を目の敵にしていた。
昼になると僕は弁当を入れてあるサブバッグを持って席を立つ。するとすぐに高橋たちのグループが集まり、僕の席を占拠する。彼らにとって僕は邪魔者であり、僕にとっても彼らは害虫のようなものであった。
教室を離れた僕は昼休みになるといつも昼飯難民になる。どこか、安全で安心して弁当が食べられる場所を探すために校舎や体育館などをあてもなく彷徨する。足を進めていくうちに体育館の用具倉庫が適当だということを発見した。そこには使い古されたバレーボールや穴の空いたマットが積まれていて、そして人気もなかった。夏場は蒸し風呂みたいになるので使用は避けたが、それ以外の季節だと意外と過ごしやすい場所だった。
二学期の終盤、僕はいつものように体育館の用具倉庫で弁当を食べていると、外からガチャリと音がした。箸と弁当を置き、ドアを開けようとしたがびくともしなかった。重い鋼鉄製のドアの隙間から僕を呼ぶ声がした。高橋たちだった。
「外見、そこで弁当食ってうまいか?」
高橋が言った。その周りで笑い声も聞こえてきた。クスクスと笑う女子生徒の声に、下劣な男子生徒の声が混じっている。
「ねえ、開けてよ。午後からの授業に出れないじゃないか」
「大丈夫だよ。早引きしたって俺が言っておいてやるから」と高橋が言った。「お前はそこで一人で弁当でも食べてろよ。放課後には開けてやるからさ」
外から男子生徒と女子生徒の笑い声が再び聞こえてくる。僕は重たいドアをガチャガチャと動かして続けたが、ビクともしない。家のトイレのドアと違って、蹴ったり殴ったりしても破れそうにはなかった。
予鈴がなると、「やべー次は移動教室だろ。遅れると浜田がうるせえぞ」とグループの一人が言い、走り去っていく音がした。足音はどんどんと遠くなり、そして聞こえなくなった。
本鈴が鳴り止むと僕は冷たい鋼鉄のドアに耳を寄せて外の様子を探ってみた。外は静かで、話し声もしない。ときどき風が吹いたり、けたたましい車のマフラーの音がする。それ以外だと音楽室からピアノの音色が流てれてくるだけだ。
鋼鉄のドアから僕は一旦離れ、食べかけの弁当の残りを平らげた。それから今後について考えた。高橋たちが放課後にドアを開けるとは思わない。あの連中の言うことなど僕は信じる気もなく、残された手段について思案した。他の生徒がドアを開けてくれるか、それとも自ら抜け出すか、だ。
空の弁当をサブバッグにしまい、中からペンライトを取り出した。スイッチを入れ、用具倉庫の中を照らしてみた。細いペンライトの照明は薄い膜のような暗闇を切り裂いていく。光の細い筒の中で埃や塵などの粒子が舞っている。あらためてここは酷いものだと思った。普通の感覚を持っていればこんなところで食事などしない。それに足を踏み入れて、安心だと思うこともない。
でも僕はここで昼の休み時間を過ごしていて、不快になったことは一度もない。教室にいる高橋たちと同じ空気を吸っていることの方が不快で、そして教室よりも安心だった。
今まで散々閉じ込められた経験が、僕を落ち着かせているのだと思うと笑えてくる。神社のお祓いはなにも効果などない。日本一ご利益があるという首から下げているお守りはなんの役にも立たない。はっきり言って、父と母は金をどぶに捨てたようなものだ。僕に本当に必要なことは、百均で購入した安物のペンライトと落ち着いて物事に対処する心掛けと態度だった。
倉庫内を探っていると、天井の近くに小窓を発見した。サイズからすると、一人ぐらいなら通れる。僕は倉庫中のマットを集め、四つに折り畳み、積んでいった。高さがまだ足りなかったので、ボールがしまってある籠を持ってきた。ひっくり返してマットの上に置くとちょうどいい高さになった。グラグラとする籠に乗り上げ、小窓の鍵を外した。サッシには埃が溜まっていて、なぞって見ると指が黒く汚れた。小窓は固かったが、ゆっくりと時間をかけていくと開けることができた。サブバックを外に放り投げ、それから僕も頭からくぐって外に出た。
