ピンピンころりん子ちゃん 5

 真夜中から夕方まで働いてぼくは家に帰った。単純作業に耐えることができる人間の許容量を超過していて、頭のなかに騒々しい重機の音がこびりついていた。帰り道だというのに、仕事をしてきた、という実感がまるでなかった。夢うつつなまま、からだはどこかへ、海草のように漂っていた。

 何はともあれ、それはもう終わったことだ。今夜は自分のものだ。この夜だけは、自由に使うことができる。

「よしおや」と玄関先で待機していた母親はいった。
「お母さん、足が痛くてたまらないよ。いままで黙ってたけどさ、いつも足がじんじんしてるんだよ。これじゃ歩くこともままならなくなっちまうだろうよ」
「お母さん、それは大変ですね。病院に行かなければなりませんね」とぼくはいう。
「そうだろ、そう思うだろ。そうだよ、あたしゃ病院に行かなければならないよ。いますぐ行かなきゃならないよ」

「すいません、お母さん」とぼくはいった。
 請求書を支払ってしまうと、財布のなかには小銭しか残らなかった。今月は母親のリュウマチ、膀胱炎、精神科のカウンセリング。それから父親のひと助け、夜回り、丁々発止の大活劇、そんなものが立てつづけに起こったせいで、お金はなくなっていた。
 ぼくは正直に理由を話した。「すいません。お母さん、次の給料日まで、がまんしてください」

「なんだって、あんた、いまなんていった!」と母親はいった。「こんなにお母さんが痛い思いしてるってのに、おまえは、なんにも感じないのかい? おまえには、人間の心ってものがないのかい? 立派になるまで育ててやった親に、よくもまあそんな薄情なことがいえるもんだ。あたしゃ、いますぐ病院に行かなきゃならないんだよ。ぜったいに病院に行かなくちゃなんないんだよ。タケちゃんと約束してるんだから。
 なんとしてでも、今日は行かせてもらうよ。こっちがふだん、どれだけ辛抱していると思ってんだい。この親不孝者のごく潰し。与太郎、とんま、まぬけ! ほんとはもってるんだろ? さあ、とっとと出しとくれよ」

 非難のことばが終わると、あとは泣き落としだった。年老いた母親が、パチンコに行きたいがために泣いていると思うと、ぼくはやりきれない気持ちになった。

「お母さん、少し待っていてください」といい残してATMに向かった。これが最後のお金だった。生活費のために残していたものだが、こうなってはしかたがなかった。

 きっと明日になれば明日の事情を母親は訴えてくるのだろう。それは容易に想像できたが、無い袖は振れないのだから、これでいいのだ。給料日まで残り二週間、霞でも食べたらいい、そう思って家に戻った。
 家に帰ると、母親のかたわらで父親もぼくの帰りを待っていた。

                         つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?