第二章 九話 毒婦

「海野先輩、開けるよ。もし若林先生が暴れるような事があったら、頼むね。多分私だけじゃ抑えられないと思うから」

「わ、分かった」


 そう言うと私は、海野先輩を肩ごしに振り返る。霊に憑依された人間ってのは、小さな子供でも華奢な女でも、信じられないほど力が強くて、吹き飛ばされる事もある。

 いくら私に武道の心得があったとしても、一人じゃ、とても無理。海野先輩なら私よりも背が高いし、体格も良いので頼りになる。


「この扉の先にいる悪霊は、海野先輩を騙したんだ。ずる賢く油断ならない奴さ。もし私が憑かれるような事があったら、お祖母ちゃんのもとに連れて帰って。頼れるのは海野先輩だけだからね」

「……雨宮さん」

「それじゃ、開けるよ」


 お祖母ちゃんや、お母さんが言うには悪霊や、怨霊というのは長い間放置していると、いずれ自我を失い、地縛霊や動物霊、怨霊など次々と取り込んで、西洋でいう魔物のような存在になる。

 そうなると、祓う巫が命を落としかねない。

 だから、自分達を頼って来た依頼者が魔物に憑かれ、助ける分には、龍神様のお導きで、試練として受け入れるけれど、自らそういった場所に遊び半分で近付く事は、危険だと口酸っぱく言われるんだ。

 私は、まだ魔物に遭遇した事がない。

 相手がそうなら、勝てる見込みがあるのか分からないよ。だけど、正直に言ってこの悪霊にとても腹が立っていた。


「……っ!」


 私達は互いの顔を見合わせ、式神が離れた瞬間、院長室の扉を開けた。もう、夕方になってそろそろ日が暮れる筈なのに、部屋に入った瞬間に、目の前が真っ白になった。

 目が慣れてくると、そこは古めかしい……良く言えばアンティークな部屋が広がっていて、一瞬混乱する。

 硝子ガラスのキャビネットに、聴診器。木製の分娩台。木製の机と革の椅子、ホーローの洗面器等がある。大きな二つの窓から、穏やかな真昼の木漏れ日が降り注いでいた。

 ここは、診察室も兼ねた院長室だったんだね。でも、これは私が自発的に霊視した訳じゃあない。過去の映像を、無理矢理頭に捩じ込まれたようだ。


『随分と乱暴ですこと、刑事さん。村の者は私に感謝していますよ。育てられぬ、不義ふぎの子供を預けられるのは、この場所だけですからね。貰われて幸せになる子供ばかりなら良いけれど、嬰児は死にますから。仕方ありませんでしょう。ほれ、ここに病死という死亡診断書もありますよ』


 目の前に居たのは、若林先生ではなく着物を着た上品な中年女性だった。生きている人間じゃあない、恐らくこの産院の主。

 穏やかな微笑みは、人が良さそうに見えるけれど、目の奥は狡猾こうかつでギラギラしているように思えた。

 詐欺師ほど、常識人を装うって言うもの。


往生際おうじょうぎわが悪い、観念するんだな、荒牧カヨ。この自分が、庭に全裸の赤ん坊の遺体や、白骨化した遺体を発見した。まさに鬼畜の所業しょぎょう。荒牧産院に我が子の様子を見にきた芸者を、追い返しただろう。業者からも不審がる通報があったぞ」


 私の口から、男の声で非難するような言葉が発せられた。これは恐らくその場に居た警察の記憶だと思う。まずい、完全に自分では体を動かせない。

 中年の女は、貼り付いたような笑みを浮かべると言った。


『東京から来た貴方も良く知っておいででしょう。終戦後の大凶作で配給品は雀の涙です。間引きせねば、家族は飢えて死んでしまいますからね。不義の子を持った芸者や戦争未亡人も、生きていくのがやっとなのです。その始末を私共がするのですから、見返りは必要でございます』


 頭の中で、養育費と赤子を受け取る中年夫婦が視えた。当初は養育し、斡旋あっせんしていたものの、徐々に宣伝になるような見栄えの良い赤子だけ残し、貰われたように見せかけ、殺害して庭に埋めた。

