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不祥事 酒は言い訳になるのか (1849文字)

 私は断酒して2年3 ヶ月になります。この間、朝4時頃に起きて机に向かい仕事の本や大学受験用に参考書を読むという規則的な生活を繰り返してきたので「酒は飲まないほうが人生は充実する。」と自信を持って言えます。でも酒は嗜好品ですので、「それでも酒を飲むのだ。」という人がいるでしょうし、そういう人を説得しようという野望な気持ちはありません。

 先日、漫才コンビの片方が酔ってタクシー運転手とつかみ合いの格闘になり歯を三本折ったというネットニュースを見ました。
 警察では「喧嘩両成敗」ということで事件化されなかったといいますが、法律には「喧嘩両成敗」なんてありませんから、①最初に手を出したのが漫才師の方であること、②怪我に相当するのが当該漫才師の歯が三本折れたことだけだったこと、③タクシー運転手の行為は正当防衛か緊急避難が認められる状況だったこと、④双方に被害届を出す意思がないことが確認されたこと、⑤当該漫才師が謝罪し損害の賠償意思を示したこと。などから刑事事件にする必要がないものと警察が判断したのだろうと思います。
 それにしても、「喧嘩両成敗ということで」と芸能レポーターを名乗る人がしきりに言っていますが、正直「この人何言ってんだろう。喧嘩両成敗って、『忠臣蔵』に出てくる封建時代の幕府の私闘処理の方針のことでしょ。近代的法治国家の話でないでしょ。」と思います。一体誰が「喧嘩両成敗」なんて言ったんでしょう。

 それはそうと、その漫才師の所属する芸能事務所の社長のコメントには「酒を飲んでいて」とありました。おそらく、飲酒していて冷静な判断ができず、今回の騒動を引き起こしてしまったという状況の説明をしたのだと思いますが、これについても「酒を飲んでいたら許されると思っているのか。」などと少々見当はずれな意見を言うコメンテーターがいたりして、前述の「喧嘩両成敗」と共に、事件が妄想の中で肥大化していっている様子です。

 さて「酒を飲んでいた」というのは責任を軽減する理由になるのか、というのが本稿が論ずる主題です。
 刑法では、心神喪失(是非善悪を判断することができないか、又はその判断に従って行動することができない状態)者は、責任無能力者として罰されません。民法でも、そういう者は原則的に不法行為責任を免除されます。
 でも、それは心神喪失になるまで飲んだ場合であって、世間一般に言う「酒を飲んで」とか「酔っ払って」というのは、そこまでに至っていない場合が圧倒的でしょう。
 つまり、ただ酒を飲んで常気を逸した程度のことでは法律的な責任追求を免れません。
 法律で言う「責任」ってのは、刑罰を受けたり、金銭の支払いをしなければならなかったり、財物を失ったりという意味ですので、「へへへ」と頭を掻いて謝罪すればいいというわけにはいきません。

 酒に酔って法に触れることをするなんてことは滅多にないと思いますが、言い合いになり他人の心を傷つけるということはよくあります。
 そんなとき、酒は言い訳になるのでしょうか。

 断酒した私からしても「言い訳にならないととても困る。」と思います。
 日本人は、「いついかなるときも主(神)への信仰を忘れてはいけない。」というくらいに宗教を信じている人は多くはありません。なかには強い信仰を持っている人がいますが、大多数はゆるく生きています。
 だから、人生の緊張から解放されたいときは、酒を飲んで神経を緩和させようとします。この行為の重要性は多くの人が認めるところでしょう。ですから、その緩和が行き過ぎた場合も、拒否や否定ではなくゆるやかな受け入れという態度を取ります。「飲んだときは仕方ないものね。」といった具合です。
 劇団「ワハハ本舗」の俳優(女性)が公演後に安い居酒屋で他のお客にからまれたとき、「お前への答はコレだよっ!」とテーブルの上のものをすべて払いのけて床に落とし、大喧嘩になったことがあったそうですが、そのお店の女将さんは「飲んだときは仕方ないよね。」と言ってくれたそうです。
 これなど、日本ではありそうな話だと思います。欧米ではかなり厳しいお叱りを受けそうですが。

 酒は言い訳にはしてはいけませんが、周囲の人は酒をもって許してくれることが多いと思います。
 もちろん、そういう人の善意に付け込んで、毎回酒癖の悪さを披露する奴は、他人を裏切っているわけですから、徐々に孤独になり。哀れな末路を迎えることになります。というか、そうなって欲しいところです。

 官報の行旅死人(こうりょしぼうにん)の公告には、「そうだったんだろうなぁ。」と思わせることがよく書かれています。

#酒 #行旅死亡人
 

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