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すいかのたね

自分の身のまわりというのは、
すべて、
これまでの自分が選んできたものの結晶であるからこそ、
もう、
まったくもって完全に、
すきなことだけ、
すきなことだけをやらないと、
すきなものだけに向かっていかないと、

逆にそれをきっちり、100%の気持ちでやってれば、
いつどんなときも自分は自分のすきな、気に入ったものだけがあるたのしい世界で生きていられる。

清純でいないと。
純度を高めて生きないと。

今も、ずっと、
これまでもこれからも絶対にそれだけをやらないと。

そしてあたらしく思うのは、
その清純、その正直さは自分の心の中だけでいいということ。

人に向けた自分というのは、
自分がそうしたほうがいいと思うときには別に正直でなくとも、ほんとうのものでなくてもいい。

すきじゃないものは、向かっていかずとも、選んでいかずともあちらから来る。
それを必死で拒んだり否定したり害したりする必要はない。
来るものに関してはそれなりにいい機会かなという気分ですこし触れてればいい。

でもせめて、自分で選ぶものくらいは、ほんとうにすきで、焦がれてやまないものだけにすること。
そして、生活の中で、そういう自分で選んだものの割合をどんどん増やしていくこと。
そしたら、あちらから来るものもおのずと自分のすきなものたちになってくる。
その環境をつくることにとにかく努めること。

そんな選り好みしてちゃ、やってけないよ、
嫌だと思うこともやってこそ、わかることがあるよ、と
それもわからなくもないけれど、

でも、嫌だと思うことですら、すきなことをする上で必要になること、としての嫌なことで十分。
そういうことは案外、嫌だ、納得できないと思う間もなく気付いたら自分が為し過ごしていることに気付いたりする。
できている。
そういうやっていき方もある。

とにかく今は、
すきなことだけを、
納得できる入口があるものだけをやり、
すきなものだけを選ぶ。

そこで覚悟を決めて、決心をして、
まずは信じてやりきるという気概は私はまだまだもっと必要なものかもと思う。

すいかはおいしい、
と私は感じる。
であれば、そのたねをとる面倒くささは引き受けよう。
それをしてまでも、すいかという美味しい果実を味わってやろう。

すいかのたねを、わざわざとって食べるというのはどういうことなのか?
すいかのたねは、ほんとうに取る必要があるものなのか?
すいかのたねは、取って捨てられ、どうなるのか?

たねをたくさん含んだ緑と赤と黒を持つすいかたちが、
畑で、
縁側で、
スーパーで、
くだもの屋で、
仏壇で、
つめたい川で、
ずっしりと座る日々がもうすぐ来る。

まもなく夏。

私はここで、そんなすいかを食べるのか?


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