猫とミミズにはご用心

福島で生まれ育った者として、伝えなければいけないことがあるだろう。いや、僕がただ文字に起こしたいだけなのかもしれない。ひょんなことから、幼き日々の記憶が呼び起こされる。


優斗(仮名)は僕の従兄弟である。詳しく説明するなら、父の弟の息子だ。優斗と僕は同じ学年である。一応僕の方が3カ月早く生まれた。

父の実家は南相馬市というところにあり、親戚の多くは同じく南相馬市に住んでいる。南相馬市と一口に言っても、複数の市町村が合併した自治体であり、栄えているところもあればクソ田舎なところもある。残念ながら、父の田舎は後者に分類されるようだ。父は中通りへと上って生計を立てている。一方優斗は父の実家の近くに住んでいる。優斗の家は比較的住宅が多い(?)烏崎という地区に位置する。近所に原町火力発電所がある影響で、烏崎には東北電力の関係者が多く住んでおり、叔父も例外ではなかった。優斗とは父が帰省するタイミングで毎回顔を合わせている。もっとも歳が同じということもあり、僕たちはかなり仲が良い。

父も母も仕事で忙しいので、夏休みは主に祖父母の家にお世話になる。叔父の家も同様だから、夏休みは多くの時間を共にする。福島県の公立小学校の児童には「夏休みの友(略して夏友)」という、友達でもなんでもない宿題が課される。同級生だった優斗と僕は、毎年この夏友を分担して解いていた。南相馬は海沿いに位置し、海水浴場が点在する。なんとまあ良いロケーションだろうか。祖父母の家から最も近い海水浴場は右田浜と呼ばれる場所である。夏休みは基本的に、午前中は夏友を進め、午後はチャリンコで右田浜まで出て海水浴をするというルーティンであった。今考えれば、毎日海水浴とは贅沢なものである。祖父母の家は農家で、スイカを作っているので、一丁前にスイカ割りをしたこともしばしばある。祖父母の畑からスイカを一つパクって、その辺に落ちてる流木を拾ってやるのである。みんなは本気のスイカ割りをしたことがあるだろうか。僕は今後の人生でスイカ割りをすることがあるのか、ふと気になったりする。

2010年、優斗と僕が小学4年生の夏のこと。なんと優斗は携帯を持っていた。携帯とは言ってもいわゆるガラケーであるが、12年前の小学生が携帯を持っているのはかなり珍しかった。今となってはどうでもいいことだが、僕は心底羨ましかったし、なんなら一種の嫉妬を覚えた。携帯を巧みに使いこなす優斗が、少し大人に見える。

2011年の正月は、優斗が僕の実家に来た。福島県はとても広い。どうやら北海道と岩手県に次ぐ日本第3位の面積を誇っているようだ。ほとんど中身がないのが問題だが…。これだけ広いと気候にもかなりの差があって、南相馬と僕の実家の地域とではかなり積雪量に差がある。鎌倉を作ったり、等身大の雪だるまを作ったり、雪かきを手伝ったりしてもらって過ごした。多量の雪に優斗はかなり興奮していた。次に会うのは春休みだねーなんて言って、優斗は帰った。

2011年の3月になると、地震がかなり頻発していた。まず3月9日の昼くらいだったか、震度5弱の揺れがあった。僕は体育でマット運動の授業を受けており、みんなでマットの下に隠れた。今考えればちょっと滑稽である。揺れは確かに大きかったが、東北の太平洋沖では普段から地震が多かったこともあり、大人たちは気に留める様子もなかった。

次に3月10日、寝ている時に地震が襲った。同じく震度5弱だったと思う。僕は布団の中で、あぁ揺れているなあくらいの感覚だった。居間へ向かうと親父がNHKを真剣に見ていた。朝食を食べながら、最近地震が多いから気をつけようと家族会議を行った。

