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共に生きていく

いつのまにか、言葉を通じた概念的プレッシャーが苦手になった。
それまで自分でも使っていた、否定、断定、侮蔑、断罪。
「こうあるべき!それは間違っている!正しくあれ!」
そうじゃない…
大事なことを見逃している…

世の中を断罪するのは簡単だ。
他者を否定するのも簡単だ。
世の中が悪い、〇〇は終わってる、〇〇は腐ってる、あいつが悪い、あいつらは悪魔だ、我々は支配されている、などなど。
そう考え出すと、変化、変革するためには現状が破壊されないといけない、改革は血を伴わないといけないと考える。
そもそもが性悪説に基づいているし、性悪説もロゴス的男性原理的な権力社会機構の構築と維持のための思想ではないだろうか。
男性原理で考えるから、統治が必要で、統治のためには権力が必要で、権力のためには武力が必要で…
あるいは変化には突破者や強いリーダーが必要で、突破者や強いリーダーは異常なメンタルでないといけない、などなど。
そして次の世代が変化するためには、また同じ文脈で批判や非難、断罪の上で一度全部破壊してからまた新しい権力機構を打ち立てる。

こうした現代の社会機構自体が、男性原理の論理の中で循環しているように見える。

でも根本的に忘れ去られていることがある。
それは、我々は他者とともに、男は女と共に、生活し、生きているということ。
そしてこれまでも共に日々生きてきて、これからも共に生きていくということ。

女性原理は現状を受容し、現状から歩み始める。
男性原理だけでは変容できない。
我々人間は、他者とともに変容する。

"HUMAN KIND"は歴史的な人間の善性に光を当てた書物だ。

近現代史にしても、様々な宗教にしても思想にしても、どうして人間は自身を否定して断罪し続けないといけないのか、永く違和感を感じていた。

しかし、サピエンス全史やHUMAN KIND、FACT FULLNESSでは、事実と変化の捉え直しを通して、多面的で事実に基づく視点の大事さを教えてくれる。
動画のジャーナリストのブレグマン氏や、日本史の磯田氏、人類史のハラリ氏、生命史の天海氏は近現代史だけでは視野が狭いとも教えてくれる。

そして私たち人間こそがその歴史を身体に内包していることを思い出させてくれる。

個人の変化、成長、そして自我形成には他者が不可欠だし、社会の変化、成長も他者との繋がりで行われていく。「共同」体とはそもそも変化や可能性を内包しているのかもしれない。

中世から近現代における男性原理は、長いこと女性原理から、そして女性自身から目を背けてきたのではないだろうか。
ずっと、そばに、共に生きてきたにも関わらず、その存在を軽視してしてきたのではないだろうか。
実態は深い深い繋がりで、ずっと支えてくれていたにも関わらず。

私は、あらためて、他者に目を向けたい。
まずは現状を、現実を、あらためて見つめたい。
私はここに生きているのだし、他者とともに生きてきたし、生きていくのだから。


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