Beast-Journey

2019年2月ごろ(かもしれない)に書いたスケッチです。


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 ジョニーは砂を這っていた。
 かれはポートランドの出身で、出生地の最寄り駅が火を噴く真っ赤な怪獣になってからも、しばらく、そこから十キロメートル先にある実家のまわりを勇敢そうに歩き回っていた。「海があるからね」というのがジョニーの言うところ。「どんな炎だってこの水は焼き尽くせないさ。困ったら入ればいいんだよ」
 だけれど今や海は三キロメートルあまりも干上がり、ジョニーの足では家から海までいくまでに怪獣に潰されかねなかった。
 かれの足というのは、大根のようなのだ。生まれつきだった。腿は太くて、すねを越えるとぐんと細くなる。そして錐みたいに消えちまう。まわりには剛毛。これは十六になってからぐんぐん生えてきたものだ。
 ジョニーはふだん、車いすか、隣の家に住む親切で酒癖悪い技師がつくってくれたジャンピング義足かのどちらかを使っていた。でもどちらも動きがのろい。
 ってもんで、もしかしたらこうしてみると速いんじゃないかと、砂の道にうつぶせになり、手が痛くなるのもいとわず、子どものころにおぼえたハイハイを試してみたのだったっけ。
 だが這えど這えど手は痛く、子どものころに感じたようなすごい速さは出なかった。
 ジョニーはため息をついた。
 仕方ない。ママンに相談、いいやり方を教えてもらおう。ゼペットおじさんの車を失敬する覚悟もしよう。
 そうだなママンは怒るだろう。どうして今まで逃げられるって顔をしていたの、都合が悪いことを話すのが家族でしょジョニー、って。
 それでもジョニーはハイハイを始めた場所に這いもどり、義足をつけて、ママンに話を通すことにした。鈍(のろ)いながらにはやく届こうと踊り歩きで家の前の畑に乗り込めば、小さな影が車いすに飛びかかるところが見えた。
 技師の家と反対側の家でいつもわめいている五歳直前だった坊やはそのとき「これ誕生日プレゼント!」って言っていた。宙で半回転してジョニーの車いすに収まった。そのときママンは家の中で窓からふたりのことを見ていた。でもジョニーには義足があるはずだったから、ママンのほうはそこまで心配しなかった。坊やが乗っても。
 ジョニーは違う。いすは自分の半分だ。
 穏やかそうだと言われる顔をゆがめてがなる。
「おい坊や!」
「にいちゃん! その足もちょうだいよ!」
 子どもは車いすをぐいぐい手で回して遠ざかる。ジョニーはまだらに日焼けした手首を振るが、子どもは一瞥しただけで、ゲラゲラ笑っていすの上で腹を折るのだった。
「あんたにも甲斐性ってのがあったらね」
 ママンは窓から言った。ママンはハンの血を引いている。
 ママンの母親は、ハンにその年生まれた五十番目の娘だった。踊りたがって俗世に出たが、とちゅうで踊り子のまわりの関係がいやになってハンに戻った。でも戻る前にママンを産み落としたんだ。ママンの父親はスリランカとジャマイカとオーストリアのブレンドだった。ママンはほんとうにブレンドだった。保護施設に預けられて、ハンのハーフとして受けられる丁寧な待遇のなかで育ったものだ。
 子どものときから自分と他のやつの違いを考えた。それで絵を描き始めたのがママンだ。だからといってうまかったわけじゃない。施設の大人は褒めたけれど自分では納得いかなかった。アイスが食べたくて抜け出してみた路地の絵描きたちにも、ママンがみせた小さなスケッチブックは、「ここが雑になってる」「もっと目を磨きな」とほほえまれた。ママンが連れ戻される段になって、ハンの紋章をつけてやってきた二十三人の使節たちへと、「いやあ将来有望ですな」とひきつった顔の皮膚をしたものらからスケッチブックが渡された。ママンはそのとき少しの間、ひきつった皮膚の彼らが、絵描きから泥棒したのかと思った。渡したものたちがさっきまでとまったく同じ絵描きだとは、ママンは認識しなかった。雰囲気が全然違うんだもの。
 ママンは施設に戻ると絵の腕を褒められた。
 ママンはその晩布団の中で仰向けになり、外に出ることにした。七年後だ、と決めた。そのときのママンは九歳。十六になったらいくらか仕事だってできるはずだ。
 ママンは実行した。七年と三ヶ月後。留学すると伝えて行方をくらました。
 そこから三十年、ママンは生きてきた。
 ジョニーのことは木の股ぐらから取り上げた。ママンは自分が妊娠するかわりにほかのものを妊娠させることができた。そうと知ったのは二十歳を過ぎてからで、ママンのかわいがっていたネコやカエルがしょっちゅう腹を膨らませるからだった。
 ママンが分からなかったのは、人間相手でどうかってこと。子どものときに触れたほかの子どもたちが妊娠したとは聞いていない。でも、母のことを思い出して、ママンは慄然とした。だってもしママンの母親が父親といっしょになったからママンを孕