ピンピンころりん子ちゃん 6

「よしおや、はやまってはいけない。まずは父さんの話を聞いておくれ」と父親はいった。

「さっき駅前で、南方からの帰還兵にあったんだよ。よしおや、彼はお前と同じ年のころだろうか。片足を地雷でやられちまって、物乞いに身をやつしていたよ。戦友は全員、殺されちまったっていってたよ。お国のために、不自由なからだになって、もう働くことができなくなっちまったんだよ。捕虜にとられて、それでも家族に会いたい一心で、辛酸に耐えてさ。ようやく、何年も抑留されて国に戻ったら、嫁さんはアメリカ人と再婚してやがったっていうよ。それじゃ浮かばれないよな。
 父さんは涙が止まらなかったよ。彼が不憫で父さんその場で泣いてしまったんだよ。その青年も父さんの涙につられて、ふたりで肩を並べて、ずいぶん泣いたもんだ。何日も、何週間もそうしていたような気がする。父さん、もっていたお金を全部その青年にわたしてしまったよ。何もせずにいられなかったよ。何もせずにいられるわけがないよ」

「あんた担がれてんだよ」と母親は冷ややかにいった。「そんな話があるわけないだろうが。いったい、いつの時代の話をしとるんだい。どうして中年の男が南方で戦ったなんてことがありえるんだい。バカもほどほどにおしよ。この耄碌じじいのすっとこどっこい」

「おまえこそなんだ。またいつもの、あの駅前の病院に行くつもりか? 駅前の病院はよっぽど景気がいいみたいだからな。
 まったく、どこからも貰い手がなかった、あまりものの、ケツの穴みたいな顔した大女がずいぶんな身分になったもんだな、ええ? そういえば、今日は出血大サービスってのぼりが立っていたわ。おかしいなあ、よしお、そう思わないか? どうして病院がそんなのぼりを立てているんだろうな。
 それにな、おまえくらいポンコツになれば、からだにガタがくるのは当たり前だ。百歩譲って医者に行くとして、いったい医者はおまえに、何をしてくれるんだ? いったい医者に何ができるというんだ? おまえのな、その干からびたからだからは、なんも出やしないだろうよ。手首切り落したって、おまえみたいな強欲ババアからはなんも出やしないだろうよ。おまえに金をわたすのなんてな、どぶに捨てるのと変わりゃしない。
 
 な、よしおや、そういうわけだから、父さんはお金が必要なんだよ。あの青年を助けてあげなきゃならないんだよ。あの青年を助けてあげられるのは、おそらく、この世に父さんしかいないんだよ。わかってくれるね」

「よしお、そんなことばにだまされるんじゃないよ。お母さんは内臓がじくじくしてつらいんだよ。きっと胃袋に穴があいちまったせいだよ。早く病院にいかなくちゃ、取り返しのつかないことになっちまう。ああ、もう目の前がくらくらしてきたよ。よしおや、助けておくれ。お金は哀れなお母さんにわたしとくれ」

 それからあとのことを、ぼくはよく覚えていない。血をわけた両親が、わずかなお金のためにいがみ合っているのを見るのはつらかった。よこせ、よこせというふたりの声が、いつの間にか、頭のなかにこびりついていた、重機の音に取って代わっていた。このふたりと比べれば、殺人鬼やキャベツであっても、それなりの人間味が感じられたことだろう。

 ここで展開されているのは人間の果てなのだ。お金があっても、お金持ちであってもお金を奪い合って骨肉の争いを繰り広げるくらいなのだ。まして貧乏な一家であればなおさらだ。これは避けようのないことに違いない。だれを責めるわけにもいかない。悪いのは政治とか、社会とか、時代のせいにしておけばいい。ぼくの両親には、何の罪もないのだ。

 ふたりは互いの足を引っ張り、もみ合いになった。おむすびのように転がると、玄関は粉々になってしまう。脇腹をつねり、骨ばったこぶしで殴り合い、腹に一発入れ、靴箱の上に飾られていた木彫りのクマで折檻をした。

 大柄な母親が小柄な父親を羽交い絞めにしている。顔を真っ赤にした父親は手探りした傘を母親のふとももに突き立てる。悶絶して身を屈めた母親の顔に父親はひざげりをくらわせる。母親は隠していた匕首で父親の腹を刺す。何度も何度も。それはほとんど情熱的なくらいで、ふたりがかつて愛し合ったときの様子を見る思いだった。

 足元に広がる血はどす黒く、生臭い。父親はもごもご何かを口にしているが、あぶくになったことばは聞きとることもできない。これ以上は、とても見ていられなかった。

 残っていたお金を靴箱の上に置くと、ぼくは静かに家を出た。ふたりは、それぞれの存在に夢中になっている。たとえ、ぼくがショベルカーでごとごと家を出たとしても、ふたりは気づかなかっただろう。
 
                          つづく

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