外に出るとき、背中と腰を強く打ってしまった。腰を抑えて立ち上がると、周りには上級生たちがいた。彼らは煙草を吸っていて、そして驚いた顔で僕を見ていた。上級生たちの一人が訊ねてきた。「お前、どこから出てきたんだよ」と。
「体育館の用具倉庫からです」
僕は開いている小窓を指で差した。上級生たちは口をポカンと開けている。
「用具倉庫でなにしてたんだ?」
「昼飯を食べてたんです」僕はサブバックから空の弁当箱を取り出した。「でも、クラスメートたちに閉じ込められてしまい……」
「あそこから抜け出したってことか」
僕は黙って頷いた。
「このことは言わないでくださいね。いろいろと面倒を起こしたくないので」
僕は上級生たちに頭を下げて、その場を去ろうとした。
「おい、待て」
上級生の一人が呼び止めてきた。ナイフで切ったような細くて鋭い目つきをして、僕に近づいてくる。
「お前を閉じ込めた奴らって誰だ?」
僕は高橋をはじめとしたグループに属する連中の名前を一人ずつ教えた。
「ああ、高橋か……」上級生がため息をついた。「わかった。お前はもう行っていいぞ」
その上級生は追い払うように手を振った。僕はもう一度頭を下げ、そこから離れた。
それから僕は何事もなかったように授業に参加した。高橋たちは驚いた表情をして、ざわついていたが、話しかけてくることもなかった。詰襟の制服が汚れているだけで、僕は無傷だった。教壇に立つ教師が遅刻した理由を訊いてくると、「体調が悪くて保健室で休んでいました」と僕は答えた。
翌週の月曜日、教室に行くと、高橋たちの様子がおかしかった。よく見ると、彼ら彼女たちの顔が腫れていた。目元は青くなり、頬や首筋には赤い斑点がいくつもあった。グループに所属する男子たちは丸坊主になり、女子たちは戦中の女学生みたいなおかっぱ頭になっていた。
「あいつらどうしたの?」僕は席に着いて、近くの同級生に訊ねた。
「上級生たちに目をつけられて、制裁を喰らったんだって」
「ふーん」
僕は教室の隅で集まり、びくついている高橋たちを見た。以前の威勢はどこにもなかった。
用具倉庫の一件以降もやはりどこかに閉じ込められてしまう。定番の個室トイレで鍵が壊れていたり、山奥にある廃墟ホテルを探索しているときも道を失って、一夜をそこで過ごすはめになったり、散々な目にあった。ギネスブックにはカミナリに七回も直撃された男や、五回もハリケーンに襲われて家を壊された女がギネス記録として認定されている。僕も両手の指では足りないほどにどこかに閉じ込められた男として申請すれば登録してもらえるかもしれない。そして有名になってお金持ちになれるんじゃないか、と真剣に考え、両親に話してみた。
父はため息をつき、黙って首を振った。母は僕の両肩に手を置き、「お母さんが毎日お祈りしているから、大丈夫よ。必ず良くなるわ。今後絶対九郎はどこにも閉じ込められないから、心配しないで」
母は潤んだ目で僕を見つめていた。おかしなことを言ったつもりはなかったのだが、彼女の真剣さに僕は口をつぐんだ。
両親もやはりどこかで僕のことを心配しているのだろう。頻繁にどこかに閉じ込められ、その度に心配することは心の重荷になっていたのかもしれない。
僕は好きで閉じ込められたりはしないが、起こってしまうのは事実だ。神仏の類を一切信じない僕にとってできることは、閉じ込められたら抜け出すために知恵を働かせることぐらいだ。
