小津安二郎、あるいは日常の普遍性

今年は小津安二郎の生誕120年にあたり、日本のみならず、世界各地で、様々な催しが開かれている。昨日開催された東京国際映画祭でも、ヴィム・ヴェンダース、黒沢清、ジャ・ジャンクー、ケリー・ライカートといった、世界の映画界の第一線で活躍する映画監督たちが、小津をめぐるシンポジウムに参加している。小津ほど、世界の監督たちに愛され、また影響を与えた日本の監督はいないのではないだろうか。すぐに思いつくだけでも、侯孝賢、アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタなど、錚々たる面々が、小津からの影響を公言している。しかし、このような小津の世界的な評価には、オリエンタリズムやジャポニズムは微塵も見られない。小津の映画が世界中で、とりわけ映画監督たちによって評価されているのは、小津の映画が特別に普遍的であるからだろう。では、小津の映画はいかなる意味で普遍的なのだろうか。

結論から言ってしまうと、小津の普遍性は日常の普遍性である。小津は日本の中産階級のありふれた日常を描いているなどと言われることがあるが、小津の日常はノスタルジーの対象となるような古き良き日本の生活様式などとは何の関係もない。小津における日常とは、物語を支配する因果関係の図式が稀薄化する時空間に他ならない。そこに小津映画の普遍性が現れるのである。

小津がそのような日常空間を現れさせるために用いている手法の一つが、「ピローショットpillow-shot」(評論家のノエル・バーチが、「枕詞」から作った造語で、あるシークエンスの前に、導入として置かれているショット)や「静物画」と呼ばれることが通例となっている、人物のいない風景や家屋の一画などを切り取るショットである。時には人物さえ、そうした風景画や静物画を構成する要素となっているように見える。『晩春』の京都の庭園でのシーンでは、石庭を切り取るいくつかのショットの合間に、座り込む二人の人物のショットを配置することで、石庭を構成する石と人物の間に等価性を作り出している。あたかも、映画におけるカメラの眼差しのもとでは、行為する主体としての人間と、行為が展開される場としての事物の間にヒエラルキーは存在しないかのようだ。小津はこうしたカットをシーンとシーンの間にふんだんに挟み込んでいる。そこでは、事物は画面を構成するほとんど抽象的と言っていい「フォルム」に還元されており、手段と目的の連関から軽やかに切り離されている。つまり、事物はそこで、何のためにあるのか、何の役に立つのかといった問いから解放され、純粋なフォルムとして画面を構成しているように見えるのである。そして、事物が目的から切り離されたフォルムとして存在するということが、小津が描き出す日常と呼応する。私たちは通常、自分の関心や目的に応じてしか世界を見ていない。私が何かを書こうとするとき、私はペンを書くための道具としか見ておらず、その素材や形、手触りにさえ大した注意を払ってはいない。小津における日常は、行動し、見る主体である私たちの目的や欲望が世界に押し付けている限定から、世界を解放する。それは、私たちが実現すべき特定の目的に囚われている時間と空間ではなく、特定の目的へと進むことがない時間と空間である。そして特定の目的から切り離される日常においてこそ、世界はその輝きを見せるのである。

