家族の死 〜永遠の不在〜
金曜の夜、母が94年6ヶ月の生涯を閉じた。
認知症が進み、すでに「緩慢な死」が進んでいたので、見送る側にも心の準備は出来ていた。安置所に向かう車を追走するうちに小雨が降り出した。テールランプを眺めていると、知らぬ間に、昔の記憶が断片的に蘇ってきた。目が少し曇った。 認知症で長く施設に入っていた父は、18年前に世を去っていた。
妻は、若い弟(22年前の9月)、その翌月10月に母、4年後の18年前に父を、相次いで喪くしていた。
肉親でも、兄弟姉妹、若い人の死は、衝撃が一番強い。妻は気丈に振る舞っていたが、若い弟を白血病で喪った頃、「晴れた日に洗濯物を干していると、突然悲しみが襲ってくることがある」と言っていた。
永遠の不在
「死とは永遠の不在である」と言ったのは、フランスの哲学者シモーヌ・ドゥ・ボーヴォアール(1906~1986)と思うが、定かでない。
死は、自分では直接経験できない。死んだ人との「関係」の中でのみ、間接的に「経験」する。死者と自分と世界の間には、いろいろな「相」のようなものがあると思う。例えば;
死者は、私たちが住む世界には、永遠に存在しなくなる。
死者に、「その後の世界」があるかは分からない。私たちは時に、死者の「魂」に想いを馳せることもある。
死者は、私たちが住む世界に、記憶として残る。多くは、時間の経過と共に、遠ざかるが。
私たちは、死者が不在の世界を、生き続ける。
いずれそう遠くない日に、私も「記憶の中の人」になるのだろう。最近、何人かの親しかった友人が、相次いで記憶の中の人になった。時々夢を見る。生きている人は、記憶の中だけで生きていくことはできないが、記憶や夢の中には、いろいろな暗示が紛れ込んでいる。
昔、一緒にジャズを聴きながら酒を飲んでいた人から、「Tさんが好きなプレーヤーは皆、死んだ人ばかりですな」と言われてムッとしたことがある。確かにそうだからだ。ジャズミュージシャンだけではない。文学でも哲学でも、読んできた本の著者の多くは、「死んだ人」だ。しかし、友人でも家族でも、記憶の中の人には、様々なドラマがある。機会を見つけて、光を当てていきたいと思う。
昨日、私の父母だけでも30年近く続けてきた介護が終わり、仕事の私に代わって介護してくれた妻に感謝した。
介護がひとまず終わったので、まずnoteのプロフィールを変えなければ。
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?