感情死亡な死生観(※鬱病罹患者は読んじゃダメ)


前段: 注意

この内容に同感できるなあって思う人は
速攻病院行って相談してください。
鬱病の可能性あるかもしれません。(ちなみに私は鬱病です。)

あと人生一度でも
「生まれてきてよかった」「産んでくれてありがとう」
「生きててよかった」「人生山あり谷ありだ」「禍福は糾える縄の如し」
とか思ったことある人とは、全く意見合わないんで
こっから下は読むだけ無駄です。
私はあなた方の気持ちを一切理解できませんので、配慮しませんできません

この記事は、
表現の自由を悪用し、ただの愚痴を使って、
おんなじこと思ってる人いるんかなって実験です。

中段: 本文

人間の構成要素を見てきて

ホーチミンの戦争記念館で
米兵が原型を留めてないベトコンを足から掴んで掲げて
イェーイみたいな写真が掲示されてるのを見た時
現代これの対象が魚とかになってるだけで
本質的には変わらないな、と思った。

ベルリンのユダヤ記念館で
ディアスポラから歴史を一通り書き連ねてきたけど
人んちに入り込んでオレが生きてることを認めろってのは
やや横柄なんじゃないかなあと思った。

タイのパッタヤーで
何でできてるかわからない小麦粉を鉄板で熱した何かが
ほとんど意味をなさないような数円で売られてる出店を見て
経済って雰囲気なんだなと思った。

薬あるいは器具あるいは治療あるいは医学書あるいは人体博物館で
内蔵というものを観察した時
一つの管であり弁によって制御されてるだけで
内臓の香りというものがあるなと思った。

食事という行為が苦手で
スーパーに並ぶ肉に対して食物連鎖を思い
地元の方言を聞にガチョウの鳴き声を連想し
やはり蚊を殺すように殺される程度である方が
まだ平等であり、銃社会でいいんじゃない?生き物として。

仕事というのが全て詐欺に見えるから
詐欺に加担するなら目先の金目的の半端な詐欺ではなく、
国家みたいな、完全なる詐欺や犯罪を行いたい
しかしその能力があればもうやってる。

色んな薬やってみて所詮脳の状態に過ぎないんだな、全て、と思った。
現実に人々って毎日コロコロ意見を変える点で既にスワンプマンだし。
思考は容易に洗脳できるけど、それを民主的と表現するなら
永久におままごとやってんなこいつら、と思う。
おままごとって意味ないので。

世界の全ては脳の解釈であり
脳が壊れれば死と同義では。

鬱病自分語り

死人に口無し。
遺書を書くとしたらどんな遺書だろう。

自分が生きてるのは自分への目線が存在しているから。
それを肯定的に表現すれば、自分を照らす光があるからで
光がなくなったら自分で自分を照らすこともない
あるいは他人を照らすことで自分を照らすこともない
一直線に死への処理を行うのみだな、と思う。

首を吊るとして、
こういうのにくるまった状態で吊ったら
あんまり迷惑かけずに済むかなあ。
すごいもんもネットに売っとるし…..

シンプルに生きていたいと思ったことがない。
しかし自分が自殺したら釣られて自殺してしまう人がいるから
それを気の毒に思って生きているだけであって、
その人たちが死んだら速やかに行動に移る。ただ人の死期を待ってる。

そこそこ行動的だし自主的だったけど、
色々やったからと言って、特に楽しいと思った記憶はない。
ただの生まれた義務を、生まされたせいで果たしてるだけ。
なに一つ価値を感じない日々を強制的に生かされている。

全ては時間の過ごし方の違い。
睡眠は死の模擬経験であり
死も睡眠も娯楽も過ごし方の違いであって
80年や100年という数直線がある中で
何がそこに大きな割合を占めているかであって
そこに占めている情報という記号は
何にでも置換可能である。

数直線を埋めるに当たって、生きていても死んでいても
どちらでも構わないが
生きるためには努力が必要になってくる
望んで生まれた命ではないし
この命が続くことを望んでいないため
なぜ努力を強いられるのかがわからない。

