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リーディングってどんな世界? Vol.7

https://note.com/rich_daphne632/n/n8b17dd6203cd?sub_rt=share_b

午前中に長女の闇との共感ワークにトライ❣️

何故かやる前に涙がポロポロと出て、まだ何もやってないのに??なんとも不思議な感覚の滑り出し。
が・・・なるべく闇に沈もうと思うものの、なかなか沈めず四苦八苦💦💦💦
病院の面会時間が迫って来たので一時中断し、帰ってきて再チャレンジする。

う〜む😣先程より潜れた感じはするのだけど、途中から急に浮上してしまった??何で❓

その旨をまさみちさんに送ったら、返信が来る。

”長い文章送ろうとしたら、送信出来なかった。多分それで潜れた感が消えたかと。”

“区切ります。”

”ダンナさんに対して瀬織津姫の祈り、祓戸の四神の力でリーディングをやってみました。 (他のワークは全部浩子さん経由でないと届かないが、これは直接アプローチが許された)

↓ここからまさみちさんの膨大なブロックはずしが始まる。(抜粋も切ることもできないのでそのまま記載)

1–1,この世界に救いなんてない。

1-2,弱い者は虐げられ搾取されて終わるだけだ。

1-3,どれだけ祈ろうとも世界は変わらない。
自我の力で勝ち取るしかない。
自分の力で立ち上がるんだ。神に逆らおう。
何もしない神を否定する! 
そのように考える者たちによって問題は生み出され世界は混沌となりました。

1-4,柔軟そうに見えて、全てに意地を張って本当かどうか一々確かめてから了承して行く仲間からしたら、面倒くさい生き方をしていた。
解ってもらおうとも思わずにいたから問題が家族に出た。
父親は、長女には真っ直ぐ育って欲しいと強く願ったものだから、「このへそ曲がりの治し方を見つける為に、どこまでも歪んだ性格になってから、真っ直ぐ育つ道を見つけてこそ父の願いを叶える人に成れる」と長女は素直に応じた。
結果、誰も正すことが出来ないへそ曲がりに育ち、歪みまくった認識に陥るだけで、真っ直ぐ育つ道に進み方が見出せなくなって父と長女共々苦しんだ。

1-5,信じられるものは、信じるに値する結果を示したものだけにもたらすもので、「無条件に信頼する」ものなどないとしてしまったから、長女への救いの道は断たれている。
互いに「父から救いに来て」「長女から立ち上がってこい」と求めるばかりで、寄り添い方が解らずにいた。
理解の範疇を越えるものには、踏み出して越えていくことが出来ずにいた。
互いに深い信仰を失っており、真実の愛といった言葉にして実証する必要のないものを、家族の間においても見出せないでいた。
「親しき仲にも礼儀あり」とした教えが互いを縛り続け、範を示すべき父親が礼節を欠く言動を見せては長女に失望を与え、長女の反発がただの我がままに聞こえてしまう為、目上に礼を持って尽くせと「誰のお陰か」と愛情を取り引き材料に持ち出されると、弱者の立場(ここがという冷遇された領域)に立たされる長女の身の上としてはどうすることも出来ない。
故に夜の仕事など誰から見ても「表の仕事」とは言い難いものにしか許された道は存在しておらず、「の冷遇された領域の商売を求める人たちがいる世界」に染まるしか生きて行けない長女の絶望的な哀しみがそこに流れていた。
父が正義のために転生の歴史の中で、敵を排除して秩序を生み出した道の中に、長女のような親を殺され、奴隷として売られることになる犠牲を生み出しているとは知らずに来た。
今、自身の「戦争で解決してきた道のり」の全てを過ちと認め、を一つにしていく愛の道に戻る覚悟を持ち、長女の救済に入りました。

1-6,二人の転生人生のどこを見ても「仕方がなかった」と言いたくなるような時代の流れやうねりの中で翻弄されるだけで、加害者と被害者の関係を積み上げてきた。互いが立場を入れ替わることはなく、ずっと父親が強者の立場に居て、長女が弱者の立場に居て、父親は二度と長女のような犠牲者を生み出さない正義のために動き続けて来た。
長女は自分のこのような身の上でも救い上げてくれる父親を求め続けた。
救いようのない長女の手を父親が握って離さないから、父親は半身を奪われても構わないから長女との和解の道を探していた。
そこに母親が両者の手の繋がりの真実を知らせに動いた。
犠牲でしかない長女の心の痛みに、母親は気持ちを重ね合わせて失望の世界に愛の光を送り続けた。