もちろん、こうしたカットは、物語の展開にとって必要な、人物たちが行動する環境を映し出すものでもある。しかし、その明らかに美的な構成によって、それはしばしば「場違い」な印象を与える。それはこれから起きる筋立ての状況説明には明らかにそぐわないし、今しがた行われた行為の帰結であるようにも見えないのである。この点に関してとても興味深い1949年の傑作『晩春』のワンシーンを考えてみよう。この映画は、妻をなくした大学教授の父親(笠智衆)と二人で暮らす娘紀子(原節子)が、父を一人にしたくないという理由で拒み続けてきた結婚をついに承諾する物語である。取り上げたいシーンは、父親の助手をしている若い男性と、紀子がサイクリングに出かけるシーンである。そこで、自転車に乗る二人が数カットにわたって映された後で現れるのは、海辺に揃って並べられた二台の自転車のショットである。このショットは、当然それに先立つ一連のショットの結果として現れる。しかし、寄り添って置かれた自転車の美しい配置は、それに先立つ行為=運動の結果として偶然現れたものとしてはあまりにも不自然で、何らかの作為性を感じずにはいられない。それによって、この美しいショットは、展開中の物語に対してある種の自律性を獲得する。このように、ショットが前後の脈絡から緩やかに離脱し、浮遊することで、その意味は曖昧になる。ちょうど一つの単語が、文脈から切り離されると意味が定まらなくなるのと同じである。すると、こうしたカットは、登場人物の心情や夢想を象徴的に暗示したり、物語の進行を予兆したりしているのか、それとも反対に、ただ単に意味を欠いたモノの現前を示しているだけなのかが、決定不可能になる。こうして、意図的なものと非意図的なもの、主観的なものと客観的なもの、想像的なものと現実的なもの、精神的なものと物理的なものの確固たる境界が消滅するのである。実際、この寄り添うような自転車は、それに乗ってやってきた男女の親密さを象徴的に表すものであるように見える。しかも、杉村春子演じる叔母が、この二人をくっつけたがっているので、我々はそのような象徴的な意味をこのショットに読み込むように誘われる。しかしながら、この象徴的な意味作用は、のちに男の方に婚約者がおり、そのことを紀子はずっと前から知っていたことが判明することで、崩れ去ることになる。こうして、私たちは結局、物語の進行に寄り添うような象徴的意味を欠いた、それ自体で価値のあるイメージへと連れ戻されることになるのである。それはあたかも小津が、そのような象徴的な意味の読み込みは無用であり、映画における映像は、常に物語から自律しうるのだということを私たちに教えてくれているかのようである。小津は私たちが安易に読み取ろうとする象徴的意味作用と、それによって我々が物語の今後の進行に対して抱く期待ないし予知を無効にしたのである。

この点に関して興味深いのが、『晩春』の終わり頃、ついに結婚を受け入れた紀子
が(これには、父親自身が再婚をほのめかすという策略があり、紀子は父親の再婚に少なからぬ嫌悪感を抱いている)、父親とともに京都旅行に行った際の、あの有名な旅館のシーンである。旅館で布団を並べて寝る前に、紀子は父に話しかけようとするが、父はすぐにいびきをかいて寝始めてしまう。紀子は会話を中断し、上を向いて微笑むと、部屋の花瓶のショットが挿入され、再び娘の顔のクローズアップのショットに戻ると、娘はもう微笑んではおらず、物思いにふけっていて、その表情はむしろ陰鬱でさえある。するとここで再び花瓶のショットか挿入される。ここで花瓶は、明らかに上の方を向いている紀子の目線の先にあるのではない。したがって、花瓶は紀子が見ているものではないだろう。そうなると、まず考えられるのは、この花瓶は物思いにふけっているように見える紀子の心象風景であり、彼女の心情を何らかの形で象徴しているということだろう。実際、花瓶は、孤独な父の運命を象徴するようで、自分が結婚すれば一人残されることになる父親の孤独と、それを案じる紀子の心情を描き出しているように見える。

