蟻の兵隊 上映のお知らせ!今こそ知ろう戦争を、、、

引用させていただいた!
素晴らしいと思います。

「捕虜になる前に死ねというのが日本軍の教えだったのです」
「蟻の兵隊」のなかで主人公の奥村和一さんが敵として戦った解放軍兵士に語った言葉である。東条英機が昭和16年に示達した戦陣訓は、「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節で膨大な兵士の命を奪い、沖縄戦では民間人の集団自決の要因となった。
その奥村さんは戦後3年たっての戦闘で重迫撃砲の直撃をくらい、左半身に無数の砲弾の破片を受け意識を失った。撮影で現場を再訪した奥村さんは民家の壁に開けられた大きな穴の跡を見つけると、はらはらと泣いた。彼を助けるために戦友たちが開けた穴だったのである。
「もはや私は役に立たない兵隊です。連れていっても足手まといになるだけなのに、その私をどうしても捨てられないと言うのです。仲間を残して自分だけ逃げるわけにはいかない、ということなのでしょうね」
重傷を負った奥村さんは馬の背にくくりつけられ撤退行に加わった。
負傷した兵士には手榴弾が一つ渡された。敵に捕まる前にこれで死ねというのである。厚い人情と、それとは真逆の酷薄さ… 軍隊はこの2つで成り立っている。
暗闇のなか奥村さんは仲間たちとはぐれてしまい、コーリャン畑のなかに迷い込んだ。すると偶然にも同じ旅団出身の戦友と出くわした。砲撃は激しさを増し、耳をつんざくような炸裂音が間断なく2人を襲う。塹壕のなかで震えていると、突然戦友が「この手榴弾で抱き合って死のう」と言った。
「でも、私は死ねませんでした。なぜこんなところで、しかも敗戦後の戦闘でと思ったら、どうしても死ぬ気になれなかったのです。一度死ぬ気をなくしたらもうだめです。私は持っていた手榴弾を捨てました」
死と紙一重の奥村さんにこの決断をさせたのは、理不尽な戦争を強いられたことへの「こんちくしょう」という怒りだった。おかげで映画「蟻の兵隊」は存在する。
翌日、2人はコーリャン畑を歩いているところを発見され、解放軍の捕虜となった。こうして奥村さんは、6年2カ月に及ぶ長い抑留生活を送ることになる。ようやく引き揚げるこのができたのは、日本が高度経済成長期に入ろうとする昭和29年のことだった。
写真:岡本央

8/3(土)‐8/16(金)「蟻の兵隊」@シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)上映時間 連日11:00 初日上映後に監督舞台挨拶

今こそ知ろう戦争の悲惨な事を!

いつもご覧いただきありがとうございます