1-7,人の人生の学びに大いなる飛躍や転機などは「物語の中だけ」と家族中がどこか冷ややかな目を養っていた。
希望に満ちた言葉を使うのは常識であり、人付き合いの基本として身につけるが「他人は他人だ」と、どこまでも区切った価値観を持ち合わせていた。
どこまでも「見た目と行動した結果が全て」とする世界の中で、無条件に信頼することの意味も感覚も解らずにいた。
好き合う夫婦の中にも冷めていたものがあり、条件付きの愛のやり取りで「正義感を中心に物事を動かす」ことが道だと思い続けていた。
それが父の脳出血で世界が一転した。
病に倒れることは、何かがおかしく異常であることを伝えるサインであり、それに気付く道が「父の生死」を問われたとき家族の気持ち、父と長女の気持ちは一つになり開かれた。

1-8,神の声を聞く者や聖者と呼ばれる人々も、物事を動かすには人の力が不可欠である。
神の愛では腹は満たされない。
働いた者が食っていい世界を誰もが望み受け入れ、変化して行った世界がこの世界である。

1-9,弱ければ淘汰されるだけ。

1-10,生き残らなければ世界を変えて行くことも出来ない。欲するに任せよ。

1-11,愛する人を失った時、世界の全てが崩れ去った。
もう戻ることはない。

1-12,誰かを犠牲にして生きる道は違うと気づく世界が始まっていた。
故に長女を犠牲に出来なくなり、父が築き上げた道のりが反転して長女にのし掛かった。
苦しみを全て父が背負ったものの、カルマというループの枠組みが表面化するだけで、何も変わってはいなかった。
一つ一つ問題と向き合い、絡まった因縁を解いていく母の姿がここにあった。
どうすることも出来ない因果のメカニズムを母は学び、すがるしか無いが、自身の足で歩いて行くしか無いのも解る為、一心に祈り(リーディング)始めた。

1-13,無価値感に呑まれている長女を理解しようもなく、また意識は戻ったものの半身が動かぬ父の姿に、自然回復だけではどうにもならない世界がここにあった。観念のループに閉じ込められた父と長女の二人の苦しみは、互いを否定し合うことで成立する世界を形成していた。
互いの存在を認めようとすると、互いに自我が崩壊してしまう為に認めようにも認められず、許そうにも許せない関係で成立していた為、「話し合えば解り合える」とした教えさえも無効にしてしまう衝突があった。
為す術がなかった。
そこにリーディングという祈りの道を母が開いた。

1-14,因果の縁起となる「物事のそのそもの始まり」は、『未開地の人々は野蛮で導きが必要だ』とした「優越種」とした発想をユダヤ人が持ってしまったからでした。
父はその教えに加わり「他民族を従わせることだ」と人からの教えを歪めて解釈して従わない者には戦争をふっかけ征服し、従わせることが答えだと信じ込んで行きました。
「あなたは間違っていて、わたしは絶対に正しい」とした価値観を父が維持していたからである。
今日では、この教えが裏返り「絶対的な一神教は狂気でしかない」と、かつての自身の発想とは真逆の認識に至っているが、過去世の因果は「自身こそ絶対神、唯一神の教えを忠実に守る使徒だ」として君臨する境地があった。
真実の教えは「力を合わせる手本となりなさい」と、伝えられたものの、それが対話の中で歪められてしまい、ユダヤの民に従わない者たちの対処法として「導き」と取って変わり、「優越種」とした発想を支えるようになり、「自己犠牲と寄付の愛」で未熟さを誤魔化して自身の絶対性を失わずに来た歴史があります。
その結果、自己犠牲の愛により半身を長女に捧げ、自身の正義を証明しようとしていたのです。
歪んでいても長女を守りたい気持ちは絶対であり、かつての自身と対立することになっても今の長女を守ろうとして、過去世の価値観の自分と折り合わずに倒れたのです。
負けても殺されても構わないと、力の差が絶対的になってもなりふり構わず外敵と戦い、征服されまいとして抗い続けた自然崇拝者(ドルイドやインディアたち)と同じ境地になり、現代の父は長女の味方となり、かつての自分の概念と戦って倒れたのです。
今、その教えの歪みが無に還り、誤解が創り出した幻想現実世界は消えて無くなりました。