このシーンには、それなりに説得力のあるものからいかがわしいものまで、これまで数多くの解釈がなされてきた。このシーンを、娘の近親相姦的な欲望が父の眠りによって拒絶されたシーンと捉え、花瓶のよそよそしさが、父の無関心を象徴しているのだなどと解釈している者さえいる。この時、花瓶の映像に重なる父のいびきは、花瓶と父を同一化するものと解釈されることになる。先ほどの自転車のショットがそうであったように、小津のピローショットは、物語の進行あるいはイメージ同士の因果関係に従ったモンタージュから切り離されることで、権利上ありとあらゆる象徴的な解釈を招き寄せてしまう。そしてこの場合、花瓶のショットは、紀子の何らかの心情の象徴していることになるだろう。しかし同時に、このショットは、ただ影と光によって構成された抽象的なフォルムからなる静物画のようにも見える。その場合、父のいびきが花瓶の映像と重ねられるのは、もはや父と花瓶を同一視するためではない。むしろ反対に、このいびきは、このショットを純粋に夢想や心象風景とすることに抵抗し(心象風景であればいびきは捨象しても構わないはずだ)、そこに紀子の心情を読み取ろうとする私たちを、現実に引き戻すのである。花瓶のショットが二度現れることの意味も曖昧となる。それはこの花瓶に特別に意味があることを読み取らせようとしているようにも見えるし、このショットの最初の出現とともに開かれた花瓶を紀子の心象風景として読み解く可能性を、父親のいびきの執拗な侵入とともに閉じようとしているようにも見える。後者の場合、紀子の謎めいた表情のアップと壺の間にある関係は、象徴的な意味作用の関係ではなく、そこに明白な意味を読み取ることの不可能性となる。

このシーンは、フロベールの『ボヴァリー夫人』のなかで、ロドルフの愛人になったエマが、眠っているシャルルの傍で、ロドルフとの生活を夢想する場面を思い起こさせる。

 エンマ〔以下エマとする〕は眠ってはおらず、眠ったふりをしていて、そして、一方で彼がまどろみかけると、目が覚めて、別の夢想に耽るのだった。
 四頭立ての馬車を飛ばして、一週間も前から彼女は新しい国へと運ばれていて、そこから二人はもう戻ってはこない。腕をからませたまま、口も開かず、二人は進み、さらに進む。たいてい山の高みから、とつぜんどこかの壮麗な都市が見え、丸屋根〔ドーム〕があり、橋がかかり、舟が停泊し、レモンの木の森があり、白い大理石の大聖堂〔カテドラル〕がそびえ、その尖った鐘楼にはコウノトリが巣をかけている。大きな敷石のせいか、馬車はゆっくりと進み、道端にはいくつもの花束が並べられ、それを赤い胸着をまとった女たちがこちらに差しだす。鐘の音が聞こえ、雄ラバがいななき、ギターのささやきや噴水の音がまじり、そこから舞い上がる細かな水しぶきが、噴きでる水の下で微笑んでいる白っぽい像の足もとに山と積まれた多くの果物を冷やしている。〔中略〕そうしながら、彼女がありありと思い描く限りない未来には、何も変わったかことは起こらず、毎日がどれも素晴らしく、寄せる波同士のように互いにいていて、そして、それは果てしなく、耳に心地よく、青みがかかり、燦々と日に包まれた地平線となって揺らめいていた。だが子供が揺籃のなかで咳をしはじめたり、あるいはボヴァリーのいびきがいっそうひどくなったりして、エマはようやく明け方になって眠り込むのだが、その頃には夜明けが窓ガラスを白く染め、もう小僧のジュスタンが広場に出て、薬局の庇のある窓をあけていた。

