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淀む川

こないだ夜の本屋で、ヒッピーのことを映画と絡めながら研究してた、という若い女の人と話した。

今は働いていると言ってたので、ヒッピー的考え方を持ちながら都会の会社で働くのって難しくないですか?と問うと、アマゾンで買い物をしないとか、そういう小さいことを真面目にやってる、みたいなことを言っていた。

その人の放つアマゾンという言葉の響きが私にはどうしてもあの植物生い茂るアマゾンのイメージばかりを想起させ、一体今なにの話をしていたのか、ごくわずかな一瞬記憶が飛んだ。

その人が飲んでたラム酒入りのチャイを私も一緒に飲んだ。
その日、夜ひとりでいたらだめそうだからここに来た、とその人は言っていた。それを素直に言うその人に好意を抱いた。そんな場所がもっとあればいいな、と思った。

その本屋にはヒッピーの本がいくつかあったので、その人におすすめの本を教えてもらって買った。
これまで私が憧れ、影響を受けてきた人に、そのバックグラウンドにヒッピーにまつわる経験がある人が結構いる。でも結局ヒッピーって何なのか、私の中で確かなことがぜんぜんなかったので、本を読んでみようと思った。

私のすきな本がいくつもあって、でも知らないこともたくさん詰まっていて、暗くて、いいところだと思った。でも次の予定が案外迫ってきて、後ろ髪をひかれながらもいそいそと店を出た。

自分がこれまで”ニッチ”や”マイナー”と思ってきたり多少自虐的に言ってきた趣味嗜好というのは、”オルタナティヴ”とか”カウンターカルチャー”とかって言えばかっこいいんだ、と思った。

ただもちろんそれらの言葉はその背景や含蓄があるからこそそれだけのかっこよさのあるものである。なんでもかんでも容易にそれということはかえって自分の品位を下げることにつながるため、注意が必要であるとも思った。

そんなある夜のちょっとしたやりとりが、普段は意識しないわりにもふとしたときに私の脳裡によぎり、最近私もできる限りアマゾンで買い物をしないようにしている。

自転車に乗ってちかくの文具屋や本屋や雑貨屋に足を運び、手に取ったり、求めていたような商品がそこにはないから手に取れなくっていろんな店を巡り、時間がどんどん過ぎていったり。
その時間にしようと思っていた作業ができないまま、夕方が今日も刻一刻と近づいてくる。

ここ数年、古着屋や本屋や古道具屋など特に好きな店以外で”ショッピング”みたいな時間を過ごすことがほとんどなかった。当然のような大量生産商品の流通とセットにある消費主義みたいなものから意図的に距離を置き、見えないふりをしていた。

だが、アマゾンを使わずに近くの店でものを買おうとすると、今住んでいるのが神戸の市街地、三宮の街中ということもあり、店と、そこに飾られたたくさんの商品たちが溢れる場所に身を投じ、その中でその膨大な商品たちを目でさばきながら、自分の目当ての商品を探すような時間を過ごすことになる。
たとえば水筒が壊れたから水筒を買うときとか、ちょっと特殊なホッチキスの芯を買うときとか、お茶の葉を入れる紙のパックを買うときとか。

魅力的に見えるように努力された品物たち。そしてそれを眺め、買う人たち。
すべてでは全くないが、自分が探していた品物以外のもので心を惹かれるものもあって、私の中の物欲がそれなりに喚起される。

とはいえお金に余裕はないのでそこからなにかが大きく起こるわけではなく、引き続き自分の目当てのものを黙々と探すだけなのだが、そのたくさんの人とたくさんの商品の波に乗る中でなにか、自分の「好き」や感性のようなものが、その集団の中で暗黙裡に共有され大声で叫ばれている「良さ」みたいなものに影響され、すこしずつ変わっていってしまうような気配がしてこわくなる。

私が持つ是の意思なんて所詮ヤワなものなんだ、と自信を損なうような気になりながら、その全然頼りにならない自分の指針に従うまでもなく引っ張られていく。

大きい資本、その便利さを利用することによって自分の意に反するものごとに加担することがないよう行う行動によって、主体は異なるにしても同じように大きく、その大きさを保たないといろんなものが継続できなくなってしまうものによって成り立っているような原理をもっと強固にしてしまうような嗜好に自分自身が誘われていってしまう。