高校、大学と順調に進学しても僕は頻繁に同じ目にあう。他者から嫌われて意図的に閉じ込められるのか、運命の悪戯によって偶発的に閉じ込められるのかは別として、僕はこれが自分の運命なのだろうと自然と受け入れていった。不安や恐怖は想像するから怖い。実際にそれと向き合えば克服する方法などいくらでもある。何度も閉じ込められた経験から、僕はかなり気楽に考える癖がついていた。
大学生のとき、僕はサークルの飲み会で知り合った山下玲子とデートをすることになった。彼女は同じ地元で、同じ中学に通っていたと話した。クラスも一緒だったと明かしてくれたが、僕は覚えておらず、首を傾げてしまった。
「外見くん、最悪だね」
「ごめん」と僕は彼女に謝った。「これでも必死に思い出そうとしたんだ。その努力は認めてほしい」
「認めましょう。そのかわり、今度どこかに連れて行って」
その飲み会から一ヶ月後に、僕らは高層ビルの中にある水族館に一緒に行くことになった。そこにはアシカやカワウソ、ペンギンにオットセイなど多くの水生動物が展示されていて、そのことを玲子に話すと、「楽しみだね」と喜んでいた。
彼女は笑うと口元を緩めて八重歯を覗かせてくる。白く尖った歯からは彼女の幼さが垣間見えてくる。
僕らはエレベーターに乗り込み、目的の階へと向かった。子連れの家族やカップルが多く、僕と玲子は必要以上に身を寄せることになった。
「なんかごめん」
「うん、気にしないで」
すし詰めのエレベーターの中で、僕と玲子の指先が触れ合うことがあった。互いの手が触れ合うとすぐに離れるが、少ししてまたどちらからともなく相手の指先を探り当て、また勢いよく離れていく。そんなことを何回か繰り返しているうちに僕らは手を握り合っていた。
僕は視線をまっすぐ向けたままでいたが、ゆっくりと玲子に視線を向けると彼女も僕をじっと見ていた。目が合うと自然と別の方向を向いてしまう。でも僕は彼女の手を離さなかった。玲子もそんな素振りを見せなかった。
僕が少し力を強めて彼女の手を握ると、彼女も返事をしてくれる。小さくて柔らかな手で握り返してくれる。エレベーターはすし詰め状態で暑かったが、それ以上に僕の身体は火照っていた。
あともう少しで目的の階に到着するところで、エレベーターが止まった。ガクンと大きく揺れ、静まると乗客たちがざわつき始めた。
「外見くん……どうしたのかな」
「多分、エレベーターが途中で停止したんだよ。原因はよく分からないけど、大丈夫だから安心して」
玲子の方から僕の手を強く握ってきた。彼女は不安だった。それは口に出さなくても分かる。乗客の一人が制御盤のインターホンを押し続けているが、コール音が続くだけだ。携帯電話を取り出して外部に連絡を取ろうとする乗客もいたが、「圏外だ」と嘆いていた。
エレベーター内がよりざわつき始めた。幼い子どもは泣き出し、母親があやし始めた。白髪まじりの男性が舌打ちをして、「さっさと泣き止ませろ!」とエレベーターの壁を強く叩いた。
「壁を叩くなよ。揺れて落ちたらどうするんだよ」と女を連れた若い男性が言った。
「なんだ、その言葉遣いは! 年上に対して敬意を持たんか!」
エレベーター内でのざわめきは争いごとにシフトアップした。狭いエレベーターがより狭く感じてしまう。僕は玲子をそばに引き寄せた。彼女の肩は震えていて、怯えた瞳をしている。
「大丈夫。すぐに助けに来るよ。外部に連絡が取れなくても、外部の連中は気付いてるはずだ」
「たとえば……」
「水族館の係員とかだよ。僕らは水族館に直結のエレベーターに乗っているんだ」僕は玲子の背中を優しく撫でた。「気付かないわけがない」
「そうだよね……別にこのまま落っこちるわけじゃないよね」
「当たり前だよ」
僕はメッセンジャーバッグから水のペットボトルを取り出し、少し飲んだ。玲子にも勧めると、彼女もペットボトルに口をつけた。