フロベール『ボヴァリー夫人』芳川泰久訳、新潮文庫、2015年、350−351頁

フランスの文学理論家、ジェラール・ジュネットは「フロベールの沈黙」と題されたテクストの中で、この一節を分析している。ジュネットは、ここで使用されている自由間接話法の手法を論じながら、フロベールにおいては、登場人物の夢想の部分と現実の描写との間に、一方から他方への移行を示すようないかなる指標もないと指摘する。。自由間接話法とは、登場人物の言葉や想いを、「・・・と誰々は語った」とか「…と誰々は思った」という主節を入れずに表現する手法で、上の引用では「別の夢想に浸るのだった」以下が、エマの夢想を自由間接話法で描いている。そのため、引用した芳川訳は、この段落内の原文では半過去形になっているところを現在形で訳出している。自由間接話法における半過去形は、現在形が主節の時制と一致したものとみなされるからである。そこからまた通常の叙述に戻る時にも、それを示すための特別に文法的な(例えば時制など)変化があるわけではない。芳川訳は自由間接話法の箇所を現在形にすることで、その境目を作り出しているが、原文にはそのような形式的な区別は存在しない。それがどこで終わるのかも、実際不明瞭である。芳川訳では、「そうしながら・・・」を切れ目としてとっているが、この文は依然として自由間接話法になっていると取れなくもない。なのでジュネットは、ここでの自由間接話法の切れ目を、そのあとの「だが子供が揺籃の中で・・・」と考えているようだ。これは、夢想の中で描かれていることが、現実世界における事物と同様の密度、精緻さ、現前性を持って描かれていることを示すものである。実際、馬車から見える風景の細部の記述(ドームや橋だけでなく、大きな敷石、道端の花束、女たちの赤い胸着、噴水の水しぶき等々)は、眠りに入る前の夢想の内容としては驚くべき明瞭さを示している。つまり、登場人物の夢想という主観的な情景が、過剰なまでの物質的な現前性を持っているのである。実際、形式上でも、自由間接話法においては、語り手が登場人物なのか小説全体の語り手(通俗的な言葉で言えば「作者」)であるのかが曖昧になる。エマの主観的な夢想の描写が、語り手による描写の客観性を備えているのである。これによって、現実世界と夢想世界が曖昧になるというだけでなく、語り手の視点そのものが曖昧になる。この描写は登場人物エマによるものであるのか、それとも小説の語り手によるものであるのかが曖昧になるのである。これは、眼差しから主観的な相対性(個人的特殊性)を取り去る、フロベールが「絶対的なものの見方」と呼んでいたものの一つの実践と言えるだろう。

ここで興味深いのは、ジュネットが、現実世界と夢想世界の区別が曖昧になるこの「絶対的なものの見方」に関して、フロベールの文体と映画との接近を指摘していることである。

映画では、回想のシークェンスは(もっとも、現在では使われなくなっているが、ぼかしとか駒落としとかスローモーションとかといった作為的手段が、わざとらしく回想のしるしを刻みつけない限り)、その持続の全体にわたって、観客によって回想と感じられることは決してない。《作中人物が回想する》という観念が、先行するシークェンスとの間で連結部として機能し、ついで回想シーンが、現実感の減少を伴わない過去への遡及として、つまりバルザックやデュマが我々に向かって、「その数年前我々の主人公は、云々」と言うときと同じように、単なる時間順序の操作として受け取られる。それというのも映像の如何ともしがたい現前〔存在感〕が、一切の主観化の解釈を妨げるからである。私がスクリーンの上に見ているこの木、これは木であって木の思い出——いわんや幻像——ではあり得ない。フロベールの文体はしばしば、映画的映像に劣らず内面化に逆らうかに見えるのだ。

「フロベールの沈黙」、『フィギュール』平岡・松崎訳、未来社、1993年、277頁。
〔〕内は引用者による補足。

ここで言われているのは、映画においては、回想であっても、映像そのものの中にそれが回想であることを示すものは何もない、という事実である。回想シーンの映像も、そうではないシーンと同じ存在感を持っている。このように映画では、内面世界を現実世界から区別して見せることが難しい。誰もが知っているように、映画では、夢の世界は現実世界とほとんど変わることなく存在する。しかし、やはり誰もが経験しているように、実際の夢の世界において、出会う人間すべての服装や走る車のナンバーまでもが明瞭に現れることはほとんどない。フロベールの自由間接話法は、現実世界と夢想世界の区別を消去することで、映画における無力を、エクリチュールの威力に変えていると言える(一方で、ロブ=グリエやアンゲロプロスような、映像のこのような特質を巧みに用いた映画も存在する。その時、映像は過去と現在を共存させたり、時間的差異を取り去ることを可能にする)。そして、これが決定的なことなのだが、フロベールにおいて、夢想世界が現実世界の中にそれと同等の厚み、密度、存在感を持って侵入してくるということが、「物語の流れを断ち、《宙吊りにする》」(同書、p. 280)効果を持つとジュネットは指摘する。登場人物が現実世界の中で行為する代わりに、内面世界に閉じこもるとき、物語の進行に代わって、夢想のイメージが現れる。ここから出発して、ジュネットは、フロベールにおける描写一般の役割を「筋の中断」(284-285頁参照)と論じる。

