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私のマスキュリズム小史

15年の昔

現存しているもので、私が初めてマスキュリズムに関する文章を書いたのがいつか、過去のファイルを漁って調べてみたら、2009年だった。もっと前にも書いたものがあるに違いないが、残っていない。いや、残っているかもしれないが、出てこない。

その2009年の文章は「トイレットルームのマスキュリズム」という題名の文章で(1)性別によらず誰でも使えるトイレを設置すべきであること、(2)男子小便器は男性の羞恥心を軽んじるものだから不要であること、(3)「音姫」や個室内のゴミ箱などの、女子トイレに備えられているものは男子トイレにも備えるべきであることを主張している。

誰でも使えるトイレの設置などはこの15年の間に随分進んだのではないだろうか。先見の明があるといえばあるが、友人に回覧したくらいであまり多くの人には見せていないので、別に社会を動かしてはいないだろうから、それほど自慢できることでもない。

久米泰介訳『男性権力の神話』も2014年(ファレルの原著は1993年)なので、その5年前だ。私は(たとえば小山氏みたいに)目立つわけでなく、15年間、細々と男性解放を訴え続けてきたのだと思うと感慨深くもある。でも細々すぎて、本を書いたわけでも論文を出したわけでもない。ただ馬齢を重ねてきた15年だった。

15年経って、若い立派な人たちが男性差別の問題に目覚め、世の中はようやく動き出したように感じている。noteが始まったのが10年前(奇しくも久米訳『男性権力の神話』と同じ年)で、これだけ男性差別問題が騒がれるようになったのはnote以降だと思う。隔世の感がある。

一見ただ空しく過ぎただけの私のこの15年間も、男性差別を問題視するようになりつつあるこの思潮の一滴として、少しくらいの役には立ったのだと思いたい。


喜ばしいことに、若い大学生が、牛角問題について論文を書いて学術雑誌に投稿し、それが査読中とのことだ。

牛角問題も女子枠問題も、多くの男性差別問題が学会発表・学術論文化され、学術の場で議論されていってほしい。男性解放の思想、本当の意味での「男女平等」「ジェンダー平等」の思想が学問として認められ、学術誌に掲載されるようになれば、素晴らしいことだ。マスキュリズムを学問として樹立することは久米泰介氏等が尽力してきたが、ここにきてようやく実を結びつつあるのかもしれない。

この社会で男性がどれだけ不当な扱いを受けてきたか、そして受け続けているかという問題は、今後、ますます明らかになっていくだろう。権謀術数主義やポジショントークではなく、本当に平等な社会に向けた取り組みは、功を奏するに違いない。

だがしかし、若い男性研究者個人のキャリアにとっては、声を上げることは大きな危険を伴うと言わなければならない。声を上げられる環境を作っていくにはまず声を上げなければならない……なんともジレンマである。

私がそう言うと、彼はこう答えた。

その勇気、その義挙に敬服する。可能な限りの応援をしていきたいと思う。


15年の昔、私にできたのは、短いエッセイを書いて理解のある友人に回覧する程度のことだった。勇気を出して声を挙げても、迫害を受ける危険ばかりがあったのだ――などと言ったところで、本当は私たちの世代がしておくべきだったことを一回り若い次の世代にやらせていることの言い訳にはならないだろう。私たちは深く反省しなければならない。

ロートルがあれこれ若い運動に口を出すのは、もはや老害になるだろうか――そんなわずかばかりの逡巡をしながらも、新しい流れを応援し、今からでもできるかぎり後進に道を示し、少しでも未来の男性たちを助けることができるといいと思う。

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