葛藤。悩ましい葛藤です。

でもものを買うということ自体はやっぱり悪いことじゃないと思う。

じゃあそうやって、自分の信じるものが変わってしまったりする前にその場を離れればいい、そのくらいのスピードで買い物をすればいい、と思う。
けれど、ネットとは違って物理的な制限があるのが現実のお店なので、この私の身体が一番に向かっていき、この手に取ることができる場に、自分が求めるものが必ずしもあるわけではない。

用途としてその求めているものを満たす商品はあるかもしれないけれど、つくられている素材や、つくられた背景や、つくっている人のことを良いと思える商品しか買いたくない。そういうものだけで自分の生活を囲みたい。
そういう吟味のないままの購買、用途を満たせばなんでもいいという選択は、これもまた自分のポリシーに反する。
(でもこういうことを徹しようとすればするほど、手っ取り早くつけそうな仕事の大半はできなくなる。自分のエネルギーの発散の場所は、方法は、そこじゃないように感じる。まあ、程度の問題というか、自分ができるまでは徹して無理だと思うところは飲み込めばいいんだけど。)

いいと思うものをちゃんと選ぶことによって、自分の主張や考えを社会に存在するものや考えや人に対して示していくべきだ。

だからこそ、いろいろな店に足を運ぶことになり、そこで漂うことになるのは前記のように消費喚起の喧噪の海なのである。

すきなセレクトショップみたいなところに信頼を置き、その吟味や思考の作業の一部をその店に協力してもらえばいいんじゃないか、と思う。

ただセレクトショップはその名の通りに商品はセレクトされたものだけを限定的に取り扱っていて、ここも結局人々が求める商品の全てを網羅することはできない。
あくまでそのセレクトに合致するものがあればいいが、求める品種も、その嗜好も、傾向みたいなものはあれどやっぱり人それぞれで、全く持ってぴったりなセレクトショップみたいなものはないかも。
(まあ、ネット通販のセレクトショップを頼りにすればいいのかもしれない。でもネット通販はネット通販で、身体性の無さというか、物理的な動きがあまりに少ない状態で望みのモノを入手できるという点でやっぱりなんか日常的に気軽に、生活の中のスタンダードとして使うには、なにか大切なものが滑っていってしまうような感覚がある。)

自分が生活の中で、人生の中で求める全ての商品について、逐一ベストを求めよう、いかなる商品も私が必要と欲したならば自分の可能な限りで手に入れよう、そうして自分の生活を常に自分の満足しているモノたちで満たそうという姿勢が、一番いいものにアクセスできるという姿勢こそが、すでにもう大いに傲慢で、私はそんなニセモノの無限が当たり前にあるように感じさせられてきた現代社会の「ふつう」みたいなものにただ侵され虚しく空回りしているだけの典型的なシティガールなのかもしれない。

あるものを使って楽しめる、工夫してすきな環境をつくることができると自分に対して思っていたが、そんなものだって大したことはなく、私だって有限であることへの実感を全然持っていないのかもしれない。

自分でつくることこそが、その自分の求めるものの究極に最も近いものを実現できる方法だ、とは思うけれど、それをするために必要となる道具や材料も、またそれを手に入れるまでにたくさんの吟味の段階がある。

道具については今私は若いからこそそうやってひとつずつ自分の気に入るものを得ていく時期にあるのであって、いいものを今ちゃんと手に入れられていれば今後はそんなに頻繁に探すようなものではないとは思うし、それにほんとうに今必要な道具は探さずともどこからともなく流れてくる、という実感もあるけど。
でも材料についてはやっぱり探す必要がある。ほんとはそれも自分でつくったりあるものを使ったり自然の中にあるものを探して使ったりできたらいいんだけど。

紙一重。あまりにも紙一重で、そのスタンスのすり替わりに自分でも気づかないほど。手品のようである。

すべてこだわることによる結果的な無駄の無さや自分の時間に生じるゆたかさと、そのこだわりを発揮する対象が無限だと誤信することによって追い求め、無駄にする時間や穢れてしまう感覚、その愚かさ。時間こそ有限なのに。

…でも、ほんとうにそうかな。

環境に配慮したような商品は高くって、そんなものを買えるような人はよほど環境意識の高い人か、よほどお金に余裕がある人だけ。
ふつうの人は、安い方がいいとか、おしゃれなほうがいいとか、そういうそれぞれの嗜好がある。

選択肢が多いことはだからこそ必要で、たくさんの人、それぞれの人のニーズをしっかりと満たすことができるようにいろんなものが世の中に、この市場の中にあることが大切。その中からそれぞれの人が選べばいい。

