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Friday log #4 (10/7) emotionally charged






正直、一週間が早すぎてもう金曜日なんて信じられないです….。高校生の時は、IBをやって、受験して、課題して、部活して、友達と駄弁って、委員長して、インターンもしていたのに今では友達とスコーンを食べただけで結構ぐったり来てしまうようになりました…。

奨学金をもらっているから、海外大学というマイナーな道を取ったからみたいな理由で、特別な存在になりたい自分と、そうはなりたくない自分の狭間で(傲慢にも)日々揺れている気がします。

自分が、今までずっと滑稽にも「奨学金を取って良い大学に行く!」というある意味で記号化されてわかりやすい目標に向かって一直線だったからこそ、高校生の頃はがむしゃらに頑張れたのだなあと思います。でも、その目標を幸運にも叶えたいま、私は何に向かっているのだろうという気持ちになる時があります。

そういったある意味で「普通ではない」道をあえて選んできた時は、「丁寧な暮らしに憧れる」って思っていましたが、いざ丁寧で余裕のある暮らしをすると、少しだけ焦ります。でも、丁寧な暮らし自体に焦るのではなくて、こういった余裕のある暮らしは楽だし疲れないので、特に疑問を持たずに、人生ずっとゆるく生きていけそうで、自分に焦ります。

人生は問題意識を忘れるぐらい普通に忙しい、みたいな誰か有名な起業家だか投資家だかの言葉がずっと心の棘となっているのですが、果たして毎日目的意識を持ちながら、俺は早く成功するんだ!と思うことは正解なのか、一考の価値があると思います。

人生の経験則的に、私は最初は何もできなくて悔しいところから始めて、でもぬるっと努力して、最終的にものすごくできるようになる、みたいな道のりだったので、別に即物的な成功を求めなくてもいいではないかとは思います。でも、こういうのは目標があるからこそ成り立つプロセスであり、私の今の目標は、しいて言うなら猫か犬とパートナーと暮らすことなので、困ったもんだ!となっています。

話は全然変わるけど最近取った、物質文化人類学がすごく面白かったです。
モノはいかに人間を作り、人間はモノをいかに作るか、という授業だったんだけど、私たちは写真の発達によりモノや思い出により深い繋がりを求めることができるようになったと言う話がありました。charge of emotionsだね。確かに、お母さんからもらった指輪は値段に関わらず唯一無二だし、自転車も私にとって大きな意味であり、私にとってのメタファーをこれからも持ち続けると思います。

『海辺のカフカ』で、「そういうふうに関係性が一つ一つ集まると、そこに自然と意味というものが生まれる。関係性がたくさん集まると、その意味も一層深くなる」(p40)と言っていたのを不意に思い出しました。私にとっての指輪や自転車を例として、小さな物事全てに関係性を見出すことを目的にしつつ(でもそこに重きを置きすぎないで!)、人生という長い目で見たときに、その関係性の意味が深まることを期待するのは、なかなか良い気がしてきました。

まあ実力主義に溺れない人生なら正直なんでも楽しいとは思うし、これからもどうせじっくり考えるので、焦らずに流されるのではなくて目の前の海を泳いでいきたいと思います。



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