派遣録 84 日本年金機構への今も許さない怒り💢💢

 最後の挨拶

2012年の春(3月末)、俺は年金事務所を辞めた。
契約期間(三年)が来ての契約解除だった。

また無職に戻った。

“アホ”な俺はそれを気にせずに、安易に受け入れていた。
そらは、すぐに“他の現場”で働ける気でいた、からだ。

(年金事務所だけが、仕事ではない)

ここまで販売業(ブラック)、求人広告(解雇)、さらには日雇い派遣といろんや仕事現場を働いていた経験のある俺は、自分が他でもバリバリ働けると思い込んでいた。(本当にアホだ💦)

年金事務所との契約が切れる日、俺は事務所の所属課(適用調査課)に連絡し、適用調査課の課長に“最後”の挨拶をした。

その時、課長は不思議な事を俺に言った。

ちなみにこの課長は志の輔→“トイレ”課長の次の課長だった。あまり親しくなかった。

「い、今まで、お、お世話に、ななりましたた」と俺が言うと、課長は少し改まった。
「…鈴木くん、お疲れ様。…でね、7月に準職員の募集あるからね」
「は、はあ?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
それは『良かったら、また年金事務所で働かないか?』という意味だった(だろう)。
課長からの暖かい言葉。嘘でも嬉しいが、何故そう直接言わないのか。
“遠回し”に誘うのは何故か?
俺はそこが気になった。
「7月に準職員の募集がある予定だからさ…」とまた課長は言った。まるで俺に分からせるような言い方…。
自身によく分からない自信があった俺は辞める気持ちでいた。
他で働くつもりだったし、それは十分に可能かと思っていた。

そして、「戻ってくれば?」とはっきりと言わない課長が不思議だった。

俺は「考えてきます」

で、このまま俺は年金事務所を辞める。
未練はなかった、この時は。

俺の“真実”

で、俺は再就職活躍を始めた。
ハローワーク、求人誌(元いた会社以外)、あらゆるものを使って探した。
すぐに見つかる気持ちだった。

…甘かった💧
30過ぎの、病み上がり(脳腫瘍)の人間を雇う会社は浜松になかった。
全くだめだったた💦
静岡県以外、名古屋まで探して応募したが、なかった。(←ボロカスに言われた💢)

2012年の4月~6月までに様々な求人に応募した。
…全てダメだった。

この時の不採用通知を俺は今も持っている。
“恨み”ではない。
おかしな夢💤🎠💤を見るのだ、
『残念ですが…』の後に『でもまた面接を…』などと書いてある、という夢を見て、棄てた不採用通知を探し回ったりした。

馬鹿な話だ。

50社以上受けたかな?
正社員を目指したが全くダメ。
バイトでも雇ってくれなかった。

この時は、まだ“日雇い派遣”という選択肢はなかった。
安定した仕事に就きたかった。手術や治療、リハビリで両親に迷惑をかけた。また、俺は30半ば。マシな仕事に就きたかった。稼ぎたかった。
そして、前の“ブラック企業”(販売、求人誌)のような、そして年金事務所のような職場は嫌だった。

だが、仕事は見つからなかった💧

そんな6月後半。
俺はハローワークの求人検索で、ある求人案件を見て驚いた。
課長の言っていたとおり、年金事務所からの『準職員募集』という求人が出ていたからだ。

俺が驚いたのは、その募集が“年金事務所から”だった事だ。
以前受けた準職員採用のように、年金機構では準職員以上の募集は“事務所以上”(ブロック、本部)から応募されている。
それが、年金事務所からの募集…。
つまり、この募集は“脳腫瘍になった俺の為”の応募であった(…と思う)。

俺に用意された仕事(準職員)』…。
俺はこれにカチン💢💢ときた。

怒り💢

(…舐めやがって💢)
俺は『年金事務所からの準職員募集』が頭に来ていた💢
そこに俺への侮蔑を感じたからだ。
つまり、『ほれ、お前(俺)は“この求人(準職員)”に来るだろ? 雇ってやるよ(笑)』ということだ。
『脳腫瘍だし、なりたいんだろ、準職員(笑)、ほらよ(笑)』
と笑う“志の輔”や福原の顔が見えた。

