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EV・地球環境・宗教改革 (1212文字)
「EV」(Electric Vehicle 「電気自動車」)が時代のトレンド(trend「 趨勢」)だったのは、「高性能なバッテリーが開発されるのはもうすぐだ。」という報道が相次ぎ、多くの人たちが「そうかもしれない。」と強く期待したからだったと思います。また、欧米でEVブームが起きたことで、その期待が半ば確信に変わったように思います。
でも、恐らく日本の雪国の人たちは内心「寒いとバッテリーは凄く消耗するから、バッテリーについてよほどの技術革新でもなければ寒い地方でEVは使えないだろう。」と思っていたはずです。
トヨタの全固体電池って、上記の「よほどの技術革新」と言えるのでしょうか。
私個人は、「温暖化や環境汚染を含む地球環境の危機」をテーマにするスローガンには、多分にカネの匂いを感じます。
私達の知らないところで、地球環境ビジネスにより大いに儲けた企業や人がいそうな気がします。
地球温暖化が叫ばれはじめた頃、地球寒冷化を主張する学者らがいました。その寒冷化の主張はそのまま消えてしまったような状態ですが、誰も本当はどっちなのか分からないのだと思います。
地球の気温は、海水の表面温度に影響されるそうで、その海水温は比較的短期間で上下するそうです。短期間といっても何十年・何百年という周期のようですから、産業革命以降の地球の気温上昇を「異常事態だ」と考えるのは短絡的と言えなくもないように思います。
こうなると、どっちが正しいのか誰にも分かりません。
今までは、メディアが「こうだ。」と言えば大衆は「そうかな。」と思ってきたのですが、現代はネットから情報にアクセスでき情報を取得できますから、その分各自が自己責任で何を信じるか選択しなければなりません。
今の情報化社会は、多くの人にとって「負担過剰」な社会と言えるようになったと思います。
情報に自由にアクセスできる人の負担が過剰になったのなら、情弱(情報弱者)の人たちを啓蒙したり救済するような余裕はあまりない、というのが実情に近いように思います。情報に自由にアクセスできる人たちが「情弱で悪手を選択することになっても、それはあなたの自己責任でしょ。」と情弱の人たちを突き放した気持ちに傾くのも仕方ないように思います。
宗教改革の前、聖書のドイツ語訳版が活版印刷によって大量に出回ったことによって(その後英語訳版も出ました。)、聖職者はとても困っただろうと想像できます。教会に説教を聞きに来る信者が聖書の知識を持つようになると、神父などの聖職者の聖書解釈に反論する人が出てきたことでしょう。
が、情報が大衆化したことによって負荷が増えたという意味では、現代人はみなその聖職者と似たような苦悩と過剰負担の状態になっているように思えてなりません。
両者とも「知らなければよかったのに。」という思いを少なからず持っているのではないでしょうか。
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