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この先に「なりたい」があるはず

引っかかる言葉たちの前で考え続けたら、自分の動かし方が分かった話。

引っかかる言葉たち
「努力が足りない」とか「努力して上へ行け」とか才能があるとかないだとか、なんていうか人間には順位があり努力や才能で上がっていくべきだ的な言葉に引っかかりを覚える。
いや、現実問題その「順位」が大事なシーンがあることは分かってるし、全否定するわけでもない。
ただ、その上がっていくことを人生の主に据えるにはどうにも抵抗がある。
その抵抗があるのは、「順位」が低いこと、つまり勝てないから持っている気持ちなんじゃないの?という疑いもあった。乗れなさも含めて。劣等感から否定してない?みたいな疑いがあった。

ついでに慰めになるような「配られたカードで勝負するしかない」(元ネタはスヌーピー)という言葉にも乗れなさを感じていた。
「だってそれならさ…◯◯じゃん」と思ってた。この◯◯は伏字ではなく、自分で掴めてない。
何?自分でも知りたい。

新しい見方
mmm jewelryさんを訪れて以降、新しい見方を手に入れている。
「自覚していない」→すでにあるが気が付いていない、という見方。
今までは何か引っかかる度、足りないから頑張らないとと思っていた。
ただ、足りない→頑張らなきゃ、で停滞しているのは確か。
新しい見方で、自分の生活を振り返る。

最近動けたこと
ところで私は今服を作ろうとしている。
「作ろう!」と思ってから、実際作り始めるまでめちゃくちゃスムーズに動けていた。
無理して時間を作ったというより、ムーンプランナーを覗き込んで「この日オカダヤに行ける、この日かこの日に水通しできそう。裁断はここ」みたいに計画を立てた。そして、実行した。
大抵の場合、やることはいっぱいで、計画を立てても「計画を立てたから実行せねばならぬ!!!」的な思いで、必死にこなしていた。
でも、ほとんど記憶に残らないという…🤣🥺😩
服作りはどういうわけか、スルッと進んだ。
それはなぜか?

キュン🫰から始まる
「よし、服を作ろう」と思ったきっかけは何か?
「この生地最高に可愛い💚💚💚💚💚」と思ったから。で、さらに「これでワンピースを作ったら絶対最高じゃん!!!こうセーラーカラーでさ、ウェストとかで絞ったりせず真っ直ぐなラインでさ、膝より下の丈!!(検索する)ほら、型紙あった!理想!!買う!!」とかなり具体的に妄想できた瞬間行動につながっている。
つまり、私のスムーズな行動には
キュン🫰とときめく(感動する)→「こうなったら最高!!」という具体的な妄想をする
が必要。
今までのスムーズに動けたことも、思い返せばこのフローに乗っていた。

順番が違う
「努力して上を目指せ」も「配られたカード」もそりゃ引っかかるわけだ。
自分を動かす方法の順番が違う。他人の言葉を借りて言うと「路線図が異なる」(※しずかみちこさんが作成する自分を最大限に活用する方法。受けるタイミングを見計らっている。)
あの言葉は私とは違う「路線図」の人向けなんだろうな、と思ったら引っかかりが解消できた。

私の動かし方は
感動→妄想→実行

「努力して上を目指せ」は、感動とか個人的な「良い」より社会的な「良い」を優先しているように読んでしまい、私を動かすには感動が足りない。
「配られたカード」は、すでにあるスキルを元に進む先を決めるイメージ。手持ちのカードを眺めて「何をしようか?」と考える感じ。
「だってそれならさ…◯◯じゃん」の◯◯は、「感動→妄想ができない」だった。

私のフロー、感動→妄想→実行では、実行の段階で手持ちのカードが出てくる。そして、めちゃくちゃ良い妄想をしてしまったら、スキルが足りなくてもめげずに取りにいくことはしそうではある。というか、しないと拗ねる。

どちらの言葉も感動→妄想部分、頭を抑えられたようなものなので、引っかかるのは当然。
単に私向けの言葉じゃなかったというだけ。

これまでのモヤモヤ
具体的な目的が見えないとまっったく動けない、という性質があることは自覚していた。
だから、「これやろうかな」みたいなものが出てきたときには限りなく具体化しておくようにはしていた。(良さげな飲食店がTLに流れてきたら、最寄駅調べて、さらに乗換案内で所要時間と使う経路を調べておくとか。駅から店までのルートもざっと見ておく)
そうすると動きやすくはあるけど、いくらやってもなぜか充実感が得られないし、あまり記憶にも残らない。なぜ??と思っていたのが、解消された。
感動→妄想→実行のフローに乗ったことこそが、私の「やりたいこと」で、それをやらないと充実感は得られない。
色々「これやろうかな」はあれど、感動→妄想→実行のフローに乗ったものはいくつあるのか?
感動→妄想までで、自ら叩き潰しているものが結構ある。
そら、人生停滞するわな。

育てられた過程
このフローとはまったく異なる過程で育ったように思う。
「感動→妄想」は子どもっぽい馬鹿馬鹿しい感情で、「もっとちゃんと考えなさい」と言われていた。
感動→妄想→実行のフローを封じられたら、一体どう進めばいいのか分からなかった。「ちゃんと考える」とは何か?まったく分からず、「それっぽいもの」を探すようなことをしていたと思う。
「それっぽいもの」の中身はなく、ただ「それっぽいものが見つけられなかった」結果だけがある。
一体何を探しているかも分からないが、探さねばならない。そういう迷路に迷い込んでいた。

親の理想の動かし方と私の動かし方はまったく違かった。
「感動→妄想」は私にとってエンジンだから、それを子どもっぽい・馬鹿馬鹿しいとされたら、親を好きになれるわけがない。
が、今はもう自分を動かす術を見つけたので😌

今後のこと
もっと感動するといいよ。
そして、最高の妄想を実現するには、実行力が足りなくてもめげないこと。
そこを足掻くのは、無駄なことではない。
親の価値観を内面化して、「感動→妄想」から立ち上がったことに一生懸命になるのは、「子どもっぽいことにムキになってる」「無駄なことをしている」みたいな後ろめたさがあった。
そう思うと自己否定に繋がってしまうから、感動→妄想→実行のフローは大事にしよう。
そのフローを優先するスケジュール管理の仮説はもうある。
感動→妄想→実行を繰り返すことで、「なりたい」が見えてくるはず…!

骨に刻みたい言葉と「チキン野郎」
私の骨に刻みたい言葉は「ときめき」かもしれない。ほとんど確信しているけど、骨に刻む言葉なので。もうちょっとだけ確かめたい。

冴木的「チキン野郎」(違和感ワード)は、「真面目だねぇ」
感動→妄想→実行のフローをやっているとき、他人から見ると「真面目」に見えるときがあるらしい。辞書的な意味とは少し違う。
辞書的な意味は「本気であること」「うそやいい加減なところがないこと」「誠実であること」。
「本気だね」とか言われるのは嬉しい。
私、自分の感動に本気なので。
でも、「真面目だねぇ」は、「自分の感動に本気だね」というより、「外部から定められたルールに忠実である」というように聞こえてしまう。
私が忠実なのは、自分の感動!そこ間違えないで欲しい!!
という思いが強くある。これはもう育てられ方の影響だと思う。自分の感動の順位を下げて、外部のルールに適応することを優先せよな育てられ方をしてきたから。
だけど、今は反論の言葉があるから、変な力みとか「圧をかけてやりかえしてやる」みたいなのがなくなってきた。
私は自分の感動に本気なだけ!

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