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明日はもっと良い日になりますか?

なんかだるくて。
しばらくnote更新してなかったんですが、なかなか眠れないので久しぶりに書いてみますよ。がんばるぞ。

波がありつつ、先週末で一旦イベント期間(?)が終わりました。「来週は○○へ遊びに行く」という目標が無いってワケです。


人と会うとき、やる気ない態度なのは良くないなって思ってます。それなら最初から会うなって思っちゃいます。私は。

人と一緒のときに、必要以上にスマホを触るの苦手です。話題の中で、見せたい写真があったり調べ物したくなったりしたなら分かるんですが、その場にいない人とずっと連絡とってたりすると、「なんか忙しそうだし早く解散したいのかな」って思っちゃいます。逆に、自分も相手にそう思わせてしまわないか不安です。
たまに見かけますよね、飲食店で会話なし・全員スマホいじいじしてる人たち。あれ、違和感があります。何か特別な理由があるのかな!?と不思議にも感じます。


私の場合、せっかくならお互いにとって楽しい時間にしたいと考えていて、少しアクセル踏み込んだ状態で気持ちを維持してるんだと思います。


何が言いたいんや、という話ですよね。
ちょっと疲れちゃったって話です。

会社でも元気なフリをしないといけなくって。
嘘でも笑ってないといけなくって。
週5日も演技し続けないといけなくって。

土日も予定を入れると、結構つらくて。
だんだん、「遊んでいて楽しい」よりも「楽しもうと努力する」に比重が偏っちゃって。


最近少しずつ読み進めてる本に、明日信仰という単語が出てきました。本の中では、明日に希望をもつこと=明日信仰って呼んでいます。
だれからも保証されていないのに、ただなんとなく、きっと明日は大丈夫だって薄っすら期待している、救いを求めている姿はまるで宗教のようだと書かれています。

まず、我々は、宗教を信じている人も、信じていない人も、ふつう、明日に向けての「希望」をもって暮らしている。現在、健康な人が、「自分は明日には重病にかかっているかもしれない」などとは、ふつう考えないものだ。仕事のスケジュールを立てるときも、家族揃ってのキャンプを準備するときも、当然、明日もまた今日と同じく健康で幸せてまいることを前提にしている。
(中略)
みんな、潜在的に、「明日」という名のうすーいカミサマを信じて生きているのだ。

中村圭志 著『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』


どこまで明日を信じられますか。
明日を信じることって、自分を信じることに繋がる気がします。ぐるぐる。

自分の可能性を諦めてない子の笑顔って、美しいですね。明日がキラキラしてて、まぶしくて、うらやましいけど、近付けなくて。


鳥の鳴き声がします。朝です。
今日は良い日になりますか?

おしまい

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