1-15,何を伝えられても届かない世界に真心を隠した。

1-16,混沌の中で何が正しいのか誰も解らなくなっいた。
1-17,今でないいつかの未来を信じて生きるようになった。

1-18,自らが自らを助ければいい。神の救いなどいらない。

1-19,全てを知れば人と人とが争う理由などないものでした。
分かち合い、助け合い、与え合い、慈しみ育み合うだけの世界に「理解したい」という気持ちは、「愛している」が元々にあり、「理解したい」以前に「理解できなかった」思いがあったため、心の使い方を最初から過っていたことが見えずに居た。
いつでも、どこでも「理解している」とすればよく、それを導き出す智慧を授かるには「愛されている=理解されている」発想になっている必要があり、それは即座にイメージすれば出来ることでした。
仏教で説かれる即身成仏を実践して見せれば、立ち所に相手の苦しみを、我が身のごとく感じ共有できるものになる。
そうすればどんな人でも「愛されている」と感じられるようになり、未熟で傷ついて再起不能に陥っている長女の心の味方となって、全てを救い上げてくれる父になればよいものでした。

1-20,長女の願いは心に巣くう
「第1チャクラ:憎悪」「第2チャクラ:不信」
「第3チャクラ:非難」「第4チャクラ:絶望」
「第5チャクラ:悲惨」「第6チャクラ:不快」
「第7チャクラ:拒絶」
とした7つの思いに縛られ、愛の言葉を使うことさえ出来ない状態に陥っているものでした。
父と長女は対立し合うことが出来なくなり、父親の気丈な姿は幻と変わり、長女の意識を踏み続けられなくなり、父もまた深い絶望を抱えることになるのでした。
それを父が望んだからです。
長女より弱い立場に回ることでしか応援してあげられなくなっていた父の姿がそこにありました。
父の愛が長女に届きました。

1-21,誰を責める訳でもなく、誰も責める必要もなく、物事は流転しており、その因果の流れの中の一つの出来事が起きて消えて行くのが人生です。
ガードレールのように、どこまでも「教訓」という体験から得られる気づきは、転生を超えても残り続ける思いがあり、その道から抜け出したくてもガードレールを越えることは出来ず、どこまでも流されるままに生きて行く二人の「救われない」思いは救われて消えました。
「憎悪」「不信」「非難」「絶望」「悲惨」「不快」「拒絶」を合わせて「嫌味」という愛が注がれて行き詰まり反転して「大好き」に変わりました。

2-21,どこまでも許されていました。その中で必要な時に、気も身も引き締めて行く力を授かりました。

3-21,会話は愛に根ざしていなければ成立することが困難であり、他者との関係ばかり気遣い、親子の繋がりにおいては置き去りにされてきたケースが何度もある。
素直に話そうが建前を使ったところで、父と長女の食い違いを正せる道はなく、距離を取るしか道がない現実さえも互いに受け入れられない似た者親子でした。

4-21,長女の正義感も、父親の正義感も等しいものでした。似た者以上に同じでした。
性別を入れ換えれば同じ事を互いにやってしまっている間柄でした。
ただ、分断して絶対に認めないとしているから半身不随になっているだけで、どう見ても重なり合うくらいに同じ姿で生きていました。 
相手の身に成った体験がない為に、相手が伝える全てを鵜呑みしてそこから伝わる痛みに共感することが「信じる道」になりました。
今、気持ちが一つに重なり、父は長女を一方的に支える関係になり、長女が被害者の立場で味わった道のりを父が歩き、父の正義感を長女が持って生きることで長女に新たにの道が開かれました。
父はの道を歩み始めました。

5-21,父と長女は互いに建て前が使えない関係であり、互いの欠点そのものを映し出す鏡の役割でした。
その鏡とした世界が消え去り、泣きじゃくる父と、泣きじゃくる長女の姿がそこにあるだけでした。
道を知らぬ者同士、手を繋いで歩き出していくことでした。

