お父さん
いつもはそう呼んでいるのでここではお父さんと呼ばせて頂きます。
というのはいつか結婚式で使いたかったのですが、ここで使う事にしました。
実はなぜだか、学生時代から結婚式で両親に手紙を読むのを何十度、いや何百度と想像していた。
私は学生時代、お父さんに女の子らしい姿を見せたくないが故に、家に帰るとスカート姿を見せないようにドアと自分の身を同時にスライドさせ、黒子のように部屋へ移動していた。
オイラと自分で言わないことでギリ女の子だとわかるレベルな程、ずいぶん男の子っぽく育ってきたので、結婚式だけは人生で一番女の子である姿を見せようと腹に決めていた。
それを想像しては決まっていつも瞳をにじませてしまう。しかもお父さんが旅立って今もなお。。
えっと、、
気持ち悪いかな!
ごめんなさいかな?
しかし今日は丸々ノンフィクションでお送りしちゃお。
お父さんと一緒にバージンロードを歩く、それが私の夢の一つだった。
はい!!(挙手)
はい、どうぞ。
すみません!
自分で言っておきながら申し訳ないのですが、やはりお父さんと呼ぶと感情があれなので、「ジョー」と呼ばせて下さい。
彼は、アニメ「あしたのジョー」が大好きで、それに音読みした自分の名前を足し「ジョー・リュウセイ」と名乗るので「ジョー」。
ただ「リュウ」と呼ばれたりもしていて、龍が好きでもあった。
私はケンとは呼ばれていないし、イライザとも知り合いではないが、寅年で、葛飾で産湯を使い、トラという芸名で虎が好きなので、
ジョーと私は言わば龍虎です。
空手バカで言うと山崎と添野です。
しかし、よくよく考えてみると「ジョー」と呼ばれている所は見た事がない。
ただ、従兄弟たちには「ボス」と呼ばせていた。前に情熱大陸で永ちゃんもボスと呼ばれていた。
私も中学時代、一部から「ボス」と呼ばれていた。
呼ばせた覚えはないし、ヤンキーでもなかったけれど、血は争えない。
結果的に、そんなミニボスからビッグボスに捧ぐ、人生最初で最後の女の子らしい姿を見せる夢は叶わなかったけれど、私が結婚する事がいつの日かあるとしたら、その時にはきっとAIでジョーを投影する事が出来ると信じ、お金を貯めてAIジョーと歩けるバージンロードを夢見ておこう。
G.I.ジョーみたいでかっこいい。
ちなみに、私はジョーに歌を歌ってもらいたかった。
いつも想像してる時は長渕剛の「乾杯」。
だから私はカラオケで乾杯を歌うと泣きそうになってしまう。
あれ?
確信かな!?気持ち悪いかな!?
謝った方がいいかな?
結構ごめんかな?
とまぁ、今日はそんなジョーと私の最期の3ヶ月のお話。
ただの、いち親子の話。
時は3年半前、
2019年8月末、母方の家族と旅行に行っていた時、母に一本の連絡が入った。
ジョーが、恐らく自分は「がん」だと。
9月頭、紹介状をもらい、ジョーと次男と大きな病院へ行った。
前の病院で検査をしているとはいえ、疑わしきが確定に変わるまでは少しかかると思っていたのだが、今の医療はすごい。
その日のうちに「肺がん」だと断定されたのだ。
やっぱりそうか。。
そうじゃなくあってくれ。と思いつつ、ジョーが「そうだろうな」と言っていたのでどこかで覚悟していた。
でも思い返せば思い当たる節ばかりだった。ジョーは息切れがしたり既に症状もあったし、病院に行った方がいいよって半年以上前から何度も言ったんだ。
ジョーは頑なに、いい、行かないと言った。
ジョーはいつも周りの人の事は、これでもかってしつこいほど大切にするくせに、自分の事は大切にしなかった。
好きなとこだけど嫌いなとこだ。
がんの告知を聞いた私は、正直、絶望するわけでもなく深刻になるわけでもなく何だか実感がなくふわふわしていた。
それに加え、自分の病気である「双極性障害、いわゆる躁うつ」から芸人に、舞台に復帰する為のステップとして岩手県のホテルで派遣として3週間働くのを3日後に控えていた。
一見、いわゆるリゾートバイトなのだが私にとっては、一定の生活リズムで働き、色々な人と接しても崩れないか、または崩れても自分で軌道修正が出来るかの訓練をしにいく気持ち、私にとってのG.Iジェーンプロジェクトだった。
成し遂げたら一気に芸人復帰へ近づく、自信もつく。
だから結構な覚悟でいたし、ジョーも「おーいいじゃん!」と言ってくれていた。
がんと診断された時、私は個人的に主治医に岩手に行く事、でも行かない事も出来る旨も伝えたが、主治医としては、これから更に検査をしていくので他のご家族が居れば今すぐどうこうという訳ではないと。
ジョーは昔からよく「俺は老後誰にも面倒見てもらいたくねえから。1人で死にてえから。」と言っていた。
ジョーは寝たきりだったおじいちゃんの介護を10年やりきった、その大変さを一番身に染みてわかっているからこそ自分の事で誰かに制限がかかるのをえらく嫌っていたのだ。
なのでジョーにも改めて確認をして、自分でも行きたい気持ちが強かったので岩手に行く事を決意した。
岩手では思っているよりずっとうまくやれていて、自然にも触れあえているせいか毎日心も身体も好調だった。
離れている私がジョーの為に出来る事は何かと考えて、写真で綺麗な景色を送ったり、動画を撮って送ったりした。
勿論自分の顔はひとつも載せない。
そういう甘い関係ではない。
パパと娘でもなければ、おやじと娘でもないのだ。
常に尊敬はしている、おやすみの握手以外は必要以上に触れないけれど、洗濯は一緒で上等、似た性格だから話も合うし、2人で食事にも行く。
しかしながら、絶対的な存在だったから、ジョーに向かって汚い言葉を吐いた事はない。
ただ人生で一度だけこの3ヶ月でバカと言ってしまった。ごめんなさい。
まぁジョーと私は、そういうなんかくっつかないけど底の部分で盃を交わしているような深い親子なのだ。
父と娘とまで堅くもないし、そもそもの話、娘らしくもなかったから、親子以上の名前はつけ難い。
そんなこんな岩手で働いていたが、ジョーの状態が芳しくないと知らせが入り2週間で東京に戻った。
この時は、正直あと1週間岩手で頑張りたいと思ったし、ジョーは自分の為に途中で帰るなんて一番嫌がるだろうなと思っていた。
でも家族と連絡のやり取りをしていて、後ろ髪を引かれつつも、戻ろう、と決断をした。
しかし岩手から戻った私を待ち受けていたのはジョーの手厳しい洗礼だった。
私はジョーを驚かせたくて東京に着いたその足で病院に向かった。
びっくりはしていたものの、友人も居たからなのか、お世辞にも喜んでいるとは言えない顔をしていた。
それどころか、心なしか冷めているようだ。
確信に変わったのは、岩手の話にピクりともしなかった事。
あぁ、そうか。
私が岩手に行った事はジョーにとってはあり得ない決断だったのだと悟った。
ジョーの「行け」は「行って欲しくない、いや、俺なら行ってきなって言われても行かない」だったんだ。
私は芸人のくせにフリを見逃して間違ったボケをしてしまった。ジョーの無言のツッコミが思い切り叩かれるよりもずっと痛かった。
そこからは暫くずっとそんな感じだった。
口に出すのは「俺はもう父親として接するのは疲れた、最期は1人の人間として死んでいく。だから看る覚悟がないなら来るな」と。
それに加え、ジョーは周りの人に家族の悪口?文句?を言っていた。
でも、その時ジョーがそう思ったのだから仕方ないし、そう思わせたのは私の責任でもあるから仕方ない。
ただ、当時はそれを聞いたであろうジョーの周りの人間から向けられた、マイナスな視線が嫌だった。
ジョーには何を思われてもいいが、全てを知ってるわけじゃない外野はすっこんでろ。と思った。
それからというものの、ジョーはよく私を否定とまではいかないけれど、グゥッと言葉で刺してきた。
昔からずっと「トラちゃんは1番俺に似てる」「おばあちゃんとトラちゃんと俺はそっくりだ」
と言っていたのに、それすらも「俺の方が~」「俺の比じゃない」「全然違うね」と。
う~ん、正直しんどい。。もう髪型思い切りアシンメトリーにして独特な歌い方しちゃおうかな。。と思った。
でも私が岩手に行っていた事や今までの行動でジョーを傷つけたのならば、これは私が受け止めるべきものなのだ。
参ったなぁ、、と思う事は度々あったし、お見舞いに行くたび、今日はどんなモードかなぁ、、と病院へ向かう足取りが重くなり、間に合いそうな信号を見送る事もしばしばあった。