人を馬鹿にしやがって💢
脳腫瘍が年金事務所のせいだ、とは言わないが、この態度は何だ💢
俺への差別か💢

そして、俺は全て分かった。
俺が「(一時)復帰したい」と言い出した時から、課長並びに年金期待の連中(職員)は、脳腫瘍を患った俺をそのまま契約解除させると、“世間的に批判を浴びかねない”と思ったのだ。
どうにか穏便に“消えて”欲しいのだ。
俺の主治医(松山医師)に連絡しなかったのは、主治医から『鈴木くんは働けますよ』とでも言われたら、俺を嫌でも“長く”雇うしかない。
それが嫌だったのではないか?
反抗的で、病気持ちの俺など雇いたくない。
そして俺は脳腫瘍を患った。再発も怖いだろう。

だが、無下に解雇(解除)したら、非難される。
30過ぎの非正規とは言え、職員を何の援助もなく年金事務所が“切った”となれば、非難される可能性がある。
それは困るのである。保身。組織の体裁。

困った年金機構(事務所)が考えたのが、準職員という有期雇用で“我慢”してもらう、という手であったのではないか?

あの(前)課長のトイレでの不思議が言葉もこうなることへの“説得”と思える。
あの課長も福原も、所長も(そして現課長も)、俺の処遇に困っていたのではないか。
そこで“準職員”という“エサ”を見せてきたのだ。
これなら“食いついて”くるし、有期雇用なら、期間がきたら“切れ”る。

さらには、それに“俺から応募して欲しかった”のだろう。
何があれば(脳腫瘍再発など)があっても、『準職員は君(俺)からやりたい、と応募したんだろ? 残念だが病気では…』と言えるからだ。キレるからだ。
その言質が欲しかったのだ。
“アイツら”らしい。
年金機構らしいやり方。
汚いというか、ずる賢いというか、自己防衛に長けている。

だから、俺は頭に来た💢
人を舐めてやがる。人を何だと思っている?
馬鹿にしやがって!
どこまで俺を舐めてんた💢
あの志の輔のアホと同じだ!

俺はハローワークの求人検索機の画面をぶん殴りかけていた。

2012年の“暑い夏”

俺は相当頭に来ていた💢
そして、だいたいの事が分かってきた。

あの不合格通知”のタイミング(手術直前)、復帰した時の福原の態度、(前)課長の“説得”、(別の)課長への挨拶の時の提案言、年金事務所からの求人(準職員)…。

全てが繋がった。
すべて、組織の事しか考えていない。そういう連中だ。

もうたくさんだ。こんな連中…。
顔もみたくなかった💢

…というのは、あくまで俺の思い込みかもしれない。
だがあの時、俺は許せなかった。

というか、今も許していない💢💢

言いたくないが、やはり彼ら(年金機構)は他人の事など省みない組織だ。
考えるのは組織の維持と自身らの評価だけ。
俺みたいな、組織の思い通りにならないバカなど、屁とも思っていないのだ。

(…誰がこんな“会社”、入るか!💢 馬鹿馬鹿しい)

志の輔のパワハラ。福原の差別的な態度、機構の舐めた態度、もうたくさんだった。
そう心からそう思った。

確かに仕事は見つからない。
金もない。
将来には明るい要素はない。
だが、こんなところ(年金事務所)よりはマシに思えた。

それに、俺はまだ他の仕事も探せると思っていた。

年金事務所に“戻らない”と決めた俺に、両親は愕然とした。かなりショックだったようだ。
俺が年金事務所にまた戻ると思ってたらしい。
だが、俺は何を言われても戻る気にはなれなかった。


…などと書いたが、これを書いている前年(2023年)、俺は仕事が見つからずかつての元いた年金事務所のアシスタント職員に応募して、綺麗に落とされている💧💧
あれたけ怒っていたが、親父の介護もあり、俺は“背に腹、代えられず”応募した。
そして障がい者を確認され💢、落ちた。…情けないが、それで良かったのかも?

その年(2012年)、夏🌻はとても暑かった。猛暑だった。
本当に暑い夏で長かった💦
俺は30越えて、無職で社会に再び出る事になる。
口はまだ不自由で、呂律は戻らない。
まだ何度も浜松医大で検査していた。再発も怖かった。

クラクラするほど暑かった☀️😵💦💦





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