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絶対の解がないことに判断を下し行動すること。

それが人生です。結論からになってしまいましたが…

世の中は新しい流れと古い流れのぶつかり合う局面の中で前人未踏の状況が世界中を覆っています。私たちが何十年か後で今を振り返った時に、おそらく明治維新や二度の世界大戦に匹敵する、いやそれ以上の激変を生きているといっても過言ではないと思うでしょう。大変革の時代を私たちは生きています。

ただただ日々の労働に追われるばかりで大変革があろうがなかろうが今、目の前の仕事を、暮らしを、こなすだけで精一杯の状況に今を見てる人も多いことでしょう。日々の生活にも前人未踏の影が覆います。新型コロナの問題、異常気象、経済破綻、アホじゃ済まされない腐った政治家の政治的判断。誰に忖度にしているのか?なぜに忖度するのか?マスゴミも行政も大手企業、中小の企業もタコが自分の足を切って食べているような様相を呈しています。食べる足もなくなれば自分自身を食べるしか他にありません。

目の前でおこっていることに色々な人が色々なことを言います。新型コロナの問題に関してもそうで、[アビガンが特効薬でアビガンさえ飲めば新型コロナはただの風邪][特効薬がなく、ワクチンの開発を急ピッチで進める必要がある][新型コロナ第2波が今年の冬に到来して、人類は再度色々な形で大打撃を食らう][BCG予防接種を受けている人は新型コロナに罹患しない、罹患しても重症化しない][新型コロナ・ウイルスはアメリカで特許まで取られている人工的に作られたウイルスでこの一連の騒ぎはバイオ・テロである。]等々…

私自身、このコロナの問題に関して言えばどれが正解なのか?皆さんにエビデンスを持ってお伝えすることはできません。事実を捉えることができなければ正解になど辿り着けるわけもない。コロナ問題だけに関わらずこういった形でなかなか真実に触れ合うこともなく、ただただ日々の生活に追われるわけです。これが実際のところでしょう。

農業や漁業、林業などの自然と向き合う仕事をしている方なら【事実を捉え、慮り、適宜現実と向き合う】ということが仕事の最低条件のスタンスでこの事ができなければ、木は育たず、作物は取れず、魚を捕まえる事などできません。そして仕事というものはそういうものであって、【事実を捉え、慮り、適宜現実と向き合う】ことをしなくてもやっていけるものなら、本当の仕事ではありません。みなさんは仕事をしていますか?

海や大地と向き合って仕事をしろ!とか日々の生活に追われんな!とか己の力で真実を照らせ!とか言ってるわけでありません。海や大地と向き合って仕事はしていなくても、日々の生活に追われていても、己の力で真実を照らせないにしても、自死を選択しない限り生きていかなければいけません。生きること。それは、絶対の解がないことに判断を下し行動すること。と私は考えます。まだ見ぬ物語をひとりひとりが編んでいます。見事、解に辿りつけた人、自分自身で解が出せない人、判断をあやまった人、行動する前に命を落とす人etc...あなた自身の物語をどんなふうに編んでいきますか?(以下引用文)

『経験的に言って、「どうふるまっていいかわからないとき」にでも適切にふるまうことができる人間がいます。彼らはその段階では未知であることについて、先駆的に知っている。どうして、そういうことができるのかわからないけれど、時間を少しだけ「フライング」して、未来を一瞥してきている(ように見える)。

そして「邪悪なもの」との遭遇というのは、「どうしていいかわからないけれど、とにかくえらいことになっている」ということで定義されるわけですから、「邪悪なもの」を鎮めるためには、この状況から脱出する方位について逡巡することなく、「こっち」とはっきり指示できるような知がどうしても必要です。

その問題を解決する手だてが示されていないときに、過たずその手だてを選ぶことができるような知、私はそれを「先駆的な知」と呼んでいます。喩えて言えば、「清水の舞台から飛び降りる」というような切羽詰まった状況において、下を見ずに「えいや」と欄干を超えてもちゃんとセーフティネットが張ってあるところに飛び降りることができるような直感の働きのことです。

「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが「どうしていいかわからないときに、正しい判断をした」主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。

私自身のみつけた答えは「ディセンシー」(礼儀正しさ)と、「身体感度の高さ」と、「オ-プンマインド」ということでした。(内田樹著「邪悪なものの鎮め方」まえがきより引用)

どうか生き延びてほしい








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