でも病院に行くのをやめるという選択はなかった。
何があってもどんな事をされても、
どうしたい?と問われたら
「看る一択真っ直ぐ矢印ど真ん中ストライクでお願いします!」だった。
それに調べていくと、がんには身体的だけでなく、うつ状態や怒りっぽくなったりと精神的な症状があるというのだ。
この時私は、自分が躁うつになってから人格が変わってしまったと思うほど色々な症状が出てきつい事が沢山あったのを思い出した。
トリガー不明、コントロール不可、自分でも理解出来ないから、近しい人ですら理解するのも難しい。
大好きな人をも苦しめてしまう罪悪感と、
居なくなりたいという絶望、泣いても嘆いても叫んでも何も変わらない。
心も身体も日が出るのはほんの少しの時間だけ、今日よ早く終われ、明日よ来ないで。
それくらい生きるとは命がけの日々だった。
ジョーはこれに加え、迫りくる死への恐怖と痛み、苦しみを感じているはず。
私は、死にたい人間が生きる苦しみを知る事が出来たけれど、生きたい人間が死神に肩をたたかれるという計り知れない苦しみは知らない。
つまり、ジョーが私をいくら傷つけても、
傷ついた私よりジョーがずっとずっと、いや誰よりも一番苦しいんだと思った。
だから私はこの日からウィンタースポーツのCMのように、ぜんぶガンのせいだ。
と思う事にした。
受け止める覚悟を今まで以上に強く心に決めたのだ。
ジョーは何をしても何も悪くないのだ。
私は自分に何が出来るか考えた。
腐っても芸人である私には1つしか思いつかなかった。
“ジョーを少しでも笑顔にしたい”
これ特攻の拓の手法。「“ ”」
たてたい言葉はこれに限るよね、天羽くん!
とまぁ、私は出来るだけしんみりしないようにジョーの病室に行く前にはエピソードトークを手土産に向かう事を心がけた。
そして小さな会話からも笑いが起きそうな物は逃がさず、捕まえてはジョーに投げたりしてみた。
そして自分が笑う事、明るくいる事も心がけた。
結果は、、、、
玉砕!
全心打撲!
痛みに耐えてよく頑張った!
完敗したっ!!!
ほぼ響かずっ!トラちゃんがっくし!
でもでも!
勝率は悪いが、明るくなる時もあった。
ただ、次男の兄から、ジョーが
「トラが笑うのがきつい」
と言っていた事を聞いた時は、
ぐぅ~。。。ときた。
ジョーは辰吉のジョーだったのだ。
それはそれは重たい、レバーを持ち上げるどころかえぐるような息の止まるボディだった。難波のジョーより葛飾のジョーの方がよっぽどおっかないと思った。
はぁ、腹筋を鍛えておけば良かった。。
涙こそ流さなかったけれどT-BOLANに傷だらけを抱き締めてもらいたかった。あの曲はとてもいい。
ただそんな事でヘコんでる暇もなく、どんな日だったとしても次の日はやってきて、日々は過ぎていき、主治医から経過を聞く日がきた。
衝撃だった。
ジョーの肺がんはステージ4、所謂末期の状態であること、以前から患っている難病である間質性肺炎のせいで「手術」「放射線」「抗がん剤」どの治療も出来ないと言われた。
もっても3ヶ月から半年、でも間質性肺炎が暴れ出したら一発でアウトだと。
叔母やジョーの友人は泣いていた。
ジョーは泣かなかった。平静を装っていた。でも絶対に動揺していた。
私はジョーに苛立っていた。
平気なフリして質問なんて笑ってすんなよ。こんな時は自分の気持ち優先でいいじゃんか、頼むから無理しないでくれよと。
ジョーと33年親子をしてたら嫌でも全部わかるんだ。果てしない絶望に襲われてるのに、周りを想って気丈に。その丈はいらない。
私は、その苛立ちを自分にぶつけた。
泣くな!絶対泣くんじゃねえ。泣いたら命ねぇぞ。
と脳に、全神経たちに緊急指令を出して、もう全然、何も関係ない、愉快極まりない事をひたすら頭に浮かべ、ジョーの顔をほぼ見ないように、何も出す事なく乗り切った。
だってね、私は岩手に行く前にがんを宣告を聞いた日に人生で一番固く心に決めたんだ。
今後一切、ジョーの前では泣かないと。
ジョーは私の泣き顔を見たらもっともっと辛くなる。
それどころか優しいジョーは申し訳なさまで感じてしまうだろう。
私は人の何かにはめっぽう弱い。悲しい事も嬉しい事もすぐほろり。。今もだけど当時は、ジョーを思えば涙を流す速さはどんな女優も目じゃないぜ!だった。
逆に、涙を出さない事は、電流イライラ棒のように常に緊張感があり、どこかにチッて当たっただけで破裂してしまうようで繊細な感情コントロールが必要だった。
だからどんな衝撃波が全身にドカンと来ても、険しい顔でごまかして、ともかく涙だけは、泣くのだけは絶対しなかった。
その代わり、一人暮らしの家と、実家のお風呂ではシャワーを顔にあてながら声を出来る限り出さないなら、引くほど泣いていい事にした。
けどお風呂上がりに薬師寺戦の辰吉だったから家族にバレた時もあったかもしれない。
でもいい。ジョーに見られなければ。
宣告が終わり、病室に戻ったジョーはあいも変わらず気丈に振る舞っていた。
私もバカのフリして平静を装っていた。
それはまたジョーに嫌な気持ちをさせるかもしれない、でもこの時の私はジョーに涙を見せてジョーに気を遣わせるくらいなら嫌われる方がマシだと思った。
そこからジョーは治療法を調べてくれる友人や地方に住む長男に感謝し喜んでいた。
次男と私は、トラちゃんたちも探したりしないとさ。と言われていた。
私は適材適所と思っていたし、正直、毎日面会時間あたまっから暗くなるまで行っていたせいか看護師さんには大学生と思われていて、曜日もわからなくなり、この時期はよく自分の病院も忘れてとばしていたほどだった。
でもずっと頭にあったのは、ジョーが一番辛いという事。私に何があってもジョーの苦しみにくらべたら、へのかっぱ。
三井寿がゴールしか見えないように私もジョーしか見えなかった。
しかし次男には悪い事をした。
一番同じサイクルで生活をしていたのに、ジョーが荒れている時、私に愚痴というか色々吐露する次男に対して同調する事はほぼせずに、それどころか毎回、
「でもね、あれは全部『症状』のせいだからお父さんは悪くないんだよ」
と言っていた。
うつのひどい時、人に理解してもらえなかったり自分でも症状なのかなんなのか苦しかった私には、ジョーの傷みは違う種類だから全部はわかってあげらないけれど、ジョーにしかわからない気持ちが、学術的にも証明されている範囲では足りないほど精神的な症状たちがあるからそうなんだと言い聞かせた。
次男はのちに、あの頃はずっと憑り付かれたようにそればかり言うから、またかよ!って参っていたと。笑
今考えると唯一同じ立場だったからもっと同調したら良かったのかもしれないが、次男は笑いながら話してくれたし、よしとしてもらおう。
あの頃は本当にジョーファーストだったもんで、他の誰かの言う事はジョー基準でしか話す事が出来なかった。
それから暫くして、お誕生日を含む3日間、一時退院の許可が下りた。
しかし移動は酸素ボンベで、家でも酸素の機械を使い鼻に酸素を送りながらチューブに繋がれた生活になる。
でもジョーはそんな事より久しぶりの外出にワクワクしていた。
薬の影響で日に当たってはいけないとの事で、退院の日はマスク、サングラス、長袖、手袋の装備をして病院を出た。
酸素ボンベの値と、ジョーの血中酸素濃度を見ながらタクシーで帰った。
ジョーは風を浴びたがり窓を少し開けてもらってマスクを取って息を大きく吸った。
私は、日に当たっちゃう、危ない!だめだよ!と止めたけれど、大丈夫だよと笑顔で言うジョーに、一瞬だけ親のような感覚になった。
ジョーは私に対していつも危ない目にあわぬよう心配して、過保護な程に愛情を注いでくれていた。それは時に重過ぎて、心配し過ぎ、みんなの家は許してもらえるのに、と鬱陶しく感じることも多々あった。
そう考えると、危ないけれどマスクをとったジョーの行動なんて可愛いもんで、私はそれとは比べものにならないくらい風来坊で鉄砲玉だったので、グレとは違うけれど自由を求め過ぎて沢山心配をかけていたのだなと思った。笑
家に着き、それはそれは豪勢なお誕生日会を盛大に開いた。
ジョーのいとこのよしくんがケーキを持って登場して、ものまねをしながらハッピーバースデーを歌ってくれた。よしくんが最後に五木ひろしで締めてジョーがろうそくを消した。
コーラで乾杯!
