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美空ひばり

美空ひばりが東京ドームで復活コンサートを開催した時代である。

彼女が突然福岡済生会病院に入院したとき、日本中にニュースは大々的に放映された。

1987年4月、コンサートツアー途中の出来事だった。

病名は、両側大腿骨骨頭壊死、慢性肝炎、いずれも治療が難しい病気である。

自覚症状はドンドン大きく、辛さが増す病気といってよい。

当時は、病名は知り得なかった。一切報道されなかったのである。

その後、彼女は済生会病院を退院した。自宅療養に入ったのである。

信じられないことが起こった。それは、翌年1988年4月だった。美空ひばりは復活した。

復活コンサートに打って出たのである。
東京ドームでコンサートを行った日本人アーチィストはいなかった。
美空ひばりが初めてだった。

東京ドームコンサートに日本中は沸き立った。
コンサートの翌日、ホテル・エドモントで記者会見が行われた。

なぜホテル・エドモントで行われたのか。
赤坂プリンスやニューオータニなど大型シティホテルで行われのが常であった。

報知新聞社の深見社長はホテル・エドモントをこよなく愛していたのであろう。
毎日のように利用していた。

エドモントの社員で深見社長を知らなかったら“もぐり”と言われていたものである。

深見社長は芸能人の面倒を見るのが何より好きだった。「伊東ゆかり」だの「園まり」だの
しょっちゅう色んな芸能人(主に歌手)を連れて会食にきていた。

そういえば、「パトロン」という言葉はどこにいったのだろうか。

多分フランス語あたりだと思うが、パトロネージュかな。
支援するという単語の変化形なんかだと思う。
ちょっと知識をひけらかしたくなった。いつもの癖だ。

美空ひばりも深見社長に大変お世話になった一人だったようだ。
たぶん、深見社長から「エドモントでやればいいじゃない!」と言われて
応じたのだと思う。

問題はここから始まる。ここからが重要である。
記者会見の会場担当責任者を務めたのが、エヘン!この私である。

私は宴会、会議、展示会などをいろいろ担当していたが、芸能人の記者会見などというのはエドモントでは皆無に等しかった。

エドモント始まって以来の出来事であった。

記者会見の準備は大して難しいことでも無く、
事務所の人にスタート時間と終了予定時間を確認する程度だったが、なんと、
私が美空ひばりを演台までエスコートすることになったのである。

記者会見スタート間際になって、事務所の担当者がわんさか集まっている取材陣に対して切り出した。

「ひばりが中央のイスに着席して、私が手をあげるまで撮影は一切しないで欲しい。
一社でも約束を破ったら、会見は中止します!」
そして、その担当者は私に言った。

「ひばりはよく歩けないのです。ご案内は、本当にゆっくりでお願いします!」
いよいよ本番、私はゆっくり、ゆっくりと美空ひばりを演台へ案内した。

彼女はほとんど歩けない状態だった。
それでも演台までたどりつき、私がイスを引いた。
途端のこと、まさにその瞬間である。
『パッパッパ』 『カシャカシャカシャ』
光と音の洪水・・・ カメラのフラッシュとシャッターを切る音が会場を木霊した。
普通はスターが登場した瞬間から好きなタイミングでシャッターを切るのであろうが、
今回はそれが禁じられていた。

全てのカメラが一斉に動き出した。
突然のフラッシュ攻撃に、私は目の前がまっ白になって何が何だか分からなくなってしまった。

フラッシュの光の渦はしばらく止むことがなかった。
記者会見の後、会場を大宴会場に移動しパーティーがスタートした。

美空ひばりは深見社長の横に座った。
美空ひばりは言った。
「私、お料理作ってきたのよ、食べてね!」
タッパを次から次へとテーブル上に広げ始めた。
「おいおい、聞いてね~ぞ!」なんて言うのは野暮である。

深見社長は嬉しそうでもあったが悲しくも見えた。
「お~美味しそうだね!」なんて言いながら、
煮物や揚物を食べていた。
美空ひばりはも自分が作ってきた料理を深谷社長と一緒に食べていた。

二人ともホテルの料理には最後まで一口も手を付けなかった。
なんか複雑な心境であった。

記者会見など経験したことが無かった私は、翌朝の
ワイドショーに記者会見の様子が大々的に放映されるということを全く予想もしなかったのである。

経験が無いというのは、まさしくこういうことなのだろう。

翌日も何ごとも無かったかのように朝早くから仕事をした。
美空ひばりの仕事は、昨日の仕事で 次の日になればまた全く別の仕事である。

キッチンの前を通ったときに声がかかった。
「お~、美空ひばり、笹川さん いい男に映っていたぞ!」
会う人会う人から声を掛けられた。
最初は何のことを言っているのかすら分からなかった。
宴会予約のオフィスに行くとちょっしたスターだった。
「笹川さん、すごかったのよ!TBS、フジテレビ、テレビ朝日、日テレとどこをまわしても、どこも同じシーンを放映していて、笹川さん
がエスコートしている場面が映っていたのよ!」

その時に教えてくれよな!って感じ。
その模様を誰もビデオに録画していなかった。
私は映像を見ることが叶わなかった。
結婚式で会う司会者や奏者など色んな人から
「美空ひばりの記者会見、見ましたよ!」と声を掛けられ続けた。
「あっ、どうも・・・」と、毎度毎度同じリアクションを繰り返した。

あれから1年。
1989年6月24日、美空ひばりは逝った。
訃報が大々的に報じられた。
私の心は大きな衝撃で痛打された。

記者会見の日、私は、美空ひばりの公に出来ない事情を知った。
頑張って欲しい!と、ココロの中で願っていた。
病魔は、信じられないような早さで、美空ひばりを奪ってしまったのだ。
テレビは何度も何度も流し続けた。
東京ドームの不死鳥コンサートの様子も、何度も映し出した。
私は身内が亡くなったかのような言い表しようのないショックを受けた。

まわりの人間と軽々しく話をすることを避けることにした。
今でもテレビの美空ひばり特集を見るのが辛い。
記者会見の模様、パーティーの模様、
そして1年後に聞いた訃報を思い出し、切ない気持ちになる。
日本には「美空ひばり」はもはや登場することは無いであろう。
成長する日本の中でスターであり続けた美空ひばり。
私は、美空ひばりと共に生きたと思っている。

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