さて、先ほどのエマが夢想にふけるシーンでは、夢想は子供の咳とシャルルのいびきによって中断されるのだが、自由間接話法が、夢想の部分に現実の描写と変わらぬ密度を与え、現実と想像の境界を不明瞭にしていた。これと同じことが、先ほどの小津の花瓶のショットにおいて生じているのではないだろうか。小津においては、花瓶のショットが二度繰り返されることで、花瓶が心象風景であるのか純然たる物理的現実なのかが曖昧になっているのである。それが、物語から軽やかに遊離したこのショットに、特別な美しさを授けている。小津はある意味で、フロベールの自由間接話法と等価のものを、映画において作り出しているのだ。

映画の最後、娘を嫁に出した父親は一人で家に帰り、リンゴを剥き終わったところで、下を向いてうなだれる。しかしその後映し出される鎌倉の海が、物語の終わりであるこの劇的瞬間を、波が体現する大いなる日常の反復のなかに回収している(笠智衆という俳優が小津における特権的な俳優であるのは、おそらく彼が、物語を体現すること、すなわち置かれた状況に見合った演技をすることのできない、あるいはしようとしない俳優であるからだろう)。フランスの映画評論家であり、映画監督でもあるジャン・エプスタン言っていたように、「結末は結び目から結び目への移り変わりでしかあり得ない」(Bonjour cinéma, Éditions de la Sirène, 1921, p. 31)。映画の事実上の結末は、人生の中の多くの結び目の1つに過ぎず、また新たな結び目、幾つもの結び目へと開かれてゆくのである。日常は、そのように特定の目的=終わりから切り離されるときにこそ、その輝きを見せるのであり、小津のピローショットの美しさは、単にその美的配置の美しさなのではなく、特定の目的や有用性、そして物語の進行のための象徴的意味から切り離されて見つめられた物事の美しさなのである。そして、私たちが今日、すべてに目的や有用性、あるいは交換価値がなければならない世界に生きている以上、小津は私たちに、私たちが生きている世界の醜さを教えているように思う。

ここにこそ、小津の普遍性がある。小津の普遍性は、失われた古き良き生活への広く共有可能なノスタルジーなどではあり得ない。小津の普遍性は、すべてに有用性と経済的価値が求められるグローバル化した醜い世界の中で、芸術という「絶対的なものの見方」は、なおも、この醜い世界とは異なる世界が可能であることを教えてくれるからである。そしてここには、語られている物語とは何の関係もない、小津の政治性がある。芸術の政治は、それが扱っている主題や物語の中にのみ現れるのではない。支配的な時間と空間とは異なる時間と空間の創造こそ、芸術固有の政治なのである。

