Friday log #24 (1/21)

ロンドンは相変わらず曇りで、今は外で風がごうごうと吹き荒れています。みなさん、お変わりありませんか?

最近ここまで色々考えたことは人生でもないんじゃないかと、自分でも思うぐらいにずっと考えがぐるぐると巡っています。本当はこれを書く気は全くなかったし、それこそ私は愛とか幸せとかそういう罪な言葉を使うことが全然好きではないので、躊躇っていたのですが、多分これを今ここで書かないと後悔するだろうし、ずっと垂直な孤独の中で息を潜めていることに繋がるんだろうなと思ったので、頑張って書くことにしました。あまりにも巨大なものと対峙している気持ちと、その巨大さを丁寧に掬いきれるかどうかわからない怖さと、でもどうしても書き留めておきたいという気持ちでこの文章を打っています。

思えば、今まで自分をいかにして受け入れるかのようなところで、自分と戦い続けてきたような気がします。私のnoteを読んでくれている方ならわかるかもしれませんが、どうしても自分に合格点をあげることができなくて、常に満足できなくて、満たされなくて、それがどうにも苦しくて悔しかったです。これはおそらく、自分の自信の無さが根本にあることは薄々と気づいていたのですが、なぜ私には自信がないんだろう?という点がどうしても自分ではわかっていませんでした(あるいは目を背け続けてしまっていました)でも、これは、私の一番の欠点(そして一番向き合いたくなかった点)でもある、自分から行動する勇気が無いというところが根本だったと思います。誰かに好きになってもらいたい、誰かに認めてもらいたい、誰かに誘ってもらいたい、誰かからの言葉を通して自分を受け入れたいみたいな点において、どこまでも甘えた受け身だったのだと思います。全て自分主体ではなくて隙あれば誰かに寄りかかろうとする受け身な甘さのせいで、自分で自分を認めてあげるという行為を放棄していた節もありました。これが、私の自信のなさ・自分を自分で認めてあげることができない根本だと、心から思いました。そして、私は自分で自分を認めてあげることができなくて、未来の自分に期待をすることで、自分を受け入れることを先延ばしにしていたし、これがどれだけやっても満足できないストイック病の原因でもありました。その瞬間の自分を受け入れることができないからこそ、自分に自信が持てなくて、自分の選択の選択にも自信が持てなくて、他の人と比較しすぎてしまったり、比較した結果永遠に自分に合格点を出せないみたいな点においてずっと苦しかったです。そして、自分を受け入れることができないが故に人生とは競争であると自分で勝手に定義して、他人のことも本当の意味で受け入れることができなかったのではないでしょうか。

でも、よくよく考えたら、私は別にノーベル賞を受賞したいわけでも、誰かになりたいわけでも、なれるわけでも、それらの状況が自分の行動なしに向こうからやってくるわけがないのです。そして、私は今この瞬間しか生きることができないことをようやく悟りました。過去も未来も、私という輪郭は感じることができません。本当に、本当に今この瞬間しか生きることができないんだと思います。今この瞬間に生きている自分を受け入れて、何かできてもできなくても愛してあげることこそが幸せなんだと思います。そして、それは自分にしかできないことです。誰かがそんなことをしてくれるわけがないのです。誰かに愛されているなどどうでも良いのです。自分から愛せているかだけが問題なのです。うだうだ考えずに、今すぐに意味を忘却して自分で行動を起こすべきことなのです。でも、これは逆に言えば、私はこの瞬間から自分を認めてあげることができる、幸せになることができる、そして、それはどこまで行っても自分の行動次第である、というどこまでもまっさらな清々しさに気づくことができました。

まずは、自分のことを受け入れることから全てが始まるのではないかと思ったのと同時に、これから先は全て自分次第であるということにも気づき、しんとしずまった晴れ晴れとした気持ちでもあります。そして、自分がやるべきことを淡々と集中してこなす、という潔くてシンプルで、自分を自分の基準の中でのみ常に受け入れつづけることで、本当の意味で他者軸から脱却することができる、新しい指針が見えてきたような気がします。


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(おまけ)
そして、これをここに書くのは、多大な勇気が必要なことだし、今までみたいに書けないかもしれないけど、高校を卒業して大学に入る前、下北沢の寮でバーンアウトになったことがあります。この時のことは、幸いにもバーンアウト所感として残してあるので、あの時どんな気持ちだったかをまざまざと思い返すことができます。一方で、現在に至るまで、なぜあんなふうにバーンアウトになったかがどうしても分かりませんでした。でも、最近わかったことがあります。私の一番の問題は、とっても受け身で他人軸(=他人がどう思うか)だったことにあると思うのですが、それは大学受験においても大変顕著でした。どういうことかというと、本当に私は高校生の頃未熟だったので、大学を選ぶときに、合格後の生活をあんまり考えていなかったというか、大学に合格することが全てだったのだと今思います。そして、その大学の選び方が、社会一般的にみてすごい大学か否かみたいなところが否めなくて、その選び方をしたことをかなり後悔しています。(そしてそれを認知していたからこそ、他者軸で生きることから脱却しようと試み続けていました)そして、高校生当時の私の全てだったとも言えた、大学に合格するという他者基準が動機だっため、合格した後は楽しいことが「勝手」にやってくるだろうなと傲慢さと純粋さが混じった思い込みをしてしまっていました。もちろん、当たり前ですが、楽しいことや素晴らしい経験が勝手に来るなんて絶対にあり得ないわけで、そこで目的を失ったと勘違いしてしまったというか、ギャップに苦しんで、バーンアウトのようになってしまったのではないかと、今になって思います。

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