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常時プロテクションは必要か?

~ はじめに ~
ここではスピリチュアルな気づきや体験、または算命学でも同様の事を書くつもりでいます。しかし完全に覚醒した者の話でも、鑑定のプロの見識でもない、発展途上・修行中の人間から出てくる言葉ですから、間違った見方や意見を綴っていることもあると思います。それを踏まえて読み進めて頂けると助かります。


書きたいことが次々に浮かんでは消えていく。どうして消えていくのか考えた結果、自分の中で書くと批判になるのだろうかと迷いがあり、吐き出さないから他の思考が消えていくことに気が付いた。

先に言っておきたいのは批判ではないということ。単なる1つの意見として書いていこうと思う。

では本題に入っていく。

【プロテクション】についてある人が言った。「自分はプロテクションはしない。なぜなら常に守護の守りはされており、それでも起こる出来事は経験として必要な事だろうから」と。

そして別の人は言った。「私は守護にプロテクションを頼みます。彼らは頼まれないと行動することが出来ないので」

この2人の話を聞きながら私は思った。「私も守護は常にプロテクトし守ってくれていると思う。ただしそれは必要最低限であり、健康で普通の生活が行えているときの話。時にはどうしても危険を伴う場所や、自分に害ある人と会わなければいけない日もある。そんな時はいつも以上にプロテクションが必要となるため、意図的にプロテクションを頼む」

要はお二人の意見はどちらも『あり』というか、両方あって正解なのかと思う。

確かに人は様々な体験をしに生まれて来ると聞く。しかも高次元では体験することが出来ない苦行とも思われることを、あえて体験しに来ると。しかしそんな記憶などない私たちにとって苦行など味わいたくもない。そこで同じ苦行を体験するなら少しでも苦痛を減らしたい。

つまり『大難を小難に』というわけである。

例えば骨折の痛みを知りたいとする。そこで用意されているのが大型トラックにぶつかって、瀕死の状態で味わう骨折の痛みか、またはタンスの角に足の小指をぶつけたことによる骨折。どちらか決めていいと言われれば、大半の人は後者を選ぶのではないだろうか。

1人目の意見だと瀕死の状態でも、それはその人が体験するために必要な事であったとなる。2人目の意見だと万が一、願い忘れれば瀕死の状態という世界線になるかもしれない。

骨折は絶対避けられないとしても、やはり軽症でありたいと思った時、普段から守護の守りを信じていくしかないと思う。なので私は毎日守護達に感謝する。

ところで『大難は小難に。小難を無難に。』という言葉がある。これは私も一番願うところではあるが、無難に何事も終わらせたとき、どんな経験値がその人に残るのだろうか。そんな疑問が私にはある。よって『小難を無難に』という言葉は、今の私にとってはまだ必要のない事なのかもしれない。

守護達のプロテクションは常時施されているが、非常事態の時は意識的にプロテクションの強化をお願いする。

これが私の考えなのです。


たったこれだけの事を書いていいのか悩んむ私は、どれだけ人の目を気にしているのだろう。まだまだリスタートしたばかりで読者数が少ないからこそ、思いをため込む必要はないはずなのに。

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