エレベーターの中に閉じ込められて三十分以上が経った。外部からの連絡は一向になく、インターホーンを鳴らし続けても応答がない。半数以上の乗客たちの顔には疲労の色が見え始めている。座りたくてもそのスペースもなく、立ちっぱなしだった。
「くそ、早く助けんか馬鹿たれ!」
白髪混じりの男性が言った。不機嫌な態度で、時々舌打ちをする。そして壁を強く叩いて、「クソったれ!」とぼやいた。
「頼むから、静かにしてくれよ……」
乗客の中の一人が呟いた。白髪混じりの男性が周囲を見回り、犯人を探そうと躍起になっている。
僕はペットボトルの水を少しずつ飲みながら、様子を見守っていた。玲子の手を握りながら。
「あの、すいません」と子どもを抱えた女性が話しかけてきた。「その、ペットボトルの水を少しいただけませんか?」
「構わないですよ」僕はペットボトルを女性に渡した。
「ありがとうございます」
女性は軽く頭を下げ、ペットボトルを受け取ると、抱き抱える子どもに与えた。
「外見くん、優しいんだね」
「困った時はお互いさまだろ? それにもう少しすれば助けが来るよ」
「なにを呑気なことを言ってるんだ」と白髪混じりの男性がくってかかってきた。「全然助けなどこんじゃないか。外部の奴らは事故にも気付いてないんだよ」
玲子は身をすくめ、グッと僕のそばに寄ってくる。手を握る力も強くなる。
「大丈夫だよ。戯言に耳を貸す気はない」
男性は不平不満を口にし続けていたが、僕は耳を貸さなかった。そのうち男性は言い尽くしたのか、口を閉じて、壁にもたれかかり、死にたくないと何度も呟き始めた。女性に抱き抱えられていた子どもも不安そうな表情をしている。男性がこぼした弱音がエレベーターの中に浸透し始めていた。
僕は片方の手を玲子の腰にまわし、抱き寄せた。それから「気にしなくていい。大丈夫だよ」と囁いた。
「外見くん、どうしてそんなに冷静なの?」
「こういった経験が何回もあるんだ。うんざりするぐらいにね」と僕は言った。「家のトイレの中や、遠足バスに用具倉庫とかもあったな。」
「用具倉庫って、中学のときのこと?」
玲子が僕の胸に顔を埋めていた。僕の心臓が高鳴る。
「そうだけど。なんで知ってるの? 僕は誰にも話していないよ」
「高橋くんたちに話したことが原因なの」
「どういうこと?」
僕は玲子を見ようとするが、彼女は視線を合わしてくれなかった。
「外見くんが体育館の用具倉庫に入っているのを見たこと彼らに話したの。とくに意味があるわけでもなく、ほんの些細な会話の流れでね。それを知って高橋くんたちが……」
玲子はその先のことを話さなかった。彼女がより強く僕の手を握ってくる。
「本当にごめん」と彼女が言った。「ちゃんと謝らないと分かっていたんだけど、どうしても言い出せなくて」
「もういいよ」と僕は言った。「済んだことだし、逆に感謝しているぐらいだから」
「どうして?」
「さっきも話したけど、僕は昔からよく閉じ込められてきた。その度に自分の無力感を感じ、どうすればいいのかと考えたよ。お袋は神仏に祈り続けていたし、親父はもう諦めていた。色々と試行錯誤を繰り返して、結局自分の力でどうにかしないといけないと思ったんだ」
「自分の力で?」
「そうだよ」と僕は答えた。「そしてどんなときも冷静でいることが肝心だともね。だってそうだろ? 閉じ込められるってことは、逆に言えば中から抜け出せる可能性があるんだ。たとえ、難しくても諦めたらそこでおしまいだよ」
「でも、ここからどうやって抜け出すの?」
「待つんだよ」僕は玲子の背中に手を回した。心臓がより高鳴ってくる。「必ず助けが来る。それまで体力を温存させておくんだ」
玲子も僕の背中に手を回してきた。彼女は胸に顔を埋めたまま頷いた。