6-21,「死ぬよりは生きている方がいい。生きてさえ居てくれたら、生きているだけで有り難い。」と思うのは生きている姿に害がない場合であり、生きていることで責め苦が発生するならば身内であっても「恩知らず」「礼儀知らず」として断罪に値するとしていたのをカルマの問題があると知り、客観的世界観から、どこまでも主観的世界観であると気づき、改めました。

7-21,見せかけの世界はいつか必ず崩れるとして、問題を先送りにしても、先送りした世界に限界が訪れると、隠した思いは肉体を破壊するものだと解りました。
脳出血とした結果で現れたものは「変革を拒絶して来た強者の理論の崩壊」を物語るものでした。
脳出血に意識を持たせ「吾」を目覚めさせ、何が起きているのか物事を「言」わせることで「語」らせることが出来るものでした。
脳出血は「間違った見立てで子どもの成育の道を見定めた」ことにありました。
男性の立場からは「突き放しても立ち向かってくる力を持たせたい」とし、女性の立場からは「受容して行かなければ何も生み出せない」としてしまい、男女の関係は一方的に女性が突き放されていくだけの関係に成ってしまいました。
女性にも突き返す力があればいいが、独立出来ていない段階での関係では「生活、生命の危機を前に萎縮するしかない」状態に陥るため、突き返せないまま不満や我慢を、溜め込むだけ溜め込んでしまう問題がありました。その潜在的抑圧は転生を超えて蓄積され、幼少期から長女の我慢は限界を越えていて、「家から出て行く」と心の内で決めたことと、「その道だけは進ませない」とした父親の思い込みの衝突が出血を招いたものとなる。
対立した以上、後に退けない為に徹底抗戦する長女は、父親の半身を捥ぎ取っていくことになる。
父親はこんな結果に陥るなど理解できる筈もなく、子どもはどこまでも親の子であるとした一般の認識が邪魔をして、長女側の立場の目線から見れば、父親は「子(長女)の生きる道をことごとく邪魔する虐待する親」とまで認知されているぐらいの感覚の違いが生じていることに、他人の目からも見出せないほど長女は追い詰められていたことが解る。
虐待されていた側からしてみれば「父親の回復は求めない」ものであり、言葉では体裁を整え見せかけだけの「早く元気になって治ってね」と言えても、心の奥底では長年の被害者の抑圧がある為、「もう立ち直らないで」と願いたい気持ちしかないものである。
立ち上がり、立ち直り、元通りのあの父親に回復するなら「父なんていらない」になると、出血した血たちが教えてくれている。
人の想いはその立場でしか解らないものであり、入れ替わった体験がなければ、今回初めて入れ替わった体験となり、長女の冷え切った心と動かなくなった麻痺した心そのものが父の姿として映し出されている鏡となっている。
ずっと右半身だけで幼少期から長女は体を引きずって生きていたのです。
「そんなつもりはなかった」と、誰もが口にする言葉で被害者は癒やされることは無い。
否定しまくった宗教の成れの果ての親子関係がここにありました。

8-21,真実ほど残酷なものはない。伝承では父の暴走を止める為に、娘が囮と成って父に襲わせてその身を犠牲にすることで暴走をやめさせるような話は幾らでもある。
大切な者を守る為に、他人を傷つけていい理論などないと知識で知りながら現実はそうではない。
転生すれば過去世の因果は消えて無くなるとした理屈は誰の「信じたい教え」なのか探らなければならない。
今世は今世の現実だけ見ればいい。
「一生一生を大事に生きればいい」と理屈ではそうなるが、現実は見たくない過去世があるから「一生一生を大事に生きればいい」として逃避しているに過ぎない。
自分の醜い姿は見たくない。
父も傲慢な姿を見たくないし、長女も劣悪な自分の姿など見たくない。
どちらも目を逸らしていて、相手の欠点ばかり目につくから衝突するしかなくなる。
「親なら愛があることを示してよ」と長女は嘆き、「子の異常さが理解出来ん」と父は嘆くのです。
この嘆きは理解し合える唯一の繋がりですが、それを感じて「一緒だね」と笑い合ってみることです。
これこそ「形だけ」でも良い行為です。

9-21,壊れた心を修復する道のりは、誰も知らないものです。
治った姿ばかり知っていてもその過程が「恐怖と向き合う」ことや「信じたくないものを信じてみる道」とは解らぬものです。
それには母親が役立つ人でなければならず、長女の唯一の理解者にならなければ始まりません。
覚悟があるものだけが隣人でいられます。

