ルイボスティー飲むイルボスティーノ
8.22 FUJI ROCK WHITE STAGE
THA BLUE HERBのライブをYoutubeで観ました。1MC&1DJのストロングスタイル。そのステージにあるのはビートとBOSSの言葉のみ。まずはこのシンプルさが僕にHIPHOPの原始的なかっこよさを思い出させました。
実際、楽曲やブルーハーブ自体にそこまでの思い入れがあるわけではないのですが、BOSSの佇まいは僕が思い描くラッパー然としていて、楽曲の好き嫌いを超えてこのカリスマラッパーの言動は常に気になってしまうのであります。
そしてこのステージ、ご覧になった方なら誰しもが言及するでしょう、印象に残ったのはパフォーマンス中盤のフリートーク、というか曲間のMCです。コロナ禍の音楽フェス開催について賛否がある中、真正面からその問題に対して言及していました。全文書き起こしはこちら↓
ヒップホップの真髄っていったら大袈裟だし、それはこんなヘッズの1人が定義できるものではないけれど、ヒップホップのエキスとは何かを考えた時に「コール&レスポンス」という要素があるのではないだろうか。
よくラッパーが客を煽るのに
ラッパー「Say Ho---!!」 客「Ho---!!」
というやりとりがあるが(まあブルーハーブはやんないけれど)単純にそういうことだけではなくて、MCバトルもあるし、ビーフもあるし、リミックスもあるし、ネームドロップもあるし、というように、ラッパーが他のラッパーに対して何かを投げかけて(コール)、それに反応(レスポンス)して「俺はこうだ」と楽曲やverseで示していくそういう全体の動きがヒップホップっぽさなのかなと思います。
では今回のBOSSのライブMCは誰に何を投げかけた(コール)のでしょうか。誰に?分かりやすいところでいえば「政治に携わっている人」でしょう。何を?「ライブハウス,クラブ」に対する「補償して支えるっていう枠組み」を作ることでしょう。
BOSSは真摯な態度でカメラに対し脱帽し、頭を下げました。そしてその後、話をつなぎ、次の曲へと進んでいくわけですが、最後に「DYE,ビートくれ」と言います。その「ビートくれ」がめちゃめちゃカッコよかったのはさておき、僕は自分自身に投げかけられている言葉なんじゃないかと思いました。
自分は政治家でも行政の人間でもないですが、たまたまそうでないだけで、自分がもしその立場だったらこの言葉を聞いて何かできるのだろうか、と考えてしまいました。来年の1月1日にはzepp tokyoが閉館します。1月30日にはstudio coastが閉館します。どちらのハコもライブを観に行ったことがあったのでとても寂しいのですが、「ふーん、そんなもんか」「ライブ行ってたことが懐かしくなるんだろうな」と他人事に思っている自分もいます。
でもほんとに他人事でいいのだろうか。これまでどれほど音楽に胸踊らされ、音楽に心を癒され、音楽に感動して、音楽によって人と繋がって来たんだ、と考えるとそういったライブ活動自体が縮小されていってしまう現状はとても悲しいことだし、それに対して何もしないというはあまりに、薄情・不誠実なんじゃないかとも思います。
せめても・・・と思い、どんな補助金・助成金の制度があるか調べてみると、綺麗にまとめてくれているサイトがありますね。
ある種こうやって検索することも、小さな、本当に小さなレスポンスかとも思います。実際こういった支援があること自体知りませんでしたし、これらはわずかながらイベント業者の支えになるのでしょう。
しかし、BOSSの言っている「補償して支えるっていう枠組み」っていうのはもっと長期的な支えのことなのかなとも思います。
最近では8月29日に開催された「NOMIMONOGATARI2021」に批判が溢れています。さらに下記の記事をみると、経済産業省の補助金の交付も決定していたとのことです。
コメント欄をみると、こういった感染拡大を助長するようなイベントに対して税金を使うな、みたいな意見が多くあります。確かに要請されているルールやマナーを守れていなかったことに対して、否定的な意見を言う人の気持ちも分かります。ただ僕が思うのは、「音楽って僕たちの人生にとって必要なものだから皆で大切にしようよ」っていう視点をもっと持ってそれを共有して、社会的にそれが認められるようになってもいいんじゃないかという事です。
「音楽って僕たちの人生にとって必要なものだから皆で大切にしようよ」の”音楽”は他のものに置き換えても全然いいと思います。映画とか漫画とかもっとニッチなものでもいい。
ただし、それが社会にとって良いものだからという理由で認められることを求めているわけではありません。音楽は社会に害を及ぼします。例えば「NOMIMONOGATARI」の件はいい例ですし、舐達磨とかを見れば、大麻万歳で犯罪を助長するような見方もできてしまうわけです。
しかし、音楽は間違いなく我々の人生を豊かにします。それは自分自身の実感としてもありますし、表現するアーティストにとってはそれが生きる術でもあるわけです。
つまり、社会にとって良いものだから社会に必要とされるのではなく、我々の人生にとって必要なものだから社会がそれを認めるという風になってほしいのです。
じゃあ社会が認めるってどういう状況なのかというと、国の助成がどうのこうのではなく、結局は各々が音楽にリスペクトを持つってことだと思います。こう言ってしまうと僕がただ音楽というものを妄信していて、音楽はすごいんだから、もっと尊敬しろと言っている風に聞こえてしまうかも知れませんが、そうではなくて、「社会に害を及ぼすものでも、それが必要ってことがあるじゃん」って感覚を共有して、それを存在として認めても許容されるような心持ちをみんなが持っているってことなのかなと思います。
人々がそういった気持ちや価値観を徐々に形成していって初めて、本当に「補償して支えるっていう枠組み」が出来上がっていくのかなと思います。
でもそれはとてもとても長い道のりであり、現実にそぐわない綺麗事なのかもしれません。そう考えると一人一人にできる事はものすごく限られていると思うのです。しかし、できることは実は単純で「自分の好きなものについてしっかり考えて、それを大切にする」ってことだと思います。それしかできないんだと思います。大切にするってことは行動にするってことでもあります。
ライブの最後にBOSSが言っていた言葉に胸を打たれました。
「自分から輝かないと世界は明るくならないよ」
まさにそうだな。と思いました。理屈と感情とメッセージが三位一体となった言葉だなと思いました。
やっぱり変えていくのは1人1人だって事をBOSSも言っていたのだと思います。
以上、ダラダラと駄文、失礼しました。テケテーゼ。
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