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【自意識過剰】チューハイを頼む時がなんか恥ずかしい

甲類焼酎を炭酸で割った酒は、巷(ちまた)の酒場ではチューハイと呼ばれている。自分も好きでよく飲む酒のくせして、店で頼む度に何やら恥ずかしさを感じてしまう。何も悪いことはしていないはずなのに、少し後ろめたい気がするのはなぜなのか。

チューハイの存在をチューハイたらしめて、おれを苦しめている要素について思いをめぐらせると、三つの要素に収束した。

・お品書きでのポジショニング
・「チューハイ」という音の響き
・甲類焼酎のはかなさ

上記についてつぶさに述べていこう。



のんべさん御用達

酒場でもっとも安価な飲み物(酒)とは何か。およそ、その答えはチューハイである。メニューの端のほうに、写真もなくひっそりとお品書きされていることを確認することができるだろう。サワー類の真ん中あたりに紛れているパターンもある。

頼んでも頼まれなくても良いような、少し投げやりなその存在は、酒飲みの性(さが)を刺激する。他の酒とはせいぜい数十円の差だけど、杯数を重ねるのが前提である酒飲みとって、この差を無視することはできない。

「チューハイとこのアテならもう一杯とれて予算に収まるな、、」
10円単位で計算づくの注文を、なんでもないような顔で店員さんに告げる瞬間。自意識が恥や後ろめたさを訴えるのだろう。

チューハイの語感

看過できないのは音の響きからくる印象だ。前半からの「チュー」が照れ臭く、「ハイ」の急なテンションに戸惑う。

おれ「あの、チューハイください」
店員さん「ハイ、チューハイ!!」
テーブル「ドンッ!」

響きに陽気さを感じないでもないけど、チューハイの場合は、その実像に虚しさを感じてしまう。味わいが淡白というか、味が無いというか。料理の味を邪魔しないといえば聞こえは良いが、そんな繊細な領分では無い気がする。

虚しさの正体はなんなんだ。基本的な焼酎の部分から改めていきたい。

焼酎とはこういう酒

少しお固めな話になるが、焼酎なる単語を成立させる二文字からみていきたい。
「焼」の文字は蒸留の意味にあたるだろうか。
「酎」の文字自体には濃い酒という意味があるようだ。

つまり、「焼酎」という言葉そのものに含まれる意味は、
「焼いて(蒸留して)生成された濃い(度数の高い)酒」
その程度にとどまるだろう。

実際、日本の蒸留酒はあらかた焼酎でまとめられている。原料が名を冠する「米焼酎」や「芋焼酎」しかり。製法による区分である「甲類焼酎」や「乙類焼酎」もまたしかりだ。これらは皆ひとからげに「〇〇焼酎」と呼称されている。

海外の蒸留酒(ジン、テキーラ、ラムなど)は、材料や製法で固有名詞が充てられているのに対し、日本の蒸留酒は大抵焼酎と呼ばれている。この呼称の違いが後述するチューハイの存在感にも関わっていると考えている。

甲類焼酎のはかなさ

「甲類焼酎」に対して「乙類焼酎」に属する芋焼酎などは、本格焼酎とも呼ばれている。ロックやお湯割りで飲まれることの多い酒だが、ソーダ割でも酒として問題なく成立する。本格だけというだけあって、「芋のソーダ割」だったり、「銘柄+ソーダ割(または銘柄+ハイボール)」などど呼称される。堂々たるものだ。

甲類はといえば、チューハイだとか、〇〇割だとかの名称に隠れて、焼酎自体の銘柄が書かれていることは少ない。ちなみに本格の反対語を調べると「邪道」とか「便宜的」なんて言葉が出てきてしまう。そりゃあんまりだろう、、、。

しかし、甲類の自己主張はとかく薄いのは事実だ。チューハイを頼んでも実際何が使われていても分からない。チューハイを頼んでいる時点で中身はなんだって構わないのだ。

甲類のアイデンティティ

チューハイを酒として明確に区別するなら、「甲類ハイボール」や「甲類ソーダ割」とでも呼ぶべきだろうが、どれだけ認知されうるだろうか。もしくは銘柄を冠して「キンミヤハイボール」だとか「寶のソーダ割」なんて呼んでみるか?

、、、これはきっと違うだろう。甲類焼酎という存在そのものが無色透明、無味無臭なのだから、いくら区別しようと、名を冠しようと、存在感の打ち出しようがない。甲類からしたら「表に名が出るなんてとんでもねえです」なんていじましい声が聞こえてくるようだ。

チューハイとは、その存在を愛し愛せる人が頼めばよい酒。というポジションなのだろう。酒場文化の習わしとして、どこまでいってもチューハイはあくまでチューハイなのだ。

恥ずかしさはうっちゃって、多少のむずむず感とともに、おれはこの先もチューハイという酒を頼むのだろう。





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