そして暫く撮れていなかった家族写真も撮った。
ケーキを持ったジョーの写真も撮ったのだけれど、とっってもいい笑顔で、いつもの渋かったりカッコいい笑顔じゃなくて、無邪気で心からの笑顔。
それを遺影にしたいなと思ったけれどパジャマだし酸素のチューブが鼻に着いてるしで使ってない。
でもあの写真は今もたまに見るけど、コンディションのいい時に見ないと泣いてしまう。
だけどコンディションの悪い時につい会いたくなって見てしまう。結局泣いてしまう。
この3日間は、今までのどんな楽しかった3日よりもあっという間に過ぎてった。
病院に戻ってからは、また同じような日々と思いきや、何だかジョーは元気になっていた。
そして出ました、ジョーの好きなお決まりの、ちょっといけないことをやる。
夕方になるとジョーが言うんだ。
焼き鳥食べるか!と。
看護師さんに見つかったらアウト。
病院から少ししたところにある高級な焼き鳥を次男がタクシーで買いに行って懐にいれながらナースステーションを通り、病室で食べる、それが3人の秘密の贅沢な楽しみだった。
病院食は進化してるとはいえ、お世辞にも美味しそうとは言えなかった。
私の爆笑がうるさくて、ジョーがあわてて、
看護師さんに見られたら大変だよ!シーッ!シーッ!と。
大変だよって焦ってるのに顔は笑ってるジョー。
焼き鳥の味は、美味しかった
、、と思う。
正直言うと、一緒に食べる幸せと楽しさで麻痺してるうえに爆笑し過ぎてお腹がそこまで空かないなか看護師さんに見つからないようにスピード勝負でかっこんでたから、味わからなかった。
でも2人が美味しいって言ってるから私も美味しかった。
結局、具体的な治療が出来るわけでもないし、状態もいいので誕生日から1週間もせず、隠れ焼き鳥も仏に許してもらえる程で家に帰る事となり、訪問看護を受けつつ定期的に通院する形となった。やったね。
帰ってからは毎日パーティーみたいだった。
ジョーの食べたい物をみんなで食べたり、テーブル卓球したり小さいゴムボール買ってきてカベ当てキャッチボールしたり花札したりカブやったり。
たこ焼きとか鍋ラーメンとかエビフライも作ったりした。
私はジョーに料理を作ったことは一度もなかったんだけれど、ミネストローネを作ったらとんでもなく喜んでくれた。
嬉しかったけれど、やっぱこういう料理とか女の子っぽいやつはくすぐったい。
それから、薬の分包は私の役割だった。
分包しながら2人であしたのジョーを観たり、くだらない話をした。
数日後、、、
爆弾のような台風が来るとなり、恐怖を感じた。しかも荒川が氾濫する恐れもあると。
避難所まで発表されてるくらいだった。。
地方に住む友人からも大丈夫か?と連絡が来たり、やはり今回のは半端じゃなさそうだと思って、YouTubeで調べてたら、氾濫した場合のイメージみたいな動画が出てきて怖すぎてどうしようとなった。
酸素の機械や介護用ベッド、バリアフリーなどをつける為、実家の近くに部屋を借りでジョーは過ごしていたので、その日は長男は地方に住んでるので、お母さんと次男が実家、借りた部屋にはジョーと私の2人だけだった。
ただ、ジョーは酸素チューブがないとだめだから避難所へも行けない。
だから、もし氾濫したら最後まで一緒に居ようと覚悟を決めた。そして私が担いででも意地でもジョーを先には死なせないと。
ところがどっこい!
ジョーはのんきだった。
「こういう時こそラーメン食べようぜ!!」
あれ?私、磯野?
と思うほど中島が野球に誘う勢いで言ってきて、ラーメン作り出して、なんかよくわからないけどそのおかげで安心して、少し不安はあったものの、色々話してたらいつの間にか笑って台風を待ち構えていた。
夜になると去り際の雨風を浴びにベランダに出た。
危ないよ!雨入ってきてるから!!と私は焦っているのに、笑いながら楽しそうに台風を味わうジョー。
私も小中学生の頃、雨に打たれるのが大好きで、母に持たされた傘をわざとささずに濡れながら帰っていた。
なんか挑戦してるみたいで楽しくてワクワクするのだ。
母は「お父さんみたい」とよく言っていた。
ジョーの居ない今も色んな場面で「お父さんが乗り移ったみたい!」とよく言う。
昔はいいんだかわるいんだか、と思っていたけれど、大人になってからは嬉しい。
がんになってから、
これからは私がありとあらゆるものからジョーを守る!!