3月11日金曜日のことは、言うまでもないだろう。僕は学校で、まもなく下校せんという状況だった。震度6強の揺れが10分くらい続く。校舎の壁面にはみるみる亀裂が入っていくのが見える。何も考える余裕がなく、ただ机の脚にしがみついていた。ふと廊下を見ると、各学年の主任の先生が職員室へとダッシュしている。普通避難訓練では、揺れが収まるまでその場で待機をするのが原則と言われるはずだ。しかしこの時は違った。まだ揺れが収まらないうちに、校庭に避難の指示が出された。きっとこのままだと校舎が持たないと判断されたのだろう。避難の際は、押さない・走らないが原則であるが、それは原則に過ぎない。先生も児童もみんな走って着の身着のまま校庭へと飛び出た。

東北の3月はまだ冬である。運の悪いことに、この日は雪が降っていた。このままだとみんな凍えてしまうから、体育館に全員避難して、石油ストーブが焚かれた。親が迎えに来た者から下校となった。僕の母は、本震から3時間くらい、午後6時くらいに迎えにきた。やはり母は偉大である。母の顔を見ると、途端に涙が溢れた。体育館で情けないほど号泣したことは、中学を卒業するまで同級生にいじられた。仕方ないじゃないか!今だって涙でるわ!

電気・ガス・水道が全て止まった。蝋燭で灯りを取るという、江戸時代みたいな夜を過ごすことになった。今思い返すと、蝋燭の火が余震で倒れたら結構アウトだったと思う。この日は10分おきくらいに震度4クラスの地震が起こってたからね。我が家は家の中のトイレとは別に、外にボットントイレがあったので、用を足すのには困らなかった。当然テレビは付かないので、電池で動くラジオをつけていた。どうやら、岩手や宮城、福島の沿岸部ではかなりの津波を観測したらしい。それ以上の情報は全く入らなかった。父親は祖父母と叔父に携帯で連絡を取ろうとするが、繋がらない。この規模の災害である、無理もない。この日の夜は、居間でみんなで集まって横になった。ただ余震がひっきりなしに起こり、その度に家が崩れそうになるので、全く眠れなかった。我が人生初の徹夜である。

翌日12日、近くの公園の水道から水が出るらしいという噂を聞きつけた。田舎特有の素早い情報網である。さすがに飲み水がないのはまずいので、両親とまだ4歳の妹と共に、ありったけの水筒を持って公園に行った。結果、飲み水にはなるかな?くらいの量の水を確保することに成功した。しかし、数時間後にもう一度汲みに行くと、水道の水は枯れていた。時間差断水ってのもあるのね。

嫌な知らせばかりではない。公園の水を取りに行っている間に、電気が復旧した。やはり電気は近代文明の利器である。安心感エグい。両親は真っ先にテレビを付ける。すると衝撃的な映像が流れてきた。岩手宮城福島の沿岸部を襲った津波の惨状である。ここで初めて南相馬の祖父母と優斗が心配になった。

同日、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こした。放射線がどれだけ拡散されたかは分からないが、原発周辺の地域(確か最初は半径10kmくらいだったか)が避難区域となった。しかし我が家は原発から70kmは離れているので、この時点ではあまり心配することはなかった。ただ、小学校の遠足で第一原発に行ったことがあったので、なんだかさみしい気持ちになったことを覚えている。

14日、この日は午後から雨が降った。僕は1人で給水所の待機列に並んでいた。チャリンコで給水所に向かったので、雨具を持っておらず、冷たい雨に打たれた。このとき、3日前には雪が降っていたのに今は雨が降っていることに、微かな春を感じた。ところが、この雨は打たれてはいけない雨だったのである!

