各レベルでの自分の立場を考えると辛いことがありすぎるので一旦忘れた上で地に足つけているような形
代案ないから批判しないって決め込むのまじやばいし、無自覚なまま時が過ぎたあと自分の無力さに気づくのきつくね。
歴史を読んで怒ることって、過去のことだから関係ないって考えとは別次元のことだよな。両方存在するものとして対応するのが当たり前なんじゃないのか。
沖縄人と言うのが一番楽ではある。これが先輩方から受け取ったものかもしれないね。ずっと沖縄人でいられるだろうか。この「沖縄人」が依拠するものは何なんだろう。学校はこれをどう扱うのだろう。そもそも扱えるのだろうか?
沖縄戦を語り直すとき、私は誰なのか?といつも考えざるを得ないのがすごくもどかしい。国民であることのデメリットかな。アップデートされないかなーと思ってしまう。どこに流れつくんだろうね。
圧倒的多数の義勇隊を本当は「自分たちの郷は自分たちで守れ」って名目で戦闘動員したかったんだろうな。でも組織的に動かしきれず時間もなく、学徒隊は学校組織を利用して思ってたより動員できちゃったって感じに見えてきた。教師や学校側の名誉とか生徒側の承認欲求的なものと合致したのかな。
ふと新聞の取材と実際の記事のギャップを思い出した。私がそういう趣味があるから、刺激的な物事を求めてそれをモチベーションにしてこの仕事をやってると思われてるのかなと。逆に記者ってそうなのかな。
生きることの理由が死ぬことの理由にすり替わることがあったのかも
まず閉じ込められる
「あらゆる人間を死に動員する戦争状態」にどう対応するか
本土防衛の捨て石作戦っていまだったら何だろう。当時の認識は全然今もあり得る。たぶん、ここに溝がある。
そう思うと、そろそろnote消し時だわ
本人にとってはかなり私的な語りだったかもしれないものが垂れ流される形でアーカイブの土台ができるんだろうなぁ。自分だったら嫌だけどなー、こんなもんかなぁ。
体験共有の有無から始めないと。
武器を使ってでも何を守ろうとするのか。巻き込まれてるだけ・従わされてるだけで、部外者に救われたい人がどれだけいるのか。こういう区別をする方法はあるんじゃないのか。
「同じ人間だけどわがままで言うこと聞かんし今後勝手なことされたら困るから殺してもいっか。それに、自分たちに利益もあるから犠牲少しあってもコストに見合うと認識されたらいっか。」って納得するか??