10-21,長女は救われないと割り切り、打算や計算で生きて行く道の悲壮感は、努力や勤勉さを根こそぎ奪い取っていきます。
難しい事に挑める感覚がなくなるため、興味を持っても飽きが来てしまい継続できなくなります。
その自分の飽きっぽさや集中力の無さは、自分の中だけにしまい込んで体裁だけは取り繕えるようにしている為に、見た目は普通を装えます。
そうした社会性だけは身につけられているので、周りも手の出しようがありません。
口を出しても変化しないアドバイスなど「苦しめられ追い詰めてくるだけ」である為、反発しか生みません。
泣きたいほど困り果てていても、困っている事さえも自覚出来ておらず、故に言葉にしようもない為、相談もできません。
時代は「主体性を大事にする」とした自我の獲得、自分で判断し決断していく自由がある為、リーディングのような「主体性を明け渡して救われる道」など言語道断である為、受け入れられる筈もありません。
一人の人に傾倒することなく、多くの人と相談し多様性を分かち合っていくことが道だと学んでいる以上、「特定の誰かだけ真実が解る」など、怪しい以外の何ものでもない為、声をかけても嫌われて終わるものです。
「全否定で関わる中でも救えるものなら救ってみてよ。」という非協力体制でも現実を動かせるというものなら、その時「信じてやってもいいかも知れない」と道はそこにあるものでした。

11-21,浩子さん夫婦の距離間の境目らに長女がいたのです。
母である浩子さんと父との間の溝が長女そのものなのです。
間に挟まれた狭い、どちらからとも理解されることの無いスサノオのように追放された立場としては、自分の世界に引きこもる以外に道はないのです。
見せかけだけ合わせて、普通の人を装うものの「終わっている感」しかなく、どうすれば希望を抱けるのか途方もない感覚に陥っているのです。
相談しても「解っていること」しか提示されず、状況そのものや背景全体の問題をマニュアルを与えてもらっても使いようがない現実は理解してもらえないでいるのです。
ただただ途方に暮れる感覚は奴隷に身を堕としている気持ちそのものであるし、状況を覆せない劣悪な環境下で「生きて行く道」をギリギリの線で渡り歩いています。

12-21,「ただ息を吸って生きているだけ」という状況を「生きているだけで丸儲け」などという言葉で飾ったところで鼻で笑うしかない長女の感覚に、その境遇を共にする人たち以外は理解できず、境遇を共にしているほどその過去や感覚を共有したくなくて孤独の道を行くことになるのです。
ずっと一人ですし、付き合う人が居ても心の内は一人です。
自分には自分がついているからそれでいいと、自我の中で自己完結して抜け出すことのないループそのものを、自身の本体と位置づけて心は決して開かない。
開いてその中が何もない真実など見たくもない。
自分が消えて無くなる恐怖を前に、全てのことがどうでもよくなるのです。
父が長女の価値観を否定で返すように、長女は社会の人々や概念に否定で返しているのです。
父が自分を否定するのをやめない限り、長女も社会を否定するのをやめることはない。
全ては同タイミングで起きている真実など、誰も気づきようがなく「せーの」でやめる道など時間の概念に飲まれている人たちに目覚めの道などない。
ただ目撃している母にも、母の友だちにも同じ事が言えるならその眼差しで全てを祓い清めて洗い流してなかった状態までしてくれたなら、夢のような出来事だとして受け入れ、心を改めてもいいと信じられる道が生まれるものでした。

13-21,この現実は永遠に続いて、どうしようもない人類は、互いを傷つけ合って壊れて終わるのだろうと誰もが想像する世界通りの道を歩んでいる。
掛け替えのない人を失った時、それが誰か人の手によって命が奪われるなどしたならば、それは到底受け入れられない現実として記憶に刻まれて、二度とそのような体験をしないように導く自我が発生します。
自我は「哀しみから生まれる」ものです。
その哀しみは十方(方角)に散らばり、波紋が広がるように、悲鳴は時代を突き抜けて、転生を縛り続けるカルマとして形成されるものです。
大切であればあるほど、不当な力で奪われていいものではない愛する人ほど、失った時の哀しみの悲鳴は世界中の人々に話して聞かせてやりたい哀しみ物語となるのです。
世界中の人々が「解るよ、同じだもの」と共感するその時まで「嘆きは終わらない」ものなのです。
世界中の人々が同じ哀しみの色に染まった今、父は半身を失う哀しみで一つになり、長女は父に倒れたままでいて欲しいと願う自分の哀しい心に哀しんで、父と一つになるのでした。
誰も立っていられない世界がここにありました。
病は、人が「相手が居なくなれば上手く行くのに」と願い行動した結果、自分の大切な人を想念で蝕み倒すものでした。
今、リーディングを通して和解出来るかも知れない道が開かれました。
少なくとも親子で隔たり合わなければならない道は消え去りました。
神の力が救いをもたらしました。