と思ってきたけれど、結局最期までジョーにずっと守られっぱなしだった。
亡くなったあと、ジョーのスマホでYouTubeの履歴を見ていたら、がんについてと、好きな曲に紛れて、台風による荒川氾濫の動画があった。案の定、私が観たものと全く一緒だった、、思わず眉を下げてクスっと笑ってしまった。やっぱ似てるなぁと思ったし、きっと私と同じように怖かったのにとんでもなく強がって平気なフリしてたんだと思ったら、なんかね、やっぱかなわないや。
そんなジョーを色んな人に届けたくて、同期2人とやっていたネットラジオの電話コーナーに出演してもらった事もあった。
いつもみたいなジョーだけではなく真面目な話もしていた。
酸素の数値をあげてなかったのかな?息が少しあがってて、大丈夫かな?と思ったけれど最後まで沢山話してくれた。
私は昔から、自分が売れたらジョーにテレビに出て欲しいと思っていた。一番出たかった番組はA-Studioだった。
芸人でA-Studio一番かよってね。
あれ家族や友達が出てくるでしょ?ジョーが、家族が鶴瓶さんと私の事話してくれると想像するだけで最高だ。
それから、ジョーには本を書いてもらいたかった。いつか本を書きたいと言っていたし、本が好きで頭も良いし、激動の人生で経験も沢山積んでるし、私は贔屓目なしで人格者だと思ってるから。
私が売れずにチンタラしてたもんだからその夢を叶える事も出来なかった。
でも実は私もいつか本を書きたいと思っている。
ジョーの夢を叶える、というよりは私も書きたいと思っていたからだ。甘くない事は承知の上だし、本をよく読むわけでもない。
でも書きたい。
こう、なんか公言をするのは苦手なんだけれど、宅建試験を受ける時、自分を追い込んで鼓舞する為にも、初めて自信満々に、私は受かるよ!と周りに言い続けた。そして受かった。
だから、ここでも公言をと。でもちょっとずるいよね、ここなら読む人も限られているし。笑
でも実現をさせたい気持ちは強いから言葉にしていこうと。
さて、話を戻そう。
その後、生きようと気合いの入ってるジョーとみんなで色々な病院を探して、セカンド・オピニオンで病院に行った。
出来る事は何でもやろうと。
しかし、残念ながらやはり治療は出来ないと判断されてしまった。
それはジョーにとったら生きる道を、数少ない可能性まで断たれたという事だ。
想像もつかない絶望だろう。死を受け止めろと改めて突き付けられたんだから。
私はその日の夜、長文のメールをジョーに送った。言葉を選んで、わかったような口をきかぬよう、でも少しでも、ほんの少しだけでいいから和らげられるように。
返信は明るくて、優しくて、私を褒めてくれて。そして、やはりお父さんに似ている、DNAはすごいものだなと。
病気についても、もう少しです。もう少しで吹っ切れるからと。まだまだ頑張ると。
この言葉に強さと寂しさを感じ、やりきれない気持ちで葛藤してる姿を想像したら涙が止まらなかった。
今後の人生のアドバイスもあって、今でもたまに見返すんだ。
見返しては、もっと自由に正直に自分を信じて思い切り生きようと思うけど、中々難しいもんだ。
でも亡くなってもなお、文章でも私の背中を押し続けてくれる。
そういえば、ジョーが過ごしていた部屋には週に2回ほど泊まりにいっていた。
泊まる時には、2人で一緒に明日のジョーを観て、寝入りにジョー・ブラックをよろしくを流して寝ていた。
奇しくも、死神が来て死を宣告される父とその娘のお話。
SFなんだけど、死ぬことも少し怖くないように描かれていて。
ただ、私は奇しくもと思っていたけれど、もしかしたらジョーがこれを観ようって言ったのは、勿論元々好きなのはあるだろうけど、死ぬ事は怖くないよ、大丈夫だよってマイルドにしてくれようとしていたのかな?
と思ったのはここ最近のこと。
答えは聞けないからわからないけれど、ともかく粋なヒーローだったから、何かこの映画を選んだ意味はあったんだと思う。
お泊まりの時は、ジョーが眠りにつくまでは寝ないというのが私のちっちゃなポリシーだった。
夜はただでさえ暗いから、一人で起きてたら暗い方向に心がもっていかれやすいから。
私がそれ全部ひっくり返してやるって息巻いて。
途中で痛みを感じて起きたりする時には、痛み止めを飲ませて、どんな真夜中でもそのあと必ず気分転換に一緒にオロナミンCを飲むんだ。
同居してたおばあちゃんとお父さんと私、そっくりな3人が大好きなやつ。
乾杯を必ずするようにしていて、チンッて合わせるんだけど、ジョーが少し辛そうな時は私が2つ持ってチンッてするんだ。
その時は必ずジョーが上めに。やっぱジョーはずっと私の上に居るから。
結局、そんなにいかなくてもいいのに随分上にいっちゃったけど、変わらず下を見守ってくれるのならいいかな。
子供が出来るとお母さんは音に敏感になってスッと起きれるって言うけど、それと同じなのかな。
ジョーの異変?何かいびき以外で音したなとかトイレ行ったなとなるとスッと起きて確認してしまうようになった。
少しでも長く生きていて欲しいと思いつつ、嫌なんだけど、そこまで長くない予感もしてたから、1日1分1秒が大切で、いびきさえ愛しくて録音なんてしちゃったりして。
声を、動画を、写真をいつでも聴けるように見れるようにって残す機会を逃さないようにしてた。
けれど、あまりにも目の前で撮りすぎると、ジョーが亡くなってしまう前提で撮るみたいで嫌だと思うから隠し撮りも多かった。
そうまでしてでもジョーを永久保存していたいと強く思っていた。
だって歌も話も上手で頭も良くて愛情もあって生きざまもかっこよくておもしろかったら、これが聴けなくなる世界を受け止めるのはとても難しいじゃないか。だから私の海馬には任せられないから記録を残して残して残しまくって。
ある夜、ジョーがうなされていて、痛いのかなぁと思い、肺の部分を後ろから触っていたら、少しして急にジョーが起きて急いで手を離した。
ジョーが、トラちゃん今触ってた?
うん、触ってたよ。
なんか痛いと思ってたら急におさまったからなんだと思った。
そう言ってまた寝てしまった。
え?手当てってやつなのかな?!本当にあるんだ。
痛みだけは何もしてあげれないと思っていたから、ジョーの勘違いだったとしても少し力になれたみたいで嬉しかった。
泊まった次の日の朝は必ず、起きたら血中酸素を測って、血圧を測って、体重を測り数値を記載する。ご飯は魚や味噌汁、たまにパンにしたりもして。
ジョーは腸閉塞、イレウスになる可能性があるとの事で、食事制限をするようにしていた。
食べるといいものと食べちゃダメなものを書き出して冷蔵庫に貼ったり、食べちゃダメなものの中でも好きなものは少量は食べたり。
朝ごはんの味噌汁か飲み物にはイヌリンを入れて腸内環境を整える。食後は薬、その後お茶をいれて一緒に飲む。
サプリメントを飲む時間も決まっていた。
命に関わる事なので手書きで表を作ってチェックリストを作った。
お昼くらいにストレッチしたりもしたり。
お昼過ぎはコンビニでカフェラテ買ってきて、甘いものもちょっとはオッケーにして食べて。痛み止めは物によって何時間空けるかとか用途も変わってくる。
夜は基本みんなで。ご飯後はテレビ観たり話したり。
そんな日々が続いた。
しかし、少しずつ、痛み止めを飲む回数は増えていった。
でも飲むという事は色々鈍らせていくわけで、ぼーっとしたり、記憶が曖昧になってくる事もあった。ジョーはそれが嫌だったんだろう。
出来るだけ飲まないようにしていた。
私は痛みを軽減させてあげたい反面、はっきりとしたジョーで居て欲しいと願ってしまっていたから、薬を出来るだけ飲まないようにする事は良いこととは言えないと思うけど少し嬉しかったりもして。
いつも、良くなれ、奇跡起きてくれって思いながら、怖いから、もしかしたらって、いつくるかわからないよ、って希望と保険をいつも一緒に持つようにしていた。
その時期にはジョーは自分の身体だから色々わかったきてたんじゃないかな。
旅行に行きたいねと、自分の大好きな車をファミリーカーに買い替えた。
納車まではまだ時間がかかるので、とりあえず今の車でまずはカラオケに行こうとなった。
ジョーはカラオケが大好きなのだ。
酸素ボンベを持って、車椅子を借りる前だったから長男と次男が支えて。
カラオケの駐車場に着くと、おじいちゃん警備員さんが近づいてきた。
ジョーがカラオケに来る時に仲良くなったらしく連絡先も交換していた。
「最近来ないからどうしてるかなと思ってたんです。どこか悪いんですか?!」
心配そうに聞いてくれた警備員さんに、ジョーは「いや、大したことないんですよ!次は元気になってから来ますんで!」と笑って答えた。
どこにゼーハー言いながら抱えられて酸素ボンベ繋いで大したことないやつがいるんだ。
カラオケに着くと、抱えられながら入ってくるジョーに店員さんもギョッとしていた。
当たり前だ。
酸素ボンベ着けて歌うって、ねぇ。
人目なんておかまいなし、そんなとこも好きだし尊敬している。
改めて、ジョーの歌で泣かぬよう、自分が歌う時も感極まって泣かぬよう、わかってるだろうけど頼むよ、と全神経を召集して指令を出した。
一曲目は「海の声」
やはりいい声、上手だなぁ。
最初からまさかの94点を出した。酸素の管つけて、。なんだこの人。
しかし、うん、とっても楽しそうで嬉しい!
