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持続的知覚正面と液晶ディスプレイ

液晶ディスプレイは複素平面の持続的奥行きたる知覚正面の反映だと思われる特性を多く持っている。
見え方:どちらも平面
奥行き:(知覚正面)虚軸、(液晶)仮想軸
時間:(知覚正面)いつでも今、(液晶)どの時代の映像でも投影可能
場所:(知覚正面)どこでもココ、(液晶)あらゆる場所の映像を投影可能

知覚正面が幅化した表象の見える仕組みは、太陽光の反射光・全可視光。
対して液晶は発光ダイオードの直接光・RGB特にブルーライト。
視知覚の仕組みは網膜上の視覚細胞。
対して液晶はディスプレイパネル上のRGBドット。
この関係性も興味深い。

kohsen「AIの登場は恩寵だ」
天海ヒロ「PCを見る関係性は外面を見出すヒント」
これらの発言の様に、14の顕在化は13の顕在化の反映と思える。
液晶ディスプレイの普及は加速しており、私たちの目の前における液晶ディスプレイの存在感はますます大きくなっている。
それは知覚正面の顕在化の動向(ψ11→ψ5へ凝縮)の反映(ψ5→ψ*6)だろうか?

液晶ディスプレイに映し出される撮影映像はカメラマンの視点だが、カメラマンの身体は見せないため、映像の視点の身体性は潜在化して、本来の客観的視座に成り代わった客観的視座たろうとしている。
つまり映し出される撮影映像を視るほどに、自己の視座において、客観性を強化する形になっている。

昨今、衝撃的なニュースや事件の具体的な現場映像が流されることが増え、心を奪われることが増えた気がする。
持続的知覚正面が顕在化した世界における他者の現れ方がまだイメージできていないが、その世界は客体化されない世界だとするなら、自己と他者は主体同士で共感しあう形になるのだろうか。
だとすると液晶画面の出来事に同調してる現状の姿は、その反映だろうか。

一方、河合隼雄の人間関係の場で考えれば、事件の場とワタシの場は直接的にはほぼ関係が無い。
事件は関係者の人間関係の中で起きている。
ワタシはワタシの生きている人間関係の場で生きている。
ワタシにはワタシの選択肢がある道を歩いている。
ニュースなどの世界の選択肢はワタシの選択肢ではない、と言えるだろう。


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