14-21,愛を見失った世界は、世界の構造そのものが全部が変わってしまうため、愛を見出すことなどできなくなる世界になるものでした。
全ての人々が同時に眠り、哀しみの自我を形成し、それこそ「自分の大切な心だ」認知している者に「目覚めよ」と促したところで、誰も目覚めていない世界で、自分一人から目覚めることなどできることではないものでした。
3万年前以上から分裂した心はずっと受け継がれ、治ることがない深い哀しみとなり、永遠のテーマになっていました。
原罪とも呼ばれる深い哀しみの根源は「あなたを知りたい」という嘘から始まるものだと誰も気づかないものなのでした。「あなたを知っている」し「誰もが私はわたしを知っている」し「みんなわたしを知っているし、あなたも知られている」ものです。
それでも自我は「その好きな人を深く知りたくて求めてしまうものです」それと同時に世界の全てを見失う体験から始まり、愛の喪失の果てに愛を発見する物語を生きることになるのです。
目覚める日が必ず訪れると信じてこの転生の冒険の旅に飛び込んだのです。

15-21,知っていて証明されているから信じられること、知らなくても証明されていなくても信じられることは同じ「信じる」を持ち合わせられるものでした。
知らなくても証明されていなくても「信じる」ことが出来る人の感覚は持ち合わせていない人には理解できない感覚のもので、それこそ求めているものです。
それがどうしても相手に提供された「証拠」で証明されなければ信じられないものとなり、同タイミングで全てが訪れている因果の法則は、原因と結果を生む価値観を超越するものだと知らなくてはならないものでした。
因果の波に呑まれていたみんなの意識が生まれ変わりを果たし、後付けでも現実に起きた出来事を納得できる解説を見たときに「真実を知る道」があると理解するものでした。

16-21,父の心の世界の愛は偏りが酷く、長女だけには居心地の悪い世界でした。
何度も改善を試みようとしましたが、全てを失ってでも長女の為だけに生きるという味方にはなってもらえず、苦しみだけが続く毎日になっていました。
状況証拠から人が傷つき病に倒れたりするのは「可哀想」だとかの言葉を選んで正解の会話は作れても、実感として「可哀想」という感覚を探しても見つからず、麻痺しきっている自分の心の冷たさに、ため息をつくしかないものがありました。
長女を改めようとせず、学ばせようとせず、本人のさせたいようにしてくれる赤の他人との距離感に愛を感じるものでした。
けれども人を好きになり、距離を縮めれば「変えたがりの男性の心」に触れてしまい、反発心で全身を覆ってしまい、その中に隠れた愛を守る為に身を挺している父の正義感とは気づかないものでした。
守られながら守られていない実態が現実をより悲しいものに染め上げていくものでした。
解り合いたいから、真実の姿を見せるものの真実の姿は「穢れており醜い」黄泉の国のイザナミか、結婚を許されずに突き返されたイワナガヒメの神話のように救いのない物語がここにありました。
全てを超越して「愛してくれる人」を待ち望んでいる長女の願い通りに、今、母親がこれを読んで理解している最中です。

17-21,許せないものを許せたとき、「許しの世界」はもたらされるものの、それは過去世の因果の始まりから終わりまでの全てを見て得るものです。
被害者しか体験していない長女の立場から、加害者しか体験していない父の立場を許すことは難しいけれども「それしか道はないもの」でした。
父が倒れたことで復讐は果たされているし、父も長女の嘆きを受け止めきってあげたい真心が働いて身を挺している。
どちらも愛を求め、愛を受け止めていた。

