人間が生物の中心だという思い込みは人間の傲慢である ー「目尻」への見解ー

※初めに
板倉さんの「目尻」の記事を読んだ後、ふと無意識に森見登美彦さんの作品を読み、その足でnoteに参ったため、(板倉さん+森見登美彦さん)✖️0+CACAの思考に切り替わり、結果、板倉さんや森見登美彦さんにはなりきれなかったただのCACAの文体となっております。

https://note.com/itakuratoshiyuki/n/nf9481d0c0656

先に板倉さんの素晴らしい問題定義(なんか解決していらっしゃったが)を読まれてください。

           ◇

認知言語学というのは、人間の認知の仕組みから言語を分析する学問である。例えば、肘を怪我して病院にいったとしよう。医者は当然症状を問おてくるはずである。「今回はどうされましたか?」と聞かれれば、答えは「肘を痛めました」になるはずである。中にはこれに反論する者もいるだろう。なぜなら、正確な答え方というものは存在しないからだ。だが、いずれにせよ「肘」を見てもらいたいのなら、「肘」に関する訴えを行うに違いない。「頭が」とか「足が」とか関係ない部分をいう人はいないだろう。そんなことをすれば、医者に肘を診てもらえるどころか、頭の中を検査されかねない。まあ、そんなまれなシチュエーションは置いておき、「腕が痛いんです」とか「体が痛んだ」とかいう人もそうそういないだろう。頭や足を示すのと違い、腕や体というのは肘の属する部分であるから、まあ、あながち間違いではない。大雑把に言えば体あるいは肘なのだから。だが、この場合は、別の問題が浮上する。ズバリ、厄介な患者認定されてしまうのである。ゆえに我々はできるだけ正確に医者に患部を示そうと試みる。専門的な用語こそ知らぬが、最大限の努力を試みるのである。結果、言語化されるのは肘にまつわる部分であり、発話者がどこに注目したのかも自明である。

さて、「肘が痛い」と言語化する場合、我々は圧倒的に肘に注目を寄越している。だが、肘を捉えるために、確実に「体」や「腕」というものを背景においているはずである。言うならば、肘というのはそれらのバックグラウンドなしでは認定され得ないのであるが、言語化する際はそれらのものは表に出てこなくてもいいというわけである。このように、我々は言語化するための主要部分とそのための背景とをごく自然に切り分けている。切ない言い方をあえてするなら、どちらも言語化にあたって不可欠なのだが、スポットライトが当たるのは、なにせん主要部分だけというわけだ。

だが、何度も言うが、体や腕は肘を認識するのに欠かせないバックグラウンドである。それらを肘を特徴づけるのに必要なコンテクストと捉えているわけだ。認知言語学ではこの現象をスコープ、特に最大スコープという。つまり、言語化を劇に例えるなら、それに関わる関係者全員が最大スコープに入るわけだ。

だが、体と腕の間にもとりわけ優位なやつがいる。腕だ。彼は肘と一番距離が近いのだ。よって、体も必要なのだが、肘の認知に直接関わるのは腕となる。認知言語では、この腕を肘の直接スコープという。体にとってはとんだ裏切りだ…

基本的にスコープは入れ子を形成する傾向にある。体>腕>肘というように。そして、各々の左にある語というのは右の語の直接スコープになっている。そう、一旦裏切ったように見えた腕も体の存在を必要としているのである。   

ここまでは(認知言語学を伝えるという意味での)本題であり、ここからが(タイトルに纏わる)本題である。複合語は、左の語が右の語の直接スコープになっているのだ。例えばfingertips。指先という語だ。finger(左)が直接スコープとなってその先に焦点が当たるわけだ。他にはtoilet seat。もちろんtoiletが直接スコープとなっている。

ここである希望が沸いてくる。板倉さんの「目尻問題」に対する見解である。つまり、目が直接スコープとなって、その端にズームインしていったから、目尻という表現になったのである。


あれ、まてよ。


なぜ、目足ではない?


「目頭」は、目の内部分を顔の中心と捉えて、それを頭で比喩的に表したのだということは分かる。なら、必然的にもう片方は足で例えられるべきなのだ。目尻ていうより目足ていう方が幾分上品ではあるし、断然目足がいいはずだ。きっと、板倉さんも賛成してくださるのではなかろうかー。

なぜ、目足でない!?

私の疑問は暴走し、ついに教授に尋ねることにした。

「先生!目尻は目足ですよね!?」

教授は不思議そうに首を傾げていた。説明が足りなかったのだろう、と私が詳細を説明すれば、依然として教授は不可解そうだった。これが心という名の不可解かー。

私がまた説明を繰り返そうとしたときー

「頭の両極端にあるのが足なのは、二足歩行の動物だけですよね?」

え。と私の心臓が脈打つのを感じた。構わず、教授は続ける。

「目尻の尻は四足歩行の動物を喚起しています。他の物体に対して、頭から尻にかけてスコープを絞っていくのはかわりません。したがって、目尻は人間の認知に基づいたごく自然な表現です。」

教授がそう言って、スコープに纏わる文献を私に渡した。私はそれを受けとるや否や、その場に座り込んでしまった。

いつから私は人間を中心に考えていたのだろうか。目尻がおかしい?いいや、そこで(四足歩行の)動物が思い起こされなかった方が問題ではないか。

私は私の思い込みを恥じた。

「ふふ、やはり世の中の中心は人間だという思い込みはダメですね。私、生まれ変わります。ありがとうございました!」

私は足に力を入れて立ち上がろうとして、ふと考えた。このまま二足歩行に戻っていいのだろうか。四足歩行の気持ちを体感せずに、また傲慢な気持ちに支配されはしないだろうか。

「私、このまま四足で歩いていったがいいですか?」

私は教授に問う。

「やめてください。」

教授が即座に答えた。

「恥ずかしいので。」

私はすぐさま立ち上がった。なんとも言えない空気が、研究室を漂っていたー。

(Fin)

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