それから少しして、エレベーターがまたガクンと動き出した。制御盤のインターホンから係員の声が聞こえてくる。
「乗客の皆さん、聞こえますか?」係員の声が聞こえた。
壁にもたれかかっていた白髪混じりの男性がインターホンに飛びつき、「早く助けにこい!」と叫んだ。
「安心してください。すでにシステムは復旧しました。最寄りの階でドアが開きます。医療班も待機しているので、気分や体調が悪い方がいれば申し出てください」
乗客が安堵のため息を漏らし、さっきまで覆っていた不安感が一蹴された。雨が止み、雲の隙間から日が射すように乗客たちが穏やかな顔つきになっていく。
「言っただろ」
「うん」と玲子が頷いた。
エレベーターが停止し、ドアが開いた。医療班が乗客たちに声をかける。係員たちが今回の事故と対応の遅れについて謝罪を重ね続けている。
「大丈夫です。どこも怪我はしていません」と僕は言い、玲子の手を握り閉じ込められていたエレベーターの中から、外へ足を進めた。
相変わらずどこかに閉じ込められることはあるが、以前と変わった点が一つだけある。僕一人だけではなく、玲子も巻き込まれてしまうことだ。エレベーターの一件以来、彼女も経験を重ね続け、怯えたりすることがなくなった。
「また外見くんに巻き込まれちゃったよ」
玲子がぼやくたびに僕は申しわけなく彼女に謝る。
しかし彼女は、「大丈夫だよ。もう慣れっこだから」と笑い、八重歯をのぞかせる。
大学を卒業して二年後に玲子と籍を入れた。これからもどこかに閉じ込められ、その度に玲子に愚痴を言われるのだろうと思った。でも、彼女が子供を身籠ったことをきっかけに僕は閉じ込められることがなくなった。玲子にそのことを話すと、
「いいことじゃない」
と喜んでいた。彼女は大きくなりつつあるお腹に手を当てて、今後の生活について話を始めた。
「子育てを考えると持ち家がいいと思うんだけど、あなたはどっちがいい?」
「そうだな」と僕は腕を組み、唸り続けた。「玲子はどうしたい?」
「断然、持ち家よ。やっぱり自分たちの家で、子供を育てたいし、何より賃貸だと老後のことまで考えないといけないでしょ」
「そうだね。なら持ち家にしよう。今度郊外の物件を見に行ってみよう」
「そうね」と彼女は言った。お腹に手を当てて、とても母親らしい顔つきになっている。「家を買うなら、当然車も必要でしょ」
「うん」
「これから何人子供が生まれるか分からないから、一応、大きめの車を買わない?」
「大きいって、どれくらいの?」
「アルファードやベルファイヤみたいな箱型の車よ」
僕はスマホで玲子があげた車種を調べた。目が飛び出すほどの価格に驚き、無理だと言った。
「家計なら任せて。私がしっかり管理するから」
玲子は自信満々に言った。暇になれば共働きするとも言ってくれた。
僕はしぶしぶ同意した。納得した覚えはないが、彼女が喜んでくれるならそれでよかった。
僕は二十代にして、大きな車と持ち家を購入することになった。月々の支払いのせいで当然お小遣い制になった。同僚たちとの飲みにも行けなくなった。以前よりも息苦しく、そして身動きの取れない生活が続く。そんなことを考えていると、僕はふと思った。今、置かれている環境に閉じ込められているのではないか、と。家庭と仕事。子育てに、ローンの支払い。近所付き合いから玲子の両親との関係など、以前とは違った目に見えない問題がずらりとまわりをとり囲んでいる。
閉じ込められていないと思っていたのは勘違いだった。僕はまだ閉じ込められている。目に見えないだけで、以前となに一つとして変わっていないのだ。
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