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大切なものは、なくしたときではなくて、もう一度手に入れたときに気づくのかもしれない。

10時過ぎになんとなく日が昇ったなぁと思ったら、おやつの時間の15時にはもう夕暮れで、一日が終わったと感じるくらいの暗さになってもまだ18時。

冬の暗さがつらいとは聞いていた。
時を同じくして同じ場にいる人たちの、いわゆるつぶやきの中には「どうにかこの冬を生き延びるぞ!」といったような意気込みも散見された。

私自身はなんだかすっごい眠いなぁ、と思うことはたまにあったけれど、これは日本にいても年中大体同じことで。
むしろこちらに来たばかりの頃、家の中の電球が全てどこもかしこも暖色なことに慣れないというよりはむしろ、正直苦痛で仕方なく、必死に白熱灯を探していたあの時期を思えば、外の暗さなんてなんのその。

暖色の電球で照らされた部屋よりも曇りの日の外のほうが明るい、という発見に衝撃を受けたりしながら、人生で初めてのその「陽がどんどん短くなる」時期を、私は楽しんでいた。楽しんでいたのだ。

年が明けて二月になっても曇りばかりが続き、雪はこれでもかというほどに降り積もり、しまいには木々が凍り。いや、木が凍るってそんなこともあるのか、と驚きつつ。

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さすがに雪がここから数か月先まで残るのはキツイかも、なんて感じ始めていた日々から数日後、突如としてある日いきなり太陽が出てきた。
さらにそこから10日ほど太陽が出続けた。
そんなんだからもう太陽が出始めて三日目には

春が来た~~~!!!!
気分上々である。

なんて喜んだのもつかの間、10日間の逢瀬を経てまた太陽が引っ込んだ。

そこからは、出ては引っ込み出ては引っ込み。そうこうしているうちにどんどん「日照時間」だけはのびて、それでも出ては引っ込み出ては引っ込み。
三寒四温という言葉があるけれど、晴れの日こそ冷え込む冬のお天気模様、三会四寒。。。いやもう太陽に会えない寂しさに耐えているだけで上出来だ、なにかを上手くいう事は諦めよう。
そしてそんな諦めをあざ笑うかのように、4月になっても雪を降らせてくる。

えぇ、そうです、もう暗いのも寒いのも勘弁願いたい。

10日間の太陽との久しぶりの逢瀬を経たことでそのありがたみに気付き、太陽と会えない時期って私辛かったんだな、と思ったが最後。
脳内言語化してしまったら試合終了。

『北風と太陽』なんて物語があるけれども、あれは太陽がそれなりに出るから成り立つお話であって、こちらの冬では北風の不戦勝だ。

むかし住んでいた国では、今頃とっくにプールに入ってるし海にも行ける。普通に生活しているだけで皮のむけるほど焼けてしまう夏がもうすぐそこにある時期だ。

日本の友人からは「桜が咲いたよ!いや、これは梅かも。。。?」なんて写真やらが日々届く。桜が見たいのではなく、それに付随する暖かさが羨ましいなぁなんて思ってしまう自分がいる。

念を押しておくけれど、ここでの生活が嫌なわけではないのだ。

大切なものは、なくしたとき気づくってよく聞くけど、もう一度手に入れたときに気づくこともあるのかも。という話である。

じわじわと無くなっていくもんだから、無くなったときには気づかなかったのだ。
それなのに、ある日突然戻ってくるからびっくりしてそのまま両手を挙げて喜んでいたら、「ほら、その手でちゃんと掴んでないからだよ」なんて言わんばかりに、するりと逃げ出し戻ってこない。

天気に人間性を覚えたのは初めてかもしれない。

きっと逃げ出したまま戻ってこないものも沢山この世にはあるんだろうけど、戻ってくるものもあるだろうな。

いずれにせよ「今」あるものを大事にしたい、しなければ、という点には変わりはないんだけども。

というわけなので、まずは21時になっても暗くならない外を眺めながら、やたら目が冴えるようになってしまった「今」を大事にするべく、暗い時期に寝すぎた分の活動を取り戻そうと思う。


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