NDS Chapter3
次の満月の夜、私は若草山の山頂にいた。
たけみかづちが言った通りに。
あの日、家に帰った私は、たけみかづちについてネットで調べた。
春日大社の主祭神で、茨城県の鹿島神宮から白鹿に乗ってやってきた神様だった。
日本に地震を起こす大鯰を御する存在。
漢字で書くと『武甕槌命』となる。
もうすぐ日付が変わる頃、ぬっと白い巨体が原生林方向から現れた。
馬程の大きな体の背にたけみかづちと名乗った人物 (?)がまたがっていた。
満月の銀色の光に輝く真っ白な体。
逆三角形の尾に立派な角。
大きさはともあれ、紛れもない鹿だった。
「来たんだね。」
馬上ならぬ鹿上の人物が言った。
「あなたが今夜、ここに来れば会える、と言ったんじゃないですか。」
「よほど暇なんだね。」
「暇じゃありません。これでも忙しいんです。」
「若い女性が一人で、危ないとは思わなかったの?」
「だったら、こんな時間にこんなところに呼び出さないで下さい。」
「別に、呼び出してはいないよ。それにしてもこんなところとは酷い言われようだ。」
「あなたは何をしてるんですか?」
「・・・世は、ここが、平和に有る事を確かめて居る。」
さっきまでの少年のような声ではなく、お腹に響くような低い声がした。
「でも、最近、この子達に悪さをする輩が増えてきているからね。」
また少年のような声に戻った。
「縄張りを変えようか、と言う者が出始めているんだ。」
「縄張りを変えるって?」
「公園一帯から春日の山奥に戻ろう、と言うことだね。」
「そんな事になったら・・・。」
「そう、鹿が一頭も居なくなる。」
「そんな事になったら、みんなが困ります。」
「だったら、ならないように頑張ってくれ。」
「そんなこと、言われなくても。」
「君にいいものを見せて上げよう。」
そう言うと、たけみかづちは、鹿の首筋を撫でた。
鹿が頭を僅かに垂れる。
「さあ!」
とたけみかづちが手を差し出す。
私がその手を取ると、一瞬の後、私は鹿上の人になっていた。
たけみかづちの前に座る。
「どうしてこんな時に、そんな短いスカートを穿いて来るんだ?」
「これは私のアイデンティティなの!」
「ふーん、アイデンティティねぇ。」
たけみかづちは、鹿の角の根元に結えられた皮の手綱を握り直すと、
「はっ!」
と鹿の腹部を軽く蹴った。
鹿は顔を天に向け、一声鳴くと地面を蹴った。
馬でも大きな部類に入る巨躯が、満月が輝く夜空へと駆け上がって行く。
みるみる若草山の頂上が小さくなって行く。
白鹿が夜空を翔ける。
私は振り落とされないように、脚で鹿の体を挟んだ。
「見てごらん。」
たけみかづちが私の耳元で囁くように言った。
足元の遥か下には、銀色の光に照らされた春日奥山の原生林が見えた。
風が頬を削り、剥き出しの脚を削いでいく。
ぶるっと体が震える。
白鹿の飛跡が大きく円を描く。
街が近づいて来る。
夜景と呼ぶには寂しい光景が、眼下に広がる。
僅かな灯りは、近鉄とJRの駅付近だろうか。
あの、ずんぐりとした黒い塊は100年会館だろう。
やがて、広大な空間が見えてくる。
朱色の短冊模様は、復元された朱雀門や大極門などの建築物。
中でも一際大きいのは大極殿か。
白鹿が再び大きな飛跡で円を描くと、春日山の方に戻って行く。
たけみかづちの前に座って、抱かれるような格好になっていた私は、えも言われぬ安堵感に包まれていた。
朝、私はいつものベッドで目覚めた。
瞼には空から見下ろす奈良の街がまだ残っていた。
あれは夢、だったのだろうか。
ベッドから出ると、私は、はっとした。
なぜなら、まだ昨日の服のままだったから。
それだけなら、疲れて着替えもせずにベッドに潜り込んだ事も考えられる。
でも、太ももの内側に、擦れたあざのようなものができていた。
これって、振り落とされないように、鹿の体を挟んだ跡だった。
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