この日だけは食べ物の制限をやめた。
ジャンクフードが好きだから、食べたいというなら食べさせてあげたい、やりたい事、全部叶えたい。
たこ焼きの中はぬるいと笑っていた。
中学生みたいだった。本当に楽しそうだった。
ただ、時折見せる息の粗さを、状態を見ておかなきゃと思った。2時間が経ったのにまだ平気だとジョーは言って延長した。
でも少しすると息があがっていた。楽しい雰囲気を壊したくないと気を遣ったんだな。
帰ろう!
大丈夫とは言ったけれどみんなも心配して帰る事に。
でもほんといい夜だった。
その4日後の朝、ジョーの痛みがひどくて救急車を呼ぶとなった。
急いで行って次男と同乗していった。
その日は痛いままで、不安で仕方なかった。
ただ、次の日、まさかの痛みがなくなったと!
この日は家族みんなで色んな話をして盛り上がった。昔の話をしたり、それぞれの性格の話をしたり。なんでもない時間なんだけど、ずっと喋ってた。楽しくて帰りたくなかったくらいだったし、やはりいい家族だと思った。
次の日、いつものように面会可能時間になり病室に行くとお父さんは寝ていた。
いつもこの時間帯は結構起きてるよな。。
看護師さんに聞いてみると、そろそろ起こしましょうかと。「お父さん」と呼びかけると目を開けたお父さんの目が上を向いていた。え?どうなってるんだろう?!
お父さん、下向ける?あれ?トラちゃん、下向けないや。
え。。。
すぐにCTをとるとなり運ばれてしまった。家族に連絡してソワソワしながら一人で待った。家族が来て、お父さんも戻ってきて、でも目は上を向いたままだ。
さすがに涙がまずいと思って、急いでトイレに行った。やはり出てしまった。
はい、集合!!だめだめ!流さないよ!
と急いで泣き止ませ、深呼吸をしてトイレを出て、休憩スペースで落ち着いたフリをして座っていると次男に呼ばれた。お父さんが呼んでると。
すぐに病室へ入り、手を握って、どうした?とお父さんに声をかけると呂律のまわってない状態で、
「ごめんね、びっくりさせちゃったね。」
この期に及んで私を気遣う。。
一番辛いのはお父さんなのに。
その、話し方と、優しいトーンに、堪えきれなくてついに泣いてしまった。
くっ、、大丈夫だよ。
と言いながら涙が止まらなかった。見えてなくて良かった。でも握った手の感じで泣いたのわかっちゃっただろうな。
先生も来て、話を聞くと、トルソー症候群というらしい。もうここから戻ることはないと、良くなることはないと。。
お医者さんのせいなんじゃないの?なんて思ってもしまって次男に言ったけど、それは違うよと言われ、違うと言って欲しかったから少し安心して、でも悔しくて。そうか、一気に近づいてしまったんだな。なるほどね、ふぅ。その日はどうしても離れたくなくて病院に頼んで次男と泊まらせてもらった。
呂律のまわらないお父さんと当たり障りのないような話をしていると、「質問して」とジェスチャーをしながら言って来た。今思えば、お父さんはここからもう話せなくなっていくことがわかっていたのだろう。次男と色んなことを質問した。一番印象に残っているのは、「生まれ変わったら何になりたい?」という次男の質問に即答で「不動産屋」と答えたこと。「なんで?」とすぐに私が言うと、また即答で
「稼げるから」
と言った。次男と顔を見合わせ思わず笑った。
その後は、お父さんはやっぱり歌が好きだよねなんて話をして、好きな曲を質問すると、お父さんが歌詞ではなく、うーと歌って、3人で一緒に歌ったり、お父さんの歌った曲を当てたりした。あ!わかった!Rusty Nailだ!
でも、楽しいより切なさが明らかに勝っていて、泣きそうになるのを堪えながら一つ一つの言葉と時間を大切にした。
次の日からは親戚や友人、仕事仲間がかけつけてくれた。何人も泣いていた。普段泣かない青山さんが、あいつじゃない。と泣いていた。小さいころから一緒にいたけど泣いてるとこ初めて見た。
親戚の草野さんといずみちゃんも泣いていた。のちに知るけれど、草野さんもこの時既にがんを患って何年も経っていたという。草野さんも昨年亡くなった。
いずみちゃんは写真を撮る時に「はい、バター」と言うお茶目なおばちゃんで今も元気だけれど、やはり寂しそうだ。
いとこのよしくんの時だけはお父さんが泣いていた。お父さんの涙を見たのはおじいちゃんの葬儀以来だ。よしくんにはもう家族が居ない。
だからお父さんは、大好きなよしくんをとっても大切に思っていたし、お父さん死んだらよしくん1人になっちゃうからと常々言っていた。
お父さんは泣きながら「大丈夫だよ」とよしくんに何回も言った。よしくんはお父さんを抱きしめた。よしくんも少し泣いて、よしくんのそんな姿も初めて見た。
よしくんとお父さんはファミレス朝までコース常連の、いとこであり大親友なのだ。私は今でもよしくんとたまに話すんだけど、よしくんはいつも強い。俺さ、タカちゃん(お父さん)居なくなっちゃったからさ、宅建取ろうと思って勉強したんだよ、そしたらさ、あれ難しいね!!俺これだめだと思って4ページでやめちゃったよハッハー!!
お父さんの小さな遺骨を紙に包んであげて、部屋でしばらく話して帰る前に、
あ、よしくん!骨なくさないでね~
と言うと、あれ?どこやったっけ。と探すと、いつの間にかゴミ箱に入れていた。やべっ!ティッシュって普段とっとかないじゃない?流れで捨てちゃったんだなハッハー!!!
