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いま の私の勇気。

広田でのくらしを終えて

今年4月から始まった、岩手県 陸前高田市 広田町 での日常がついに 終わりを迎えようとしている。
昨日は、4か月間参加していたプログラムの終了の日だった。
(という下書きのまま出します)

今日、その終了直後の気持ちを ホヤホヤの状態で書き記したいと思い、これを書いている。

文字であれ口頭であれ、自分の考えを人にわかりやすく伝えるようになることは私の課題だということを いま 痛感しているからこそ、
今後 もし続けてnoteを書くとしたら、 もっと包括的というか、説明的というか、人にわかってもらうための努力が伴った文章を書きたいかもしれないと思う。

でも、今回だけは、伝わらなくてもわかってもらえなくてもいい、わかってくれる人にわかってもらえばいいや、というスタンスで書きたい。

読みにくい文章になると思いますが、読みたいと思ってくださる方がいたら嬉しいです。

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様々な気持ちが共存し、やっぱり不安定な いま

いま現在のわたしは まだ この広田町の、4か月間5人で過ごしたシェアハウスで、1人で暮らしている。(下書き当時)
いまは 気持ちがすごく、溢れすぎている。

特権的に周りから愛情や心配をかけてもらえる環境でのくらしが終わり、
ここでわたしが安心を感じることができた人たちとの関係性が変わることへの怖さや、不安。

その不安を抱えたまま 今後も 生活と 選択と 行動 を続けることへの自信のなさ、心細さ。
少し先の自分すらやっぱり見えないこと。

わたしの苦手なことや恐れを感じるもの、様々な不安はこの期間を経ても結局変わらずに存在していて、
こんなにも言葉と気持ちを貰ってもやっぱり自分にはできることがないように感じてしまうこと。その申し訳なさ。

強くならねば、強く在りたい、という 自分自身が持っている意地の苦しさ。

プログラム修了日の翌日の今日、4か月間シェアハウスをしていた5人のうち、私以外の4人全員が一気にこのまちを出ていってしまったさみしさ。
穏やかなようで大変だった日常が日常でなくなるさみしさ。
(9部屋もあるこの大きい家に1人で住むのは状況的にシンプルに寂しい)

過ぎていった時の大きさ、尊さに感じる、淋しさ。

与えてもらった気持ちやことばの嬉しさ、安心感。

私のやり方で人と繋がれた気がした喜び、安堵。

喜んでもらえる幸せ、想われている幸せ。

ここで過ごした日々、共にいた人たちの有難さ。


どれだけあたたかさに包まれて、自分は大丈夫かも と 軽やかさを感じる時間があった昨日 のような一日ですら
同じ昨日の中には、別れの淋しさのみではなく、
やっぱり自分は無理かもしれない と思うときや、少し先の自分の存在を信じられず、苦しさに押しつぶされそうになるとき があった。

やっぱり、その様々な気持ちをコントロールすることはできないし、完全に変わることはできない。

”継続”を続けるために

「生きること」(日々 生活すること、行動すること)というのは、「継続する」という気持ちと行動によって可能になるものなのでは とわたしは思う。
無意識的であれ、意識的であれ。
行動や生活、くらしの積み重ねによって、「生きている」という状態は維持されている。

そして 「”いま”、継続する」ことは、
過去の継続 によって持てている経験や、
それによって生じた喜びや嬉しさ 悔しさや悲しさなどの感情
費やした時間 過ごした時間、
それによって生じた 人への愛着や、恩
など、
積み重ねてきたものこそがモチベーションになるという側面がある。

生き続けることは、ただ存在するだけであっても  労力を要する”行動”が必要となるからこそ。

でも私は 継続はそれだけによってできるものではなく、
継続を安定的に続けるには、
はたと継続が止まっても また再開できる自分でいるためには、
つまり生き続けるためには、

勇気や、決意のようなもの が必要だ と思う。

「生きること に向き合う」 という、
「生き続けるという土台に立ち続ける」 という
勇気、決意。

生きたくなくとも、生きる自信がなくとも、生きる意味や意義を感じられなくとも、
その自分を受け止めた上で生き続ける勇気。

既に人は生きている。
だからこそ きっと、無自覚に勇気を持っていたりその決意をしていることがあたりまえであったり、その上で継続を無意識的にできている人、継続のスパイラルに上手く乗れている人は割と多くいるのかもしれない。

でも ”わたしは” 、
疑問を持ち、難しさを感じた。
そして生きることを究極的に問うと、そこにあるのは”無”である と思う。
だからこそ、私にとっては勇気だな、と。