よって努力から逃れるために死を選ぶ。
あるいは、楽しいと思うことがないので死を選ぶ。

魂というものを仮定すれば、それは記憶の中にしかない
交通事故で死ぬことと自分で死ぬことに
結果論としての違いはない。

下段: に〜んげんっていいな〜()

はい。
殺し殺され今があるわけですけど、
生かし生かされ今もあるわけです。
で、その表裏一体のウロボロスの輪になんの意味があるんでしょう?
その中で起きることは全てその瞬間の脳の状態に過ぎないので、
別に最初から無くても同じでは?というのが、私の死生観でした。

生きててよかった(笑)とか一生余裕で思うことないっていうか、それって
薬キメてハッピー(笑)とおんなじ脳状態だな、って思うって感じですね。
ちなみに、私は薬入れても、期待してたのにこんなもんかよ、だったんで
まあ何をやっても一生理解できません。

じゃあ薬の方が再現性高くて全状況において普遍的意義を持つくない?
日本酒開けても酔わないくらい肝臓が高機能なのでよくわかんないですが
まあ酒もそういう理由に近いところにありますよね。
で。私は料理に合わせてお酒を選びますけど、
わざわざそんなことしてる人あんまり見ないんで。実質合法の薬ですよね。
ポテトとカルーアミルクってワンチャン食い合わせいいんですかね?

面倒臭いから早く死にたいんですけど、当然苦しみたくないわけですが
打首に晒すのもムズい、死刑で殺すのもしぶとい、人体ってそういうもんで
なのに医学の仁術じゃなくて技術の方面によって、
そのタイムラグのせいで発生する救命可能性の高さというものが、
一回死んでみてないので自分の場合どうなるかを正確に読み取れないんで
ダラダラとこの時間というやつと永久に戦わされてるわけです。

明らかに遺書書いてたら助けなくてよくね?普通に。
どんだけ勇気出してそれやったと思ってんの。人の気持ちナメてんの?


また主観的世界観はそういうもんだとしても、
世界史的世界観では普通に宗教だって戦争で余裕で殺し合ってるんで、
愛とか意味わかんないし、意味ないし、だからなんなんでしょう?
仲間同士だから殺し合わない、そんなことないんですね〜

一人の死は悲劇だが数百万人の死は統計上の数字でしかない。
これ歴史で弥生時代から殺し合いの数字が出た瞬間に思って言いましたが
誰にも理解されませんでしたね。スターリンも同じこと思ってたみたい。
一介の小学生がこれ言っても意味ないしわかんないんでしょうが、
闘争家スターリン書記長の言葉としてなら意味もわかるんでしょうね。
別に数増えるか減るかで、そこに意味はないです。
権威は理解できても本質は理解できない人で溢れてるってことですね。

今とは違う話を使って話を大きくずらしてると感じられる方に問いたいのは
人狼って明らかに設定不穏で、もっといい用語を用いれたはずが、
どうしてサイコパスな吊るとかいうゲームを平気で行えるんでしょう?
FPSでスナって頭狙って一発でクリって気持ちいい、ですよね?
ゲームだからなんでしょうか?ゲーム使って訓練してるとか聞きますけど。
本質的に同じじゃないんでしょうか、気持ちの問題であって。
そしてその気持ちは、状況によって形成されるわけです。
状況は、楽しくそして真剣に人狼やりながら吊る奴決めて
キメ台詞でも言わせるゲーム性が状況を作るわけです。
人間吊るのはリアルすぎるけど、人狼なら吊っていいんですね。
ていうか、その過程で人間を吊るのはアリなんですよね。
考え過ぎ?考えてなさ過ぎでしょ。それか普通にエンタメなんでしょ?
だから心ってそんなもんでしょ、本心なんかあるんですかね?

私は自分のことだから自分を吊ることに抵抗はありませんが
他者を殺すことを目的としてる遊びは普通に楽しめません。
混同し過ぎ?混同してなさ過ぎでしょ。命が奪われることに。
私はスーパーに行くのが苦手です。動植物性問わず食事が苦手です。


人間って何がいいんですか?
教えてもらう必要はないです。ただのオチとしての言葉です。


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