「身銭を切る」とはどういうことかーある風の強い夜にー

 ある風の強い夜、私は傘をさしながら歩いていた。骨が剥き出しになった傘を持って、ある男がこちらに向かって歩いてくる。彼はイライラした様子で、その壊れた傘をいじくっていた。するとその傘が道の反対に飛ばされていった。彼は傘を捨てたのだ、骨が剥き出しになったその傘を、もう使えないからといって。彼は色眼鏡をかけており、髪は長めで、カールしていた。若干前のめりになり、肩を左右に揺らし、ポケットに手を入れて足早にその場を立ち去った。「なんでもねーよ」といった表情を浮かべながら。私は去っていく彼の後ろ姿を睨みつけた。


 その後、私は用を足し、来た道を戻った。あの傘がまだ道端に落ちていた。私は逡巡しながら、その傘の方へ歩いていき、それを拾った。その傘を持って帰ることにしたのだ。風に飛ばされ、誰かに当たったら怪我をする恐れがあると私は考えた。その傘は鋭い骨を剥き出しにしていた。


 この傘を持って帰る途中、私は憮然としながら、色々なことを考えていた。そして「身銭を切る」とはこういうことなのかもしれないと、なんとなくだが、そう思った。思うに至った。色眼鏡の男があのような非倫理的な行いをするのにも、それなりの理由があるのだろう。端的に言えば、かなり視野の狭く(雨の日の夜に、色眼鏡をかけていることからもわかる)、自分勝手な人間である。しかし彼がそのような人間になったのにもそれなりの事情があると私は考える。それに彼の人格をいくら責めたところで、そこに骨が剥き出しになった傘は落ちているのである。この事実は変わらない。だからそういうときには、その傘を拾える人間が拾う必要があるのではないか。もしこの世界をある程度、条理の通る世界にしたいと望むならば。大げさかもしれないが、私はそのように考えた。


 私の取った行動は、ほんの小さなことであり、もしここに記さなければ、ほとんど誰にも気づかれないようなことである。しかしこの些細な、取るに足らない行動で、この世界の条理はある程度保たれているのだと思う。もちろんこのような行動を取っているのは私一人ではない。道端の草を一人で黙々と刈っていた男性。アルベール・カミュの小説『ペスト』に登場し、ペストと闘う人たち。アフリカなどで、紛争に巻き込まれた若者たちが、武器を捨て、平和に暮らす手助けをしている「アクセプト・インターナショナル」の方々。


 様々な人が、自らが引き受ける必要のない責任を引き受けている。それがこの世界に、条理をもたらす方法なのだと私は思う。私もできることはしていきたい。

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