これは病であるともいえるかもしれないが、わたしは、その疑問を持つことが出来る私を誇れる私でいたいと思う。誇れずとも受け入れるしかない。

そして、勇気の核となるのは自分自身が生み出すべき強さ・意気地であり、
それを包むのはわたしを含むそれぞれの人が元来持っている、湧き出てくる感情や感性や感覚や思考、人への気持ちや物事への興味。

その核を維持し、それら湧き出るものを自分のものとして捉えることができる、
つまり生きる勇気を持つことが出来るのは、
人からの愛や気持ちや優しさや関心をどれだけ自覚できるか、
人のみならず様々な事物に支えられて自分自身は”在る”ということ をどれだけ自分が認識できて意識できているか、によるのだろう。
そして、その自覚や意識はやはり継続・積み重ねによって強度の高いものになっていくのかもしれない...。

結局は、積み重ねによってしか人は生きられないのかもなあ。

いま、積み重ねができないならば、
「積み重ねのために必要な勇気  を持つのに必要な上記のもの  を持っていられる自分や、その自分がいる環境など」をいかにつくるかという工夫が必要であり、
その工夫に必要な原動力は、生きるという決意をした状態から生まれる。

そしてその決意はどう持てるかというと、やっぱり 積み重ねによって生まれたもの の存在という側面がある、
と、これはスパイラルなのである。
このスパイラルの発端は”無”である。

...いや、やはり無ではない。
宇宙があり、地球があり、大地があって様々な奇跡の積み重ねがあり、誰もが誰かによって産み落としてもらったことによって いま、在る。
...でもやっぱり、それがたとえ変えようのない事実であったとしても、それを自覚することは現代においては自然にできるものではない。その自覚を持つことも、それを持つために考えに触れることも、考えることも、やっぱり労力が必要である。それに、その自覚を持ったとてそれが感謝や保護(自分自身の奇跡の保護)等につながることは絶対的では無いのでは? 
となるとやっぱり発端となるものは何も無い...?

  という答えの出ないこの状況。
この苦しさ・あいまいさをそのまま受け入れた上で、「まあ、生きるか」というちょっとした勇気を持つこと。決意をすること。
この、どっちつかずの状況を作れていることそのものが、自分はちょっっっとの勇気はまずは持てている、そのことを自覚することも力になるのかもしれない。

だからこそ、私がすべきことは、積み重ねられる自分を持つための工夫(をするための思考をやめないこと) と、最低限の強さを持って生きつづけること だと今は思う。
積み重ね自体は、これらをできている自分があればきっと、流れに身を任せていれば できる。

この4ヶ月のプログラム終盤 私は、「”希望”についての探究活動」を行っており、それに協力してくれたり近くで見守ってくれていた人に対して、現時点での報告をすると、
この《最低限の強さを作り出し、生きる勇気を持って積み重ねが出来る状況をつくるための工夫ができる》という状況こそ、”希望”を持てている状況 なのではないか と考える。

この4か月間における、”継続” ”積み重ね”

この4か月の期間は、脱しようと思えば離脱できる自由はありながらも
逃げたら追いかけてくれる人がいて、絶対に見ててくれる人がいて、向き合ってくれる人がいて、何かを諦めたとしても結局は広田で人に囲まれたくらしはずっと続いていた。
”継続”や”積み重ね”を、自分自身の力だけでなくまずはじめに他の人の支えがあるという状態でできる時間だった。

そんな時間だったからこそ、終了時期以前・以後は不安がとても大きかった。
ここでの私は特権を持った存在だからこそこの今の環境がある、だから今後は 得た方法論を手に、一人で自立しなければいけないと思っていた。
安心を疑ったりもしたし、意地を張ってそれをなかったことにしようともした。

でも、この4ヶ月を作ってくれた人達はもっと長く大きく、わたしを含む”他者”の世界を見ていた。

それに、ここでの積み重ねや与えてもらった気持ちは全てがその特権性によって可能になったのではなく、
むしろ特権が活かされたのはほとんど はじめのきっかけだけで、それ以降は私自身や私とその人の関係性によって可能になったんだ、と言ってくれる人が何人もいた。
その言葉を信じていられる私でいたいと思う。

この場所にくることを選んだ自分にも、良かった と言いたいし、それこそ工夫だと思う。

well-beingの基盤の上に生じた、doing

自分自身で作り出すべき強さを持つために必要なものがあらかじめ存在している環境だったからこそ、
探究活動や創作など、自分が本当にやりたいかもと思えることを行い、それを続けることができた。

これによって生じた 人との新たな関係性や気持ち、自分自身の経験したもの にまた私は今後支えられると思う。
くらしの継続 のみではなく、そのくらしの中で湧き出る自分自身のできる限り純粋な欲求を大切にした上で出てきた やりたいこと を継続できた、という経験を得た。