 荒牧産院は家族経営のようで、娘二人と夫が詐欺横領と殺人に加担し、一切他人を入れなかったようだ。

 村人達はそれを知りつつも、後ろめたさがあるせいで、暗黙の了解のように口を閉じ、見て見ぬふりをしていたのか。


「こんな事がまかり通る世の中はおかしい」

『お若い駐在さんは、若さゆえ正義感がお強いのでしょうね』


 それを不審に思ったのが、東京から来たこの若い駐在だったんだね。


「村長もグルなのか? まだ嫁にも行っていないのに、村長の一人娘が妊娠していたと聞いた。その子はどうなったんだ」

『ふふ。今は選挙のまっただ中でございますよ。余計な詮索など、せねば良かったものを。貴方の代わりなんていくらでもおりますのよ』

 

 悪霊は気味の悪い笑みを浮かべている。

 私の体は金縛りにあったままで、何者かが殺意を持って、駐在の背後に忍び寄って来るのを感じた。よそ者があまりにも踏み込み過ぎてしまって、消されたのか。

 このままだと、私も駐在と同じように危害を加えられてしまう。

 

「雨宮さん!」


 海野先輩の声が響いた瞬間、金縛りが解けて、現実に引き戻されると反射的に振り返った。髪を振り乱し、手術用のメスを持って絶叫している若林先生を海野先輩が、後ろから羽交い締めにしていた。

 私は、若林先生から一歩引くと悪霊が居た方向を見る。

 そこには、白目のない真っ黒な瞳を、顔半分まで大きくさせた悪霊が、ギャハハハとかん高い笑い声を上げていた。

 上品そうだった着物はボロボロで、結った髪は乱れている。そして、腐臭のようなものが、この部屋全体から臭ってきて嘔吐しそうになった。死人の匂い、と表現するのが適切かもしれないね。

 そうか……よくよく視れば、この悪霊の腹部からへその緒がトンネルまで伸びているんだ。まるで蜘蛛の糸のように、荒牧カヨはあの子達を繋ぎ止めている。


『逃さない逃さない逃さない逃さない。赤ん坊はカネになるンだから。逃さない逃さない逃さない逃さない。あんた達は生きて返さないよ』


 半分、魔物になり掛かっている悪霊は異常なまでに、赤ん坊の霊に執着する。こいつにとってあの子達の魂は、今でも飯の種なんだと思うと、腹が煮えくり返った。


「悪霊の分際で、人間様を舐めるんじゃあないよ! 私は、あんたみたいにどうしようもない、性悪女は生きてても死んでても大嫌いなんでね。覚悟しなさい」


 こんな奴に、丁寧に『お諭し』してやる言われはないね。半分魔物化してるなんて、知った事じゃないよ、どんな理由があろうと死んでまで人様に危害を、加えるような奴は天誅てんちゅうする。

 悪霊が目を見開くと、散乱しているカルテや器具がガタガタと揺れ、宙を飛び、窓硝子や鏡が割れた。

 私は、頬が切れたのを感じながら、雨宮神社の龍神様が描かれた護符を両手に挟み、代々我が家に伝わる、かんなぎが唱える事が許された祝詞のりとを上げる。


「せ、先生っ……! しっかりして下さい! 雨宮さんの邪魔はさせないですよ!」

『ううう、うわぁぁあ! ぎゃああぁあ! 離せえぇぇ!! わしの邪魔するなぁぁ』

「あ、雨宮さん、早く! 早くしてくれ。僕だけじゃ抑えられない。先輩達を呼ばなきゃ」


 喉が潰れそうなほど叫び、暴れまわる若林先生を、海野先輩が必死に抑え込んで羽交い締めにしている。

 あの悪霊は、必死で私が祝詞を上げるのを妨害したいんだろう。

 ゴロゴロと雷鳴が轟く音がすると雨が降り出す。悪霊は金切り声を上げながら、部屋をずるずると動物霊のように四つん這いになって走り回り、威嚇いかくした。

 龍神祝詞を上げるのに時間も掛かるし、邪魔をされれば、二度と尻尾を掴めない。


「おい! てめぇ何やってんだ」

「米倉さん! 一緒に抑えて下さい、先生が刃物を持って暴れているんです」

「お、おう」


 浩司さんの声が聞こえ、安心した瞬間に龍神様が空から降りてきたような、大きな落雷音が聞こえ、部屋中に白い透明な龍の鱗が視えた。

 とぐろの中心に、荒牧カヨが飲み込まれるようにして、声もなく消え去っていく。

 

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