…でもそれってほんとうに、「嗜好」という言葉だけで片付けていいものなのかな。
「デザインが素敵であること」と、「生産過程において人や自然が大切にされていること」と、「自分の収入で買える価格であること」は、それぞれの人の嗜好の要素として、同じように横に並んでいいものなのかな。

おしゃれで、使いやすくって、買いやすい場所に売っているものがいい、そういうのはみんなそれなりにほんとうは共通しているんじゃないのかな。
絶対的な正義なんてたしかに無いけれど、でもそれでもそれなりに確からしい、深い所ではもっとたくさんの人に共通するほんとうみたいなものはやっぱりあるんじゃないかなあ。
「そういうものは高い」
それは確かにそうかも。

でもじゃあ、「ほんとうに求めているものを買おうとしてもそれは高くって買えない」という人がこんなにもいることって、異常なことなんじゃないのかなあ。

100均くらいじゃないと、買えない。
それぞれにみんな何かして生きてるのに、ものはこんなにも溢れているのに、その、みんながほんとうは求めているような性質を持つちゃんとしたものをみんなが買えないくらいにしかお金を持てないっていうのは、おかしくないのかな。

自分が納得のいく日用品を探すのにこんなにも時間がかかるのって、ふつうなのかな。
自分が良いと思う商品を見つけるために、膨大な、ほんとうにいるのか?という商品のアピールを受けなければならないのって、尋常なことなのかな。

吟味する上で、その選択肢の中に、「これは絶対にちがう」と思うものの数が多すぎる。
世の中にそういうものが多すぎる。
たとえば日用品を買うときにその値段の高さとか、ほんとうの吟味、ほんとうの趣味嗜好ではない要素の多様さ(幅広さ、高価なものと安いものが十分にいろいろあること)が必要になるような社会って、つまるところ、それだけの格差があることをよいこととしているってことなんじゃないのかな。

もっと高いレベルの吟味をしたい、
もっと深いところの話をしたい、

「いろいろあるよねえ」
「いろんなひとがいるよねえ」
「むずかしいよねえ」
淀みのない川を流れていくように、どうってことない言葉で片付けられてしまうことが多すぎる。

そんな言葉では何も言っていないことと同じだ、と思う。
複雑さをまとめ、受け止めたような物言いをしながら、対話することを、議論することを、考えることを、存在することを、うっすらと否定されている気持ちになる。タチが悪い。

すこしでも立ち止まって考えると、人びとはすぐにその様子を「悩んでいる」と片付ける。
でもこれが”悩む”というのなら、人びとよ、もっと、悩まなくていいのか???
気持ちがわるい。淀むことを恐れすぎている。

「多様な選択肢・状況がある」ということが手放しにいいわけじゃないんじゃない、と思う。

とはいえ、そんなすぐに変わるようなものじゃない。
だからこそ結局は、そのような考えを持った私が何を選ぶのか、ということによって、そのようなひとりひとりの選択や傾向の積み重ねによって変えていくようなものなんだと思うけれど。

あと、最近スターバックスによく行く。
これも私にとっては結構な葛藤になっている。

いま住んでいるところは、作業をするにはあんまり気乗りがしない。
作業ができるような机と椅子がある場所は自分ひとりの部屋に屋上に、日中は営業していない1階のバーに、4階建てのビルに細長くついている階段の踊り場に、いくつもあるけれど、なぜか長く集中できないしやる気が出ない。

私はこれまで、まったくのひとりじゃないと集中できなかったので、勉強や読書も、自習室やカフェなどよりも家で、自分の部屋の静寂の中でやる派だった。
ざわざわしたカフェにわざわざ行って勉強したりする人の気持ちがわからない、と思っていた。

でも最近、そういう場所に長い時間ひとりでじっといることができない。
一緒に黙々と作業をする人や話しているたくさんの人がいる場所のほうが、落ち着いて集中した作業ができるようになってきた。