他者との関わりについて

シェアハウスでの経験も大きい。

たまたま出会ってしまった・集まってしまった未熟な5人 だからこそ、ただ一緒に居るだけで傷付け合いもしたし、諦めもした。
多分みんなも、諦めている部分は最後の最後まであったんじゃないかな。
性質も違うし求めるものも違う。
なぜ私はここに来てしまったのか、私はここに来るべきではなかったのではないか、なぜこのメンバーだったのか、もっとこうなら私は、と 何度も思った。
こんなに近くにいないといけないのに、多くを話せる友ではなかったし、誰もが安心してありのままでいられる空間 でもなかったように私は思う。
わたしが誰かのしんどさに加担してしまっていたことも少なくないだろう。

でも、その諦めに付随する淋しさはきっと、大小はあれど、誰もが誰もに対して抱かざるを得ないものだと思う。
どれだけわかりあえる人であったとしても、自分とはどうしても違う人だからこそ。
そこを埋めるための”対話”も大切なものではあるけれど、それでも絶対的には 誰も わかりあえない。

その諦めは 「違いを認識すること」 であり、
それは「他者の尊重・リスペクト」に繋がる。
そして他者を尊重することは、その他者と同じように自分自身や、他者と自分自身の違いも尊重されることに繋がり、それは「自分自身の自由を獲得すること」になる。
したがって、諦めや淋しさは仕方ない。

でも だからこそ、人との関係も、やっぱり 積み重ねた時間 なのだと思う。

偶然出会ってしまったという事実・現実の中で、自分の意地や これまで費やした時間、そうせざるを得なくなるようなしがらみ・繋がり、芽生えつつある気持ちや関係を支えに、同じ時間を共有し続ける。
どんな人同士であっても、共に過ごした時間分の関係や気持ちは確実に生まれる。そこで生まれた気持ちは、「わかりあえている」ということとは異なる、不思議な愛情のようなものであると思う。

もちろん、はじめから分かり合える人や一緒に居やすい人、諦めや淋しさを感じにくい相手もいるけれど、たくさんの人がいるこの世界で生きていくと、そうでない人もたくさんいる。 
そのとき、逃げることもできるし、もちろん そこで生じるしんどさや苦しさから逃げることは否定されるものではないけれど、
でも、完全に逃げるのではなくそこに少しでも共有している時間や空間があれば、着実に積み重なる何かがある。

人と関係を築くのに大切なのは自分の能力や魅力だけではなく、時間も大きな要素であると感じた。
だからこそ、誰に対しても誠実さを持って、どこにいても 同じ1人のわたしとして、時間を積み上げられる人になりたいと思った。
窮屈にはなりたくないけど。

(余談 : これまでは 無責任な行動ばかりしていたからこそ、自分のこれまでとこれからがその人に知られるのがなんか嫌で facebookなどのSNSはできる限り何もしなかったし拡げたくなかったけど、そういうのもなんか積み重ねかなあ、と思ったりして、今これ書いたりしてます)

いまの私

4か月間を過ごしても自分の生き方は定まらないし、
希望や自信や力を持てるときがあっても、不安や淋しさは常につきまとってくる。

でも、与えてもらったものや関わってしまった人 は、この4ヶ月のみならず、これまでの私の人生においてもたくさんあったし、いまも在る と感じたからこそ、今はそれをポジティブなしがらみとして感じ続けることによって、
不安定ながらも
自分ができる限りの せめてもの強さ・意気地は頑張って持ち、
生きるという選択を勇気を持ってできる自分をどうにか保って、
その中で 自分なりのwell-beingを探りながら、過ごしたいと今は思う。

人から気持ちを向けてもらえる状況に身を置くことができたこと、そしてそれを選択した自分や、人と時間を共にした自分があったからこそ、
少しでも理解しあえたり、愛しいと思いあえたり、信じあえたり、安心を感じられたりする関係があった。
そして そんな関係だったからこそ いま、別れがこれほどの不安を生じさせている。
その不安を自信や強さに、少しでも変えたい と思う。

私はきっと、私らしく しか生きられない。
それは、心強い諦めだ。
とりあえずは 意地もほどほどに、甘えたり頼ったりもしながら 楽しく生きれたらいいなあ、

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この下書きを投稿する現在、私は陸前高田を出て、旅をしたりしつつ自分でくらし始めています。

これを書いてまだ数日しか経っていないけれど、その数日の間にも 様々な人や出来事に出会いました。考えは日々変わっています。
正直、この文章で書いたことも、今の私はもう全てに納得している訳ではない気がします。

でもだからこそ、記録として、こちらに出してみようと思います。

読んでくださり、ありがとうございました。

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