いつだって底抜けに明るい。
仕事で仲良くなったという20代の太郎くんが来た時は、もう見えてないのに、今どういうの(売買)やってるの?平米数は?とか、ペン貸してと言って太郎くんのノートに書いてた。勿論何が書いてあるか後から見てもわからないような状態。太郎くんは顔を向こうに向けて泣きながら、はい、はい。と言っていた。太郎くんはお墓にも行ってくれた。
強面の田中さんもお墓に行ってくれた。田中さんはお父さんと一緒に作ったお揃いのスーツで葬儀に参列してくれた。田中さんは今でもお兄ちゃんに色々仕事を教えてくれている。
昔からお父さんに聞いていた仲良しの青木さんと荒川さんは、今でもたまに連絡をとる。お父さんのお見舞いに来て下さった時に数回お会いしたくらいなのだけど何だか仲良くなった。でも、2人はエリートだし、売買の規模も桁外れだし、私が提供できるような仕事は1つもないし、お父さんも亡くなってしまったから関わりがなくなってしまうと思っていた。
でも違った。
2人とも優しくて、青木さんはトルソー症候群になった次の日は地方に居たのに新幹線で飛んできてくれた。荒川さんは普段はクールでおとなしい方なのに、亡くなって電話をしたら電話口で泣き、葬儀でも泣いて下さり。
今でも、お父さんにしてきてもらったことを少しでも返せたら、と。そして辛いことがあったら連絡してきて下さい。と言ってくれる。青木さんも、トラちゃんが不動産やめてもまたこうして半年にいっぺんとかでもいいからご飯食べようよ!と言ってくれた。
他にもいろんな人が今も繋がっていてくれて、お父さんは居なくなってしまったけれど、お父さんが残していってくれた、人という財産に今も私は助けられてる。がっかりさせないようにと、きばってきたけれど、青木さんと荒川さんはそんなのいいんだよと言ってくれて、そういうわけにはいかないとは思いつつ、少し肩の荷がおりた。
そんな風にみんなが来てくれた。
この日は母と長男が病院に泊まった。
話を聞くと、また旅行に行きたい、グアムとかホテル三日月とかって言ってたという。
行きたかったね。
その次の日からは12時~20時、20時~12時と家族でシフトを組んでジョーを1人にしないようにした。
しかし、ジョーは日に日に喋れなくなっていった。どんどん呂律が回らなくなっていった為、聞き取りたくても聞き取れなかったりして。
そうなると、手であっちいけのような動きをして「話にならない」と言う。
それだけは悲しいけれど聞こえるのだ。
この時ほど読唇術を身につけたいと思った事はないくらい話をしたかった。言いたい事を聞きたかったし、理解してあげたかった。
次第に起きている時間も短くなり、起きている間もお父さんであってお父さんでないような時もあった。
ずっと寝ているとたんが絡んできて呼吸が苦しそうになり、ナースコールを押して取ってもらうのだけど、これがまた苦しそうで可哀想だった。
バタバタ動いてしまうので手を握って止めるんだけど、爪を立ててしまうのだ。
しかし滑稽だったのは、兄妹それぞれ対応が違ったこと。
長男は、物理的に動かしにくいようグッと両手を押さえ、次男は爪を立てられ続けた。笑
私はというと、爪を立てたら顔ごと手につけてほっぺを手の甲にあてながら「お父さん大丈夫だよ」と言うと爪を立てるのをやめてくれた。
起きてるお父さんと会えるのはあまりなくなった。
だから一方的に話しかけたり好きな曲を耳元で流したりした。口を常にあけて乾燥してたらリップを塗るようにした。
そして、トルソー症候群になってから2週間ちょっと経った。
この日は私が昼から夜の当番だった。夜からのお母さんと交代をして、いつものようにお父さんに声をかける。勿論返答はない。ただ、何だか違うなと感じた。血中酸素と血圧の数値を見るとなんか不安定だ。身体を触ってみると冷たかった。急いでボディクリームでマッサージをしたりハァっと息で温めたりしたけれど冷たい。看護師さんを呼ぶと焦って先生を呼びに行った。やはり数値が行ったり来たり不安定なのだ。
ご家族にご連絡をお願いします。
と言われ連絡した。家からだとどんなに急いでも1時間足らずはかかってしまう。長男に至っては地方からだから夜になってしまう。しかもバスも使わなければならないから時間も読めない。
1人不安なまま病室に居ると看護師さん達が順番に入ってきて、お父さんにお別れの言葉というか「ありがとうね」などと伝えていく。待ってよ、もう今日なの、、。。トルソー症候群の時と、もう一度危ない時もあったんだけど、なぜこういう時に居るのはいつも私なんだ、、と思った。何か意味があるのか?一番乗りにさせてくれたのか?嬉しいは嬉しいけど不安だった。
安定したと思ったらまた不安定になってを繰り返し、やがて母と次男が到着した。そこからはもうひたすら声をかけた。昔からの話を沢山耳元に。あの時さ、御宿でさ、常磐ハワイアンセンターでさ、グアムでさ。時間の流れもよくわからなかったし、覚えていない。ともかく、長男が来るまで話しかけて、手を握ったり、音楽をかけたり。数値があぶなくなってくると、もうすぐ○○くん(長男)来るよー!とか声をかけると安定した。
それを繰り返し、なんとか22時過ぎに長男が到着した。
長男は入ってくるなり、お父さんの手を握り、「お父さん、家族5人全員揃ったからもう大丈夫だよ!」と言った。長男は信じていたという。お母さんも言っていた。
でも確かにそうだ。
お父さんは家族愛に溢れていたからこそ長男が来るまでは戦い続けてくれたんだ。1人だけ残念な思いはさせまいと。最期までかっこいいんだから。
私は懲りずにまた話しかけた。だってそうするとお父さんはまた数値をあげてくれる。でもみんなが言った。「トラちゃん、そろそろ、ね」と。嫌だったけれど、仕方ないよね、そうだよな、と思ったら、わかりやすく数値が下がっていき、息を引き取った。
やっぱり優しいや。私が話しかけてる間は、意地でもと頑張ってくれてたんだ。さては、私のこと大好きだな?まだあったかいね。
前にメールで言ってた。
「まずはトラちゃんの34歳の誕生日が身近な目標かな」「任せとけ、約束は守る男だ」と。
初めてお父さんは約束を破ったけれど、守ろうと全力を尽くしてくれたから破ってない。
でも一緒に迎えたかったよ。
お父さんの目に、恐らく涙なのだろう。
少しだけ水分が左目の目頭に。
あれ?気のせいかな?と思ったけれど、全身をきれいにしてもらった後にも白く残っていた。
悔いのない死に方なんてない。
きっと悔しかったろうと思った。
でも涙の理由なんて人それぞれだし、本人以外にはわからなくて、周りの人が思うのはただの憶測で理想で。
だから私は理想で言えば、みんなありがとうと言う涙かなと思いたいけれど、
憶測は、まだまだ不動産をやりたかったんじゃないか、やりたい事があったんじゃないかと思う。
もう少し生きてて欲しかった。あれを一緒にしたかった、これを一緒に見たかった、痛みをなくしてあげたかった。一番はちゃんと大好きと伝えたかったけれど出来なかった。
だからジョーが亡くなってからの私は、恥ずかしくとも大好きな人にはちゃんと大好きと伝えるようにしている。大好きと言い過ぎて軽く思われるかもしれないけれど、ほんとに大好きだから色んな大好きな人に大好きだと伝えるようにしている。恥ずかしいけどね。
私はジョーが負けた姿を今までで一度も見た事がない。強いからだ。
だから初めての敗北に立ち会ったかもしれない。
でも、厳密に言うと敗北じゃないと思う。
だってタップはしなかった。
私がもう少し生きててと頼んだらきっと生きていた。
戦う気持ちを持ったまま、みんなを思って引き際を決めただけだ。
ジョーは言っていた。
肉体がなくなっても魂はずっと繋がってるから、だから怖くない。と。
私は都市伝説や占い、スピリチュアルを信じてる訳ではない。ただ否定もしない。
サンタさんが存在するか否か、実際どうなのかワクワクと、ほんとに〜?が混在しつつ、そうだったらいいのにな、もしかしたら居るかも、居たら素敵だなと今でも思っている。
でもそれは残念ながら確実ではない。
ただ、ジョーの言葉は確実だから信じてる。
だからきっと、ずっと繋がっていて、いつくるかわからない私のこの世からの旅立ちで、もし天国に行ければ天国でなのか、はたまた来世なのか、必ず会えると信じ、私から会いに行こうと思っている。
もし中々会えなくても必ず見つけ出してその手を掴んで今度こそ、自分の口で大好きだと伝える事が現世の人生最後の日の目標だ。
お父さんの遺体はお通夜までの4日くらい自宅に居た。
毎晩、次男のお兄ちゃんと川の字で寝た。
私はお父さんの隣。
左隣で寝ていたお父さんはドライアイスに囲まれてとっても冷たくて、遺体をキレイにしておくためにも熱はタブーとは知りながら、少しでも触っていたくて、毎晩かっこいいスーツの右肘をつかんで寝た。
夢には会いにきてくれなかった。
でもいいんだ。ずっと隣にいるだけで超クールな最高の連日連夜だった。
お通夜の前日、つまり隣で寝れる最期の日、私は性懲りもなくスーツの右肘をつかんで寝た。いつもより気持ち強めに握って寝た。
明け方、ブワッと手が温かくなって、目をバッと開けたら、反対側に寝返りをうったとしても届かない次男の左肘を掴んでいた。
私は霊感も霊体験もない。
でもこの時ばかりは、きっとお父さんがやったんだと思った。
長男に話したら、
「一緒に連れていかれないように、こっち側に来ちゃだめだって言ったんじゃないか?」と言われた。
霊体験をした事がないから本当にびっくりしたけれど、怖がりの私の初めての霊体験がお父さんなんて、きっとお父さんが神様だか閻魔様にたんかを切って許可を取ったんだと思う。
とてつもなく嬉しかったけれど、お父さんがあの世に行く覚悟を決めたようにも感じて心がキュっとなった。
旅立ったあとも節目節目に、たまに不思議とアピールしてくれる時がある。お花が一輪だけカサッと動いたり、私が落ち込んでる日は、少し強めにあおいでも、ろうそくの火が中々消えなかったり。私の錯覚かもしれない。でもうちのお父さんてほんとにすごくて、みんなが出来ないことやっちゃうんだ。だからそういう時は会いにきたんだと思ってる。ファザコンみたいだけど私ファミコン、家族が好きだ。
でもやっぱりお父さんは特別だ。
お葬式のプロデュースは気合いを入れた。
近年は、霊柩車もおとなしいデザインを好む方が多いと説明があったけれど、お父さんの通る道はどんな道も花道だから、やっぱり最期はビシッとキメて行かなきゃでしょ。
宮型一番きらびやか一択で!