僕が家に戻ると、衝撃のニュースが飛び込んできた。3号機爆発である。どうやらこの爆発は2日前のそれよりも規模が大きいらしく、大量の放射線が拡散された可能性があるようだ。NHKでは水野解説委員が引っ張りだこで、屋内に待機してくださいと呼びかけていた。放射線は雨に溶け込むので、雨に打たれないように気をつけてくださいと繰り返し報道されていた。ん?僕さっきずぶ濡れで帰ってきたんですけど?同日の放射線量は、僕の家の付近で25μSv/hを超えていた。ちなみに東京の現在の放射線量は0.07μSv/h程度である。

間髪を空けず、祖父母と優斗の住む南相馬市の全域に避難指示が出た。祖父母は雨の中車で6時間かけて我が家を訪ねた。普段なら1時間半の道のりだが、南相馬市民が一斉に車で内陸部へと向かうので、道が混んでいたようだ。いくら地方とはいえ、人口5万人規模の街である。彼らが同時に動いたら、渋滞になるのも無理はない。祖父母の家は津波の難を逃れたようだ。僕は当然優斗も同乗していると思っていたが、車に乗ってきたのは祖父母のみだった。祖父は、叔父とは連絡がついたものの、叔父の車は流されてしまって移動できないというようなことを言っていた。優斗に関しては、安否が分からないらしい。小学校にいるなら避難できているはずだが。

祖父母は10日くらい我が家にいたが、南相馬に戻ってしまった。そのときに我が家でも一台車を出して、優斗の家を訪ねることにした。烏崎はすぐ目の前が海である。家が流されているのは想定していたが、基礎コンクリート以外全て跡形もなくなくなっているのには言葉がなかった。ただ大津波警報が出ている中で、家にいるとは考えにくいので、きっと無事であるはずだという話になった。避難所も大量の避難民で混乱しているし、郡山とか会津の避難所まで既に行っているのかもしれないと、祖父母や父はそう話し合っていた。

優斗はこの一週間後に、彼のお母さん(僕にとっては義理の叔母にあたる)とともに発見された。自衛隊の方が見つけてくれた。叔母が優斗を守るように覆い被さっている状態だったようだ。優斗の手には、携帯が開いた状態で握られていたようだ。きっと僕と同じように学校に親が迎えに来て、合流したところで津波に流されてしまったのだろう。

ちょうど1ヶ月が経った4月11日、慎ましやかに学校が再開した。原発事故の影響を恐れて、いつのまにか転校した人がクラスに3人いた。春は別れの季節とは言えど、あまりにも突然すぎないだろうか。その日の夕方、また震度6弱の余震が襲う。この1ヶ月で、強い地震にも緊急地震速報の音にも慣れてしまった。

6年後、高校の部活の遠征で○橋工業と試合をしたとき、相手の選手と握手をしたら「あ!福島の人と握手しちゃった!放射能やん!」と言われた。なるほど、これが福島で生まれ、福島で育ってきた者の定めなのか。


来年の3月であれから12年である。干支が一回りしてしまった。この記憶はいつまで経っても色褪せないし、僕の人生にとってかなり大きな出来事だと思う。トラウマってわけじゃないけど、何かにつけて思い出すと悲しくなってしまう。でも僕より大変な思いをした人もたくさんいる。両親を津波で亡くして転校してきた友達、自宅が原発の避難区域に指定されて仕事も家も車も全て投げ出してうちの小学校の体育館で避難生活してたおじいさん、そんな人の気持ちを考えるとまた悲しくなってしまうな。

今は東京で適当な大学生をやってるけれど、やはり僕は福島が好きだ。僕に出来ることはほとんどないけれど、せめて福島に骨を埋めよう。自己満でもいいから、色々な人の話を聞いて、それを誰かに伝えよう。そう思うばかりです。


仙台雀踊りはご存じですか?伊達政宗の家紋に雀が描かれているのが発祥だそうで。「すずめの戸締り」の由来か?あぁ新海誠よ。


※登場する人名は仮名。地名は実在しますが身バレ防止のためちょっと大字変えてます。ググられると一瞬だからさ。

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