幼少期の残虐性と後のサディズムの関係性を考えてみた

タイトル通り、幼少期の残虐性から後のサディズム嗜好との
関係性を考えてみました。サンプル数は1。私のみです。
自分の幼少期の垂れ流しのような文章に成りますがご容赦下さい。

特に記憶しているのは小学5年の夏、10才でした。
毎年夏休みに3週間程度母方の親戚の家に遊びに行っておりました。
福島の太平洋岸、仙台まで50km弱の田舎です。
自宅で消費する程度の畑と花壇?花が多く植えられている庭があり
私はそこで遊んだり、畑から野菜を取ってきたりして過ごすのが
日課でした。そういえば地下水から組み上げる井戸もありました。

庭には鬼百合、白百合等が多く植えられており、
アゲハ蝶が多く飛んできては蜜を吸い、受粉をしておりました。
百合の花にアゲハ蝶が止まると羽を左右にゆっくり開閉をします。
そのうち安全だと思うのか、羽を大きく開いたまま花に止まったままになります。
私はその状態のアゲハ蝶の後ろにゆっくり移動し、ハエ叩きで
アゲハ蝶を叩き落す。ということをよくやってました。

同じく叩き落された百合の花びらと一緒に上から叩き落された蝶は、ゆっくり地面に落ちて、でもまだ生きているので細い脚をヒクつかせます。
叩き落した蝶をうつぶせにして両羽を開いた状態にし、
その上に重石として石を乗せ、しばらくの間炎天下に放置。
夕方になる頃に動かなった亡骸を近くの放水路などに遺棄してました。10才の夏休みに、ほぼ毎日これを繰り返していました。

止めた理由は自発的なものではなく、百合の花びらが毎日無くなっては地面に散らされているのを不信に思った伯母に叩き落す現場を押さえられこっぴどく叱られたからでした。
叱られていた私は、「可哀想ではないか!」という伯母の叱責の言葉の意味がわかっていませんでした。ただ「怒られんの、ヤダから止めよう」そんな考えで止めたのみでした。

夏休みの自由研究の昆虫採取のためでもなく、
ただ無機質に花に止まった蝶にハエ叩きで叩き落し、
意味も無く炎天下に貼り付けにして絶命至らしめる。
50年以上経った今でもその場面は記憶していますが、
何かの感傷にふけるでもなく、何らの考えも思いも至ることなく
ただただ無機質な記憶として残るのみです。
そして、それから2年後、私はSMという存在を知ります。

それから20数年後、人に向かって平然と乗馬鞭を振るい、
裸の尻に平手打ちをする私が誕生します。
振るわれる鞭の痛みに吐息なのか、呻きなのかわからない声を
聞いても「可哀想だな、辛そうだな」という感情を湧かすことなく、ただ「これ以上やったら痕がしばらく残るからこの辺かな」という状況判断をしながら鞭を振るうだけ。
「これは数日の間は椅子に座るだけで鈍い痛みが生じるな」と
思いながらも、淡々と平手を振るうだけ。

感情は「痛い!痛い!もうやめて!」という懇願を聞いた時に
生じる「怒り」だけ。以下はその時の心の有り様です。
「はぁ?お前が叩いて欲しいといったんだろうが!お前の懇願きくために俺が費やした準備や時間をどうしてくれる!!生半可な覚悟で依頼してきやがって、ふざけるな!!」
昔の話ですが、ホテルの部屋中を逃げ回る「自称マゾヒスト」を鞭を振るいながら追い掛け、追い詰めたことがしばしばありました。
逃げ場無く追い詰められて、大泣きする自称マゾヒストの顔を見た時はニヤニヤしちゃいましたけどねw

10才の時の無機質に命を奪う「異常性・残虐性」はサンプル数1ではありますが、後のサディズムに影響をしているよなぁ。と思う今日この頃であります。
但し、SM嗜好のある人にしか無機質・無感情な状態は起きず、「自称」の人には怒りか蔑みしか生じないのは、やっぱり私が異常であり、そういう世界の人としか、そういうことをする気にならないからなのでしょうね。

同じような経験、思いの方がいらっしゃいましたらコメント、
または「スキ」を頂ければ幸いに存じます。

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