棺?
これは地味だなぁ、ありきたりだなぁ、なんか足りないなぁ、、、
あっ!!!
ちょっと待ってこれお父さん用じゃないか!
かっこよすぎるよ葬儀屋さん!
この白に鳳凰で!!
お骨入れはですね、ノーマル、少しだけデザインのあるもの、きれいな色、渋い色やこういった、、
○○さん!これは?!
こちらは高貴な感じでどちらかというと女性に人気でして、
チッチッチッ!葬儀屋さんっ!
女性?!お父さんは顔はヤクザめだけど、とても繊細で、美しいものがよく似合うし好きなんだよ!
凛としつつも儚さを感じる濃紫?江戸紫にきれいな色のお花が入った。
これでお願いします!
写真ですか?
これはダメですか?
サングラス!(みんな苦笑い)
サブでお焼香のところに置いたりは出来ますよ。
イカすやんけ葬儀屋さん!!
続いて葬儀場のお花のデザイン。
これは地味だな、これは可愛すぎる、
!!
これだ!
川のように流れて見えるデザイン、お父さんの大好きな紫、これで!
会葬返礼品!
これじゃ寂しい、これはパッとしない、
これだ!高級だし品もある!そして絶対美味しい!これでいきましょう!
って、何から何までこんだけ豪勢にしたけど、結局お父さん払い。笑
でもお父さんはケチケチするのを嫌うし、かっこいいのが好きだし、多分来てくれたみんなにお父さんがありがとうを形で伝えられるのはこれが最期だからとびきりの葬儀にしようと思った。
まぁお父さんが選んだわけじゃないけど、本人公認の一番そっくりさんが選んだからほぼお父さんチョイスということにしておきましょう。
泣かないと決めたもんだからお通夜では気丈に振る舞った。
むしろ色んな人に話しかけたりして。
明日は告別式、本当はまたジョーの近くで寝たかったけれど、泊まることが出来ない葬儀場だったので葬儀屋さんに、明日朝早くから来たいのですがと許可を取り、当日1人で朝イチのお父さんに会いに行った。
だって見かけによらずさみしがりだからさ。
それに私も少しでも一緒に居たかったんだ。
行ってからは話しかけたり、音楽を耳元で流したり、少し歌ったり。
特別で格別ですごく大切で終わらないで欲しい2人の時間だった。
葬儀屋さんが、ふら~っと来て話しかけてくれて、その時に
「音楽とかも流す方も居たりするんですよぉ」
と言ったので、それ今日出来ますか?!
と言うと
「えっと~、スピーカー取りに行かないとだなぁ~」とめんどくさそうだったけど、用意してくれることになった。笑
いつもの私なら、あ、嫌そうかな?やめとこ!ってなってたけど、もう最期だし、めんどくさがられても嫌われてもジョーの晴れ舞台だから私もわがままになった。
やがて家族や親戚が到着し、私服で行ってた為、着替えたり準備し始めた。
いざ告別式が始まり、今日も泣かないぞと気丈に振る舞おうとした。
長男の弔辞もとても泣けたが、そこはどっこいせ、少しだけの涙で耐えてみせた。
献花の時も、遠慮してたお父さんのお友達たちを連れていって、音楽も流して、まるで葬儀屋さんだった。
そうやってごまかしたんだ。
真正面から受け止めるには難しかったし、お父さんはみんなの人気者で、どんな人とでも仲良くなっちゃうから、そんなお父さんを想ってくれてるみんなに少しでも最期に顔を見せてあげて欲しかったんだ。
もしかしたら、いやお前家族が棺から離れんのおかしいだろ、ってバグってる愛情なしの娘に見えてたかもしれない。
でもいいのだ。
私は沢山お父さんを独り占めする時間をもらったからみんな占めの時間をお父さんにプレゼントしたかった。
しかしながらお父さんのお友達たちにはお見通しだったようで、結局棺の前まで押されて押されていざ顔を見たらやっぱり泣いてしまった。
でもすぐ泣きやめることが出来た。
うん上出来上出来。
いよいよ出棺。
霊柩車には、喪主をつとめた長男とあと一人乗れるとなったので私が乗らせてもらった。
火葬場に行かないみんなに窓をあけて大きな声で挨拶をして、○○さんまたねー!なんて言っちゃって。
あそこの娘さん、霊柩車でハイテンションって狂ってるわねって思われたかもしれないね。
でもいいのだ、いい。
火葬場に到着。
火葬場に着くと意外と早いんだよね。
あっという間に、
最期のお別れです。
と言われた。
最期なんて言わないでよって思ったけど事実だから仕方がない。
色んな人が一通り顔をのぞいて声をかけて、その後に最期にもう少しいいですよ、と言われ、最後は家族で囲んでお父さんに触れたり言葉をかけた。
お父さんのほっぺを、触ったのはいつぶりだろう。
私は最期に何を言おうか考えてなかった。ただ、自然と出たのは
「大丈夫だよ、恐くないからね」だった。
棺が閉じられた。
ガラガラと入っていく。
あ、、、
もう触れられない、顔も見れない。
肉体がなくなっちゃう。
かっこいいスーツ姿はもう見れないの?
中止に出来ない?
やっぱもう少しだけ一緒に居させてくれないかな。もう一回触りたいんだけど。
ちょっとタンマ!お願い行かないで!
ガラガラと奥へ入っていくお父さんを見ながらもう一生触れられなくなるのだと思った途端、お通夜や告別式で我慢できていたのが嘘かのように、今までずっと溜まって堪えていた涙が溢れて、うぅぅと声を出しながら、結局誰よりも泣いてしまった。
ただ、骨になった後、不思議な事があった。
まさかの耳の形がきれいに残ってるという。
もしかしたら!耳元で音楽沢山流したり話しかけたり歌ったからとかあるかな?