じゃあ大学に行けばいいのだが、大学までは3駅のはずなのに山の上にありすぎて自転車と徒歩で1時間弱かかる。電車を使っても同じ。
大学のラーニングコモンズみたいな場所も私にとってはそんなに落ち着かない場所で、私の学部の図書館はとにかく坂の上すぎて遠いし、なんか人が少なくてそわそわするし眠くなる。
下の方にある他学部の図書館にある荘厳な閲覧室は悪くないのだが、大学自体には用もなく、ただ作業をするだけに往復2時間をわざわざかけるくらいなら、その時間で勉強や作業を進めよう、という気持ちになる。
これは大学1~2年生のときの私の足が大学からどんどん遠のいたときの理由と同じだ。
(余談:山にある大学に通うからこそみんながネタとして通学を「登山」「下山」と称したりするが、あえて”山”と言い換えなくても、「登校」「下校」という言葉は既に学校というものが”登り”、”下る”対象となるものであるということが示されている!ということに最近気付いて面白いと思った。そのようなことを踏まえると、山にある大学というのが学校のロケーションとして全く奇異なものではなく、むしろそれなりにスタンダードなものなのかもしれない、と思ったりした。目的や何か旨味があるのであれば通ってもいいんだけど。)

だから最近は、住んでいるところの周辺で作業や勉強をしている。
近くの図書館や、公共施設にある無料のコワーキングスペースで作業したりもするが、あまりに通うと顔みしりになってしまったり、知り合いがいたりしてちょっとためらう。
多分自意識過剰なんだと思うけど。

その点、大きいカフェというのは匿名性が高くていいのだ。
喫茶店や飲食店にしても、もちろんいちばん好きなのは個人のお店とか、それぞれに違ったこだわりがあるような、人柄が見えるような店だから、作業以外ではそういうところに行くが、そういう店に長く居座ることやそこで日常的な作業をすることははばかられる。
スターバックスなら三宮にこれでもかというほどあり、この人たちは何をしているんだろう(もちろん私も含めて)というほど人が集い、その中に埋もれることができる。

それも自分のいまのニーズだから、それが満たされるところを選んでいるということなんだけれど、でもなんだかなあ、と思う。もちろんスターバックスにこだわりがないという意味では全くなく、丁寧な接客だなあ、とか思ったりはするんだけど。
本当にしたい行動ができているのかというとわからない。

匿名性が高く、雑然としている場所。
自分の存在が消せるような場所。

お金がもっと十分にあるならば、すきな場所で、正当なお金を払いながら滞在するのかもしれない。
自分が居心地よく作業できるような家を、自分の力で持ってそこに居るのかもしれない。でも、私は今それを持たないし、それを得るという時間の使い方をしようと思えない。
これが自分のできる限りであり、自分が丁度いいと思える”程度”、ということなのかもしれないけど。

やっぱり自立したい、力を持ちたい、という気持ちもある。
でも今、それよりももっと大切なこと、取り組むべきこともあるような気もする。

矛盾ばかりがある。
そこらじゅうに転がる葛藤。

やりたいこと、やるべきこと、学びたいこと、知るべきこと、つくりたいもの、考えたいこと、すごいもの、
そんなものが多すぎて、全くもって足りない。
ひとりではどうも圧倒されてしまって、そんなショックの中でも容赦なくどんどんと時間は進んで、変なところにこだわっているとあっという間に年を取っていってしまっているような気がして焦る。
玉置浩二が『田園』をつくったのは40手前か、そんな計算をしたりして過ごす数分間があったり。

でも、そんな考えるという行為も、つくるという行為も、学ぶという行為も全て、ほんとうのところでは結局ひとりでやるからこそ、のようなものだとも思うからこそ、強度を高めねば、と感じる。

この街の中だって、私には十分なくらいの緑がある。

すぐそこにはみんながのびのびと芝生に寝転がるひろい公園があることを知っているし、すこし足を伸ばせばこんなに近くに海がある。出航のときの汽笛の音が聞こえてくるほど。 
もっと素敵な緑のあるまちを、と働く人たちの存在もひしひしと感じる。

うすいピンク色をした雲とは違う動きをする暗くてうすい雲は、海上の船とおなじ速さで目前の風景の平行線上を切っていく。

潮風のかおりは案外遠いところにも運ばれているし、滝だって川だってある。

山はこんなにも迫る距離でなんともなしに私を眺めている。

空は見上げればいつもどこでも私の頭の上にあり、大概のところではすこし待てば風が吹く。
風が吹かず、空が見えなくても、すきな音楽はいつでも聞ける。音楽が聞けない状況なら歌えばいいし、言葉を頭の中で思い出せばいい。
そんな人間として、この世界を生きたい。

淀む川とはつまり、池なのかもしれない。

今日もまた、たくさんのまたたきを含んだ時間を経て陽が翳りはじめた。
オレンジ色の光が街を包む夕方が、やってこようとしています。


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