三人称「神の視点」は便利だが危ない(小説の作法)
いよいよ、神の視点。
純粋な作者の視点とはちょっと変わります。神になった作者とでもいえばいいか。
俯瞰してるから、神視点じゃないの? と思う人がいるかもしれません。
それもありますが、それだけじゃありません。
あなたは人間じゃありません。神です。
なんといっても。
神様は自由です。時代も空間も超えちゃいます。
神様視点でもしゃべるし、登場人物視点でもしゃべる。もう、なんでもアリです。
制約がないので、やりやすいといえば、やりやすい。
■まずは、例をあげてみる。
ケンは勇気を出して告白した。
「ハナコ。オレはお前が好きなんだ」
ケンの心臓は早鐘のように高鳴る。ハナコは困ったなあというのが正直な気持だった。
まさか二年後、あのような展開になるとは、二人には知る由もないのだった。
神様ですからね。ケンが勇気を出したことも、心拍数が増えてることも、ハナコの気持もお見通しなわけです。
二年後にどうなったかまで、知っちゃってるわけです。
■問題点 うっかりやると、「視点のふらつき」を指摘される。
いま挙げた例が、たとえばずっと、ケン視点のみで語られていたとしましょう。
そこにいきなり、「ハナコは困ったなあ」って出すと、読者は「ええ!?」ってなります。
ケン視点であれば、
ケンは勇気を出して告白した。
「ハナコ。オレはお前が好きなんだ」
ケンの心臓は早鐘のように高鳴る。ハナコは何も言わない。迷惑そうでもないように、ケンには思えた。どうか、オレの気持を受け入れてくれ――ケンは祈るような気持で、ハナコの言葉を待った。
のように、ハナコの気持は出てこないんです。
ずっとケン視点で書いてたのに、突然、一二行、ハナコ視点をはさんで、その後はまたずっとケン視点――なんていうのをやってはいけません。
まず間違いなく、視点がふらついている。視点を意識できていない。と、批判されます。
■なんで、ふらついちゃダメなのさ。
これが、困るのは、作者はそんなに変だと思ってなかったりするってこと。
読んでるほうはキツイのに、指摘しても、作者は気になってない、ピンとこない、ってことがあります。
で、
「どうしてでしょう、私、これ、そんなに不自然だと思えませんけど?」
って言う。
そりゃ、ねえ。書いてるほうは、そうなのかもしれません。
あの、DVDなんかで、多数のカメラ映像をスイッチひとつで切り替えられるのあるじゃないですか。
あれ、自分が見ながらカチャカチャ切り替える分には気にならないでしょう。
でも横で見てる人がいたら、相当、しんどいでしょう。
(テレビのザッピングもそうですよね。本人はいいけど、周りは見てらんない。)
そういうことが、起きているのだと思えば、わかりやすいのではないかと思います。
つまり、あなたは良くても、読者は良くない!! なのです。
これが気にならないってことは、やっぱり、読み直すときに、自分の文章を読者の立場で読めてないんだろうな、と思います。
あるいは、たいして読み直していない場合もありますね。
ダメですよ。読み直さないのって。
■おまけ
人称の話題には関係ないですが、「勇気を出して告白」「心臓が早鐘のように高鳴る」みたいな、誰でも書きそうな表現、ダメですよ。
陳腐です。
こういう表現ばっかり使ってるとまず、ダメ出しされます。
だいたい「早鐘のように高鳴る」ってのは、馬から落ちて落馬っぽい。早鐘のように、っていったら、もう高鳴るって言ったも同然なわけで。
陳腐な表現にしても「早鐘のように打つ」としておくべきところ。
気づきましたか?
このような、なんか言いまわしにこだわって、やりすぎて、自滅。これ、けっこうありますから。注意しましょう。
今回は、ちょっと思いついたので、やりがちなダメ表現を使ってみましたが。
他の部分も。ダメ表現はたぶん、やってないと思うけど。あんまり気にしてない。まず、いい表現は使ってないです。
注意を払うのは表現じゃないから。
ニュースなんか、そうですよね。表現飾ってる場合じゃないから、いかにもな言葉の使いまわしにする。
そのほうが、中身を伝えやすい。
そう、言葉ってのも、適材適所なのですねえ。
今回はこの辺で。
(1680字:無料 ※空白と改行は除く)
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