18-21,自分さえ我慢すればなんとかなると、自己犠牲で支えてきた世界は、我が子に真似されると想像を絶する苦しみとなって還って来るものでした。
自分の姿を家族に映し出し、それをまざまざと突きつけられると否定するしかなくなるものでした。
どれだけ「そうじゃない」と家族同士の意見の出し合いに否定しても、発信元となる自身を改めなければ、虚しい体験ばかりとなります。
その虚しさも、自我で思い通りにして実ってきた過去世の道のりの節目であり、道返しの段階に入ると、ここからは虚しいばかりの人生がもたらされる、自我に取っては耐えるに耐えられない毎日の始まりになります。
実りだけを選んできた登り調子の木花開耶姫のみを味方にしてきたならば、ツケが溜まりに溜まった石長比売の虚ろい行く学びの下り坂に耐えられないものとなるのでした。
大山祇の神の怒りがその身を滅ぼし、真実と向き合うことを「病の姿」に突きつける現実となるのでした。
その倒れている現実の中で向き合うしかなく、自分の体と対話する道を父として、ここから学んで行くことになりました。

19-21,絶望的な現実を他人からもたらされると「その人を恨むしかない」ものですが、相手が敵を許し、敵を愛する程に「与えた絶望は我が身に還って来る」ものとなるのです。
因果応報という言葉が知られていない時代から、因果は巡っておりそれを受け取れるタイミングも決まっています。
因果が巡るのが一回しかない場合、その間は我が身に還らない為に何をすればどうなるかなど身を持って体験することが「始めて起きた」ことになります。
それがこれだけ絶望的な体験で「初めてやったことが還って来た」ならば、知識を役立てる間もないものです。歴史から学ぶにしても「身を持って経験した」ことに至らなければ、この道が間違っていたと気づくこともないのです。
ここで学びの結びとして終わり、また始まるのです。

20-21,真実があるから現実を楽しめるものの、現実こそ事実だと言い張ると全てを見失います。
真実を中心に現実を生まれ変わらせる力こそ学ぶべき道だと気づく学びの始まりを体験していました。
自らの手でこの世界も、子の世界も、自身の肉体も破壊して来た道のりを改める道に入りました。
愛という言葉を必要としない真実の道は、相手に慈しみと安らぎを与えられるものでした。
父親の立場としてそれを身につける学びに入りました。自身が大いなる愛の一部として、妻であり母であり女である浩子に導かれるようになりました。

21-21,父と長女と家族は救済を受けて愛の学びの道に入りました。
母の愛に包まれて未知なる世界に踏み出せるようになりました。
父を受容することで長女の異性の関わりが変わるものとなりました。
父は長女の苦しみを受容したことで責め苦に悩まされていた想いが消えて無くなりました。
カルマという行為の裏にある働きの力は、父親の半身を不随にするほど強力なもので、びくとも動かない中で長女は養われており「動け」で動けないものを体感覚として、父親は知る学びの体験となりました。
母はただ二人が仲良くして欲しいと祈り、その祈りが天に届いてこの学びの物語を知るに到るものでした。
誰が誰を責められようかと思うほどに、どうすることも出来ない因果の渦の中で始めた体験を終わらせて行くしかないものでした。
寄り添う心の根っこは、自我ではなく真我でもなく無我であることが見えたとき、愛の学びが始まるのでした。「神さまはどうやって罪穢れを祓うの?」と疑問に思った母浩子はかつてそのように問いかけたことで、この物語を創り出しました。
神さまは人々に好きなように体験させ、会話させ学ばせて行き詰まったときに、これも人々の求めに応じて答えていくものでした。
自分たちでやりたいと望めばそのように与え、自分たちでは無理と手放せばそのように与えて、物事の真実とは何かを感じさせて学ばせていくものでした。
「愛」という真実をどう知らせようもないものを知らせていく道がここにありました。
それは宇宙全体の働きにも呼応しており、太陽の働きから地球の気象におけるあらゆるものに意識は伝わっており、繋がっているものでした。
神意識が目覚め、世界は誰もが愛に目覚められる学びの終焉の時代に入りました。
母の愛が夫である父も子らも救い出していく道が始まりました。

以上です。”

”これで最低限のサポートは出来たかと。 これを読まれて世界がまた変わった感が届くので、引き続きダンナさんの状態や回復に向けて出来ることを探します。”

つづく・・・


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