おそらくここに、小津の映画が教えてくれる映画の本質(そして多くの映画監督が、意識的にせよ無意識的にせよ、この本質を共有しているのだ)があるように思われる。晩年の傑作、『お早よう』を、このような映画の本質についての小津のマニフェストとして見ることができるだろう。作品の物語はごく単純だ。二人の子供が、笠智衆演じる父親にテレビを買ってくれとねだるのだが、聞き入れてもらえないので、口をきかないというストライキを行う。最終的に一悶着あって、買ってもらうことになる。この口をきかないというストライキは、父親が長男に、お前は余計なことをしゃべりすぎる。少し黙ってろと言われることがきっかけになっている。その際息子は父親に向かって、「大人だって余計なこというじゃないか。おはよう、こんにちは、いい天気ですね、ああそうですね」と反論する。子供たちの英語の家庭教師をしている若い男(佐田啓二)は、事情を聞いて、「でもそれを言わなかったら、世の中味も素っ気もなくなっちゃうんじゃないかな。無駄があるから世の中はいいんじゃないかな」と言う。つまり、明確な意味伝達の言葉ではない会話の重要性を彼は擁護するわけである。社会学者で哲学者のゲオルク・ジンメルは、『社会学の根本問題』の中で、こうした社交的な会話は、特定の目的(情報伝達や命令、指示、教育)のための言語使用ではなく、ただ話すということだけを目的にした、自己目的的な言語使用であり、遊びの一形態であると論じている(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』清水幾太郎訳、岩波文庫、1979年参照)。おそらく、明確な意味伝達の言葉とこのような社交の言葉との対立の下には、当時新たに登場して来た映像メディアとしてのテレビと映画との対立が隠されている。映像の送信方式とは無関係に、テレビとは、物語、つまり物事の秩序だった提示のメディアであり、イメージから、一切の曖昧さを排除し、特定の意味しか持たないようにするメディアである。だからこそ、テレビドラマはそこでの行為の意味が常にはっきりしていて、その演出は、視聴者がそこで抱かなければならない感情を押しつける。最近のバラエティでは笑うべき所はテロップで強調され、報道番組には解説者がいて、出来事のイメージのなかに読み取るべき意味が解説されなければならない。テレビとは特定の意味を伝達するように作られた記号でできた映像メディアである。あるいは、イメージに特定の意味を付与するように作り上げられた映像メディアである。一方映画は、意味や感情のはっきりとしない記号が様々に組み合わさることで構成される。それは、『お早よう』のなかで言われているように、意味のない無駄な挨拶のような記号が交わされることで作り出される織物なのである。そして逆説的なことに、テレビを得るために語ることをやめるというストライキに入った子供達は、それによって、かつて無声映画が持っていた、身振りによる表現方法、つまり言葉に従属していない視覚的な表現方法、そのため当然ながら意味のはっきりしない表現方法を取り戻すことになる。そして小津は、この作品でも物語(言葉の秩序)に従属しない映像を散りばめる。カラーになってからの小津の映画においてしばしばそうであるように、『お早よう』は、その背景にしばしば赤い物体を配置する。その執拗さは、あたかも、そうした意味を欠いていて無駄に見える記号が、映画を成立させるためにはかならず必要であることを示すかのようである。また、『晩春』においてと同様、時に人間が、そのフォルムにおいてショットの構成に参加しており、それによって、行為する人間とその背景という区別が消え去り、人間と事物が同列に置かれることになる。

映画の最後で、挨拶などの社交的会話の必要性を表明していた英語教師と、少年たちの叔母である若い女性が駅のホームで並んで立っている。彼らは「おはよう」「いい天気ですね」と、まさに子供によって無駄な会話とされていた挨拶を交わす。しかし、そうした無駄な会話のやり取りは、彼らの間に芽生えている、「恋愛感情」という簡単な言葉では言い表すことのできない何かを表現するには十分である。小津は、テレビという意味の明白な表現を要求する新しい世代に対して、無駄な記号のやり取りのなかに微妙な意味や感情を出現させる、映画の力を見せつけているのである。

映画において、映像が物語へ従属することは、決して映画の運命なのではない。その黎明期において、映画は明白にアンチ物語の芸術として捉えられていた。だからこそ、映画は多くの詩人を魅了した。チャップリンが詩人たちを魅了したのは、笑いとは、因果関係の秩序から逸脱することであり、映画がそのような逸脱を見せるための最良の手段だったからだ。その後、モンタージュの発達とともに、映像の意味を明確にすることが可能になり、今日のほとんどの映画において、映像は物語に従属してしまった。しかし、オーソン・ウェルズやネオリアリズモからヌーヴェルヴァーグをへて、今日の最も革新的な映画作家に至るまで、映画は映像にそれ本来の自律性や曖昧さを取り戻させようとしてきたと言っていい。映画におけるこのような現代性の系譜の中に、小津の作品が燦然と輝いている。


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