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心に刺さる喪中はがき……。

11月に入り、年賀状が発売されると、ぽつりぽつりと喪中はがきが届くようになった。
地元の新聞には慶弔欄があるので、県内の知人の安否はその都度その都度、知ることができる。
この時節、喪中はがきが届くと、そうだ、あの方は今年亡くなったのだったと再確認するような淋しさがある。

東京の新聞に慶弔欄はないと、東京在住の息子から聞いた時は驚いた。
石川の地元の新聞には慶弔欄があるのは、昔から当たり前だったからだ。
でも改めて考えて見れは、人口の多い大都市の新聞に慶弔欄をつけるとしたら、それだけで数ページは必要になるだろう。
なくて、当たり前なのかもしれない。

ここ数日届いた何枚かの喪中はがきを読むたび、高齢の方であれば天寿を全うされたのだと思うようにしている。
けれど、その中に心に刺さる喪中はがきが二通あった。

一通は十二歳のお孫さんが亡くなったとの喪中はがき。
私にも孫がいる。
この喪中はがきを書いた友人の心を思えば、察するに余りある。

若い頃に親に言われたことがある。
「親より先に子どもが亡くなる場合を逆縁という。これほど悲しいことはない。これほど親不孝なことはない。だから体を大事にして長生きしろ。親を看取るのが子の役目だから。歳の順に亡くなるというのは、ある意味、自然で幸せなことなのだ」と。
おかげさまで九十四歳の父と九十歳の母は、今もかくしゃくとしていて、記憶力も計算力も、時として私よりもしっかりしている。
私ももう少し頑張って生きて、子としての役目を果たさねばならない。

二通目は、関東に住む創作の友だちの喪中はがき。
友だちを仮にSさんとする。
二〇〇四年、東京で開かれた「JOMO童話賞」の授賞式で初めて会った。
「JOMO童話賞」は今は「ENEOS童話賞」と名前が変わっている。
あの時は全日空ホテルだったと思う。佳作を受賞し、大広間で盛大な授賞式と豪華な立食パーティーが行われたことは今もはっきり覚えている。
Sさんは受賞者ではなく、某童話塾で学び、既に出版もしている方だった。
主に児童文学を書いていて、その後も長編児童文学新人賞に入賞するなど、着々と実績を積み重ねていた。
創作の手本とすべき四歳上の先輩だった。

通常、喪中はがきは遺族が出すものであり、「喪中につき年頭のご挨拶を失礼させていただきます」から始まることが多い。
けれど届いたSさんの喪中はがきは、違っていた。
「これは生前に書き遺すものです。この葉書をお読みになっていらっしゃるころ わたしはこの世にもうおりません」とあり、文は友人知人への生前の感謝へ、そして別れの言葉へと続いていく。
この文が書かれた日付と、亡くなった日付けとは十日ほどしか違わない。
Sさんは自分の死が近いことを知った上で、この文を綴り、自分の亡きあとに知人友人へ送ることを遺族に依頼したということになる。
なんという精神の強さ、なんという意志の強さ。
私にはとうてい真似できない。
そんなの、まさに小説みたいじゃないかと、Sさんに言いたくなる。
かっこよすぎるよ、あなたらしいよ……。
Sさんの希望通りに実行した遺族の方も、すごいよ。

あなたが亡くなってから二週間後に届いたよ。
あなたの気持ちは確かに受け取ったよ。
でも逝くのは少し早すぎたんじゃない?

どうか、安らかに眠ってください。


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