ロシア・アヴァンギャルドについて

 ロシア革命というと、何となく血なまぐさいイメージが強い。新しい秩序を建設したという意味では大掛かりな意義ある革命であるのだろうが、この秩序下において権力を握った人々による国家管理の手法は、今日の我々からすると暴力的で陰惨な結果をもたらすもののように感じられる。少なくとも彼らには「敵」の存在がはっきりしているらしいのだが、こちらからすると向こうの一方的な被害者意識にしか見えない。自分の殻に閉じこもっているのが我々であるか彼らであるか、そこのところが問題であろう。
 それはさておき、革命と芸術に関することで少し興味深いことを知ったので記録しておく。それは帝政ロシア末期からソビエト時代にかけてのロシアにおける新しい芸術運動に関してである。この芸術運動は大きな枠組みとしてロシア・アヴァンギャルドと称されるが、これをさらに区別すると、絶対主義というのと構成主義という二つに分けられる。系譜をたどればそれ以外にもあるのだろうが前衛美術運動のうちこの二つが大きな存在感を持っていたようである。
 絶対主義(シュプレマティスム)は一風変わっていて、私はまだよく理解していない。代表的な人物はマレーヴィチであり、彼のいう所によると黒い正方形が精神的な意味で至高であるそうだ。実際彼の作品には黒の正方形とそれよりも一回り程小さな赤い正方形が浮遊しているように配された絵がある。このうち黒の正方形に何らかの意味があるというらしいのであるが詳細についてはよく知らない。ともかく何か精神性を重視するというのがシュプレマティスムの特徴であるらしい。
 一方の構成主義は絶対主義とほぼ同時期に出現した。創設者はウラジミール・タトリン。起源とされるのは1915年の「0・0展」に出展された「カウンターレリーフ」という作品で、複数の既製品を壁の隅に集めて張り付けたというような不可解なものである。既製品と言うのは定規とか本とか、その他あまり大きすぎない日用品と言ったところのものである。この作品そのものを自律的な表現とみなすことは彼の主張と背反することになる。すなわち彼は実用的で社会目的に適う芸術を推進しようとしたのだ。この場合、先のマレーヴィチの作品のような純粋な精神性は重要視されない。芸術は生活に関わるものとして位置づけられている。ここで我々はアーツアンドクラフツ運動のウィリアム・モリスを思い起こすが、彼が好んだのは懐古主義的でコストのかかる熟練の職人による工芸品であった。大量生産がさまざまな手作業による生産というかけがえのない文化を破壊することを彼は嘆き、警笛を鳴らしていたのである。それに対してタトリンはこうした現代的なシステムを受け入れる姿勢をとっている。鉄やガラスと言った現代の工業に依存する材料を積極的に用い、シュプレマティスムをも参考にしつつ、テクノロジーと芸術を融合させることを彼は目指していた。これは今日よく用いられる「デザイン」ということに他ならない。タトリンに発する構成主義はドイツのバウハウスにも大きな影響を与えたということで、歴史的に重要な芸術運動だったと言えよう。
 さて、ここで面白いのは、いかにも革命的に思われる構成主義が、結局はソビエトの芸術の主流になりえなかった点だ。スターリンやレーニンの肖像画、あるいはプロパガンダに用いられている写実的な描写を思い起こしてほしい。あるいは北朝鮮の将軍様が民衆に歓呼をもって迎えられている絵でも良い。我々が思い起こす共産主義陣営のプロパガンダ絵画は、その場面自体が架空であるか否かを別にすると極めてリアルなのである。宗教画と同様に、説明を受ければ直ちに理解できるうえ、気分を高揚させるような崇高さを兼ね備えている。この崇高さの表現を我々は古臭いと感じるだろうが、いいかえるとそれは非常に古典的であるということも言える。絵画の他、ソビエトの軍服に注目してみても同じようなことが言える。ソビエトの赤軍は当初こそロシア帝国時代の軍服を継続して使用していたものの、やがてオリジナルの軍服を制定した。この軍服のデザインは非常に特徴的である。帽子は遊牧騎馬民族の兜を彷彿とさせるウール製のもの、かつては将校と兵士とのあいだで大きく差別化されていた階級章や上衣、外套のデザインは平等化されている。これは実際に見てもらった方が早いが、一言でいうと当時のトレンドであるドイツ式とかフランス式、あるいはイギリス式の軍服とはことなる、「純ソビエト的」な軍服がここに完成したのである。しかるに、第二次世界大戦下の1943年頃にはロシア帝国時代の意匠が良い幅に取り入れられた。その目的は恐らく「戦意高揚」であり、「革命」ということよりも「ロシアという国家」そのものを強く打ち出すことが効果的だと計算されたのだろう。革新性よりも復古調のほうがこの際好都合である。
 本筋に戻るが、構成主義もまた同じような理由から長い歴史を有するリアリズムに敗北する。おまけにこの敗北は1934年に「社会主義的リアリズム」が公式化され、構成主義などの前衛美術が「堕落」という烙印を押され禁止されるという形のものであった。社会主義的リアリズムは「労働者に関連した題材を労働者に理解できるよう写実的に表現し、党の目的を支持する」ものと定められている。たしかに前衛美術を用いた国家運営は難しいだろう。もし、プロパガンダがピカソや岡本太郎のようなタッチで描かれていたら、見る側もどう反応すればいいかわからない。スターリンの顔が福笑いみたいになっていたら真剣に崇拝する気にはなれまい。
 革命によっておこった共産主義であるが、今日までその体制下ではリアリズム芸術が用いられている。そう言う意味で共産主義は古典的手法を保存してもいるのである。反面、革命的な芸術は革命を経ていない国々のほうでウケている。ねじれというか皮肉と言うか、そこのところがちょっとおもしろいと私は思うのである。

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