『日蓮宗』と『日蓮正宗』 ①「日蓮本仏論」との関わりについて

SNS上でしばし見られる誤解として、「創価学会は日蓮宗を破門された」というのがある。しかし、創価を破門にしたのは、『日蓮宗』ではなく、『日蓮正宗』である。

『日蓮宗』と『日蓮正宗』、名前だけで言えば「正」の文字があるか無いかの違いでしか無いが、両者の関係は、まさに水と油。決して混ざり合うことはない。
決定的なのは、本尊観が大きく異なることであろう。本尊が異なるということは、信仰の対象が異なることを意味する。つまり、同じ「日蓮」と冠しても、両者は全く異なる宗教と言っていいほどの違いがある。

創価を破門にした『日蓮正宗』は宗祖本仏論(「日蓮本仏論」)を採る。すなわち、「釈迦仏は過去仏であり、汚辱にまみれたこの悪世を救う力は、もはや無い。しかし釈迦仏は、法華経において、自身を教導した本来の仏の存在を暗示した。つまり、釈迦仏をも導いた本来の仏(=本仏)こそが、この悪世を救うために御出現された、我らが日蓮大聖人その人である」と主張する。

この「日蓮本仏論」について、世間では、「日蓮の系譜に連なる宗派は、大なり小なり日蓮本仏論に傾倒するような素養を潜在的に持ち合わせている」と、認識される向きがあるが、上記の主張は、『日蓮正宗』系統の宗教団体が独自に展開する異端の教義であって、『日蓮宗』各派の多くは、(もちろん例外もあるが)上記のような主張を採ることはあまりない。あくまで本仏=本尊は、ブッダ=釈迦牟尼如来なのである。

「日蓮本仏論」を教学のベースにしている宗教団体は、『日蓮正宗』と、正宗が破門にした『創価学会』、そして、創価と同様に正宗から破門にされた『顕正会』が有名どころであろう。

『創価』に懐疑的な人達は、彼を破門にしたことから、『日蓮正宗』に正当な宗教団体のようなイメージを持っている人も居るかも知れないが、私は、「日蓮本仏論」を大成させた『日蓮正宗』もまた、相当な問題を抱えた宗派であると考えている。率直に言って、「日蓮本仏論」なるものはカルトの温床になる言説であろう。

「日蓮本仏論」なるものがどのようにして生まれたのか、そしてその問題点に一つ一つを詳らかにすることは容易には行かないが(いずれはまとめてみたいと思っているが)、例えば、『日蓮正宗』と『日蓮宗』の本尊観の違いが、具体的にどのような形となって現れるのかに焦点を絞って述べてみても、その問題は明らかであると思われる。

正宗では、自身以外の宗教団体を一律に「邪宗」と呼称する。「他宗」は、そのまま即ち「邪宗」なのである。

その呼称の対象は、『正宗』以外の『日蓮宗』各派も例外ではない。例外ではないどころか、「現代の悪世を救う力も無い釈迦仏をいまだに崇めている」ことが宗祖に意に反することとして、重要な批判材料の一つになっている。

いずれにしても、言わば自分達の「親」である本仏を差し置いて、他の神仏を敬うことは、『正宗』にとっては、本仏に弓引く行為として認識される。ここで言う、神仏については、皇祖神を始め、日本国内の八百万の神々も例外ではない。自宗に繋がりのない宗教団体への接近や、宗教的行為に一切は「謗法」行為として硬く戒められる。

確かに、『日蓮宗』『日蓮正宗』の宗祖である日蓮聖人は、「四箇の格言」として知られる通り、浄土宗や真言宗など、当時の仏教各派の宗祖や教義を強く批判したのは事実であるが、それらの批判は、釈迦牟尼仏を本尊とする本尊観でなければ成立しない。

仏教徒にとって見れば、過去仏どころか、縁深い世尊=釈迦牟尼仏を蔑ろにした各宗派に対する義憤が批判の原動力になっている。

つまり、仏教を標榜し、仏教を名乗りながら、釈迦牟尼仏を蔑ろにする行為を看過できない、ということであって、自分達以外の宗教団体や宗教的行為を一律に「悪」(他宗=邪宗)と断じている訳ではない、ということである。

私は、『日蓮宗』各派について熟知している訳ではないので、彼らに何の咎も無いなどと断言出来る立場にないし、また、『日蓮宗』にも宗祖信仰(「祖師信仰」)のような傾向が少なからずあるのは事実であると思っている。

しかしながら、宗祖の偉大さを実感すればするほど、「自分たちは不肖の弟子である」という意識が芽生える。当然ながら、「自分たちだけが日蓮聖人の教えを正しく体現している。自分たち以外の宗派は悪である」などという思い上がった発想が生まれる余地は、本来ならあり得ないはずである。

また、現在では、『日蓮宗』の僧侶や信徒が、他宗派の人達を攻撃するということは殆ど無いし、通常、何か仏教界全体で超宗派団結の呼びかけがかかる時は、『日蓮宗』が呼び掛けに応じることも、また自ら他宗派の人達に呼びかけの音頭を取ることも珍しくない。

(もっとも、教学的な解釈や見識の相違から批判したり、されたりということは当然ある。それは別に宗教の世界に限らず、学問や芸術、政治の世界でも、普通に行われていることであろう)

仏教は本来、内省的、反省的な宗教であり、修業のプロセスでは常に強い自己批判を促される。相手に明らかに落ち度があると思われる場面ですら、「では、自分の態度に全く問題は無いと言い切れるか?自らの振る舞いを見直すことによって、事態の改善を図る余地は無いのか?」を強く問われる宗教である。問題の所存を相手にのみ一方的に求めるような態度は厳に慎まなければならないはずである。

仏教を標榜しながら、他者が無条件に悪となり、断罪の対象のとなるメンタル構造が何故生まれてしまうのか?『創価学会』も『顕正会』も、『正宗』から派生した宗教団体は、少なからずこの傾向があるが、その教学のベースにあるのは「日蓮本仏論」である。そのオリジナルとも言うべき「日蓮本仏論」を大成させた日蓮正宗の実態は、現在では、あまり世間に周知されているとは思われないが、もう少し警戒心を持って、注視するべきと考える。

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