思い込みでもいい。でもお父さんならやりそうだ。
しかし今でも火葬場の情景だけは思い出すと一発アウトで、一人の時にしか思い出せない。
一番の私の理解者であり、一番尊敬する人であり、一番愛と優しさを教えてくれた人であり、心からこれでもかってくらい大切で大好きな人。そんな存在が身体がなくなってしまうというのは、こんなにもなんだ。悲しい苦しい辛い淋しい切ないが全部詰まった、もう叫びだしたくなるような、涙が止まる気がしないような。
今でも、お父さんを思い出すと数秒で泣ける。
翌日目を腫らしてはいけない日は絶対考えないようにする。
普段も出来るだけ、真正面から向き合うのをやめている。
むしろ真正面から向き合った事はないかもしれない。
真正面は正直まだきついのだ。
もう3年以上経ったのに情けない程にぐぅ〜っとなるのだ。
1人の時間が長いとわかっている時は子供のように泣く。タオルで覆って、おとうさんと声に出す事もある。
でもやっぱりそれほど大好きなんだ。
いい死に方なんて、納得してなに一つ思い残すことがない死に方なんてない。
でも、それでも、こんなに最後を存分に3ヶ月ほぼ毎日一緒に過ごせたのは幸せだったと思う。勿論、欲を言えばもっと一緒に過ごしたかったけど。
でも、お父さんが亡くなって程なくしてコロナが日本に。そう考えると、やっぱり幸せだったんだと思う。寂しがりだったお父さんと、少しでも一緒に過ごしたかった私には。
だから、もっとと望むのは贅沢で、十分幸せなお別れの時間をもらえたのだ。
それは、お父さんが今までの人生を頑張り抜いて、人に優しく、情に厚く、困った人を絶対に見捨てない、そんな人徳があったからこそご褒美をもらえたんだと思う。
いつ思い出しても思う、お父さんの子供で生まれてきて本当に良かったと。幸せだったと。
だからこそ、もっとお父さんからまだまだ学びたかったし、一緒に笑いたかったし、もっとこれからは私が幸せにしたかった。
自分に生まれ変わりたいとは思わないけれど、またお父さんの子供に生まれたい。
自分が人からどう見られているのかというのは当たり前ながらわからないだけれど、昔から仲良い人には、きまって
「愛情いっぱいに育てられたのがわかる」と言われる。
え、そんなの何が出てわかるの?あなた美輪?
でも、複数から言われるからそうなんだなと。
そしてそれはあながち間違いではなく、むしろ大正解だ。
私は生まれた頃から、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、お兄ちゃん2人、家族から沢山の愛情を受けて育った。
特にお父さんには元気玉にも勝るレベルの特大の愛を。
お父さんの愛はどんな強いものより強かった。
私の双極性障害は、全力を注ぎ過ぎると反動でひどくなる傾向にあったので、この3ヶ月間、お父さんに対してノンストップでひたすら全力だったから亡くなったらどうなってしまうのだろう、まあどうにでもなれ、なんてと思っていたのだけれど、いざ亡くなったら、反動はこなかった。
それどころか死にたいと思うことがなくなった。お父さんが私の死にたいを死と共に持っていってくれた。
今もとびたくなる事はあるけど、笑、
お父さんに会いたいと一人で嘆く夜もあるけれど、死にたいとは思わない。
でも、いざ今亡くなって3年経っても、未だに見れない物もある。
逆に亡くなったばかりの頃は見れたのに、今の方が見れなくって、昔の写真を見ようとする時は2019年の下半期はスクロールをシュッと少し勢いよくする。
でもどうしても会いたい時は、チラッと見て、そんで泣くんだ。
もう泣かないぞって思ってもやっぱり出ちゃうんだけど。
でも出たっていいよね。
あーあ、会いたいなぁ。
君に会いたい。
会えたら何を話そう。
まず、君が旅立ってからの話を順番にしたい。それでうんと褒めてもらいたい。
私の3年、ほんとに、ほんとうにすごかったんだよ。情けないんだけどさ、実はすごくきつかったんだ。でも頑張ったよ。って。
自分でも褒めてやりたいんだけど、君に褒められた方が5億倍は嬉しいからお願いしたいな。
君はなんて言うかな?
まじで?!すげぇなぁ!頑張ったな!根性あるな!って褒めてくれるかな?
やっぱトラちゃんは俺に似ちゃったよなぁ!って参ったなぁって嬉しそうに笑うかな?
俺なんてこんな事あったんだぜぇ〜って張り合うかな?
どれも想像出来るな。
答え合わせはきっとまだまだ先だね。
お父さんが居なくなってからこの3年、私はお父さんの代わりになろうと必死で走ってきた。
会社を守ろう、家族を守ろう、どんなに大変でも色んな人を助けよう、弱い立場に立とう、強いものに立ち向かおう。
でもやっぱりお父さんじゃないから出来ないことが沢山あって、悔しいけれど、お父さんにはなれないんだってわかった。
今でも、お父さんならどうするかな?って思うことが沢山あって、それを辿ろうとする時もあってそれもいいよね。って思ってるけれど、お父さんだから出来るということもしっかり受け止めて、最近は私なりに出来ることや、私だから出来ることをやってる。
ネガティブな私だけれど、関わる人への愛情はお父さんにも負けず劣らずだぞって思ってるから、なんか変だけど、ここは負けないぞってライバル視したり、ここは一緒だねって友達みたいな気持ちになったりする。
でも結局一番は、やっぱり偉大だなぁ、すごいなぁ、かっこいいなぁ。って思う。
お父さんならあの人を救えたのにってなると悔しくなるし悲しくなる。
でもお父さんには敵わなくたっていい、だってまだ私はお父さんの年齢に追いついてないから。だからこれからもっと経験を積んで強くなって同い年になったら追い抜いちゃおうと思う。待ってろよー!
私は私の出来るやり方で救える人を力の限り!
はぁ~、でも結局やっぱり会いたいなぁ。
ずっと会いたいんだから。
伝わってるかな?伝わってるんだろうな。
伝わってほしいけどなんか恥ずかしいから、会った時には伝わってない体で接してもらえたらありがたいよ。
キリがないなぁ。
これを公に見せる私はどうだろう。
何がしたくてこれを書いてるのかな?
自分でもよくわからないんだけど、単純に書いて、見て欲しいんだね。
お父さんのさ、知らないとこで私はいつもお父さんの話ばっかしてんの。
君は面白すぎるから話したくなっちゃうんだよ。
そんでかっこよすぎるから知ってもらいたくなっちゃうんだよ。
会いたいなぁ〜。
情けないけど、書いてても泣いちゃって、この3年の私の涙で荒川をナイル川規模に出来てたんじゃないかな。
しかし私はお父さんの親友と次男に聞いたぞ。
お父さんの誕生日に私があげた手紙を読んでないた事を。
次男の前で手紙を読んでたら、急に
あ!だめだこれ今読んだら
と泣きそうになってたと言う。
お父さんの親友は言った。
ボクは彼の涙を2回見たことがあると。
その1つがこの手紙の事を話した時だと。
もう1つは、、なんだったかな?笑
嬉し過ぎて忘れちゃった。
いやぁ、ここまで読んでしまった人居ますか?
居ませんよね。
もしここまで読んでくれた方が居たら、ただの親子の最期の3ヶ月と、私のエゴだらけの文章を読んでくれてありがとうございました!
読まれなくていいと思われつつ、読まれたら嬉しくてたまらないんですね、あまのじゃく。笑
しかしやはり、お父さんの事を知って欲しかったし、死にゆく父と娘のリアルな最期をただ綴ってみたかったのです。
3年と3ヶ月かかっちゃいました。
最後はやはり、お父さんに。
あの世とこの世の中で一番大好きだよ。
また逢う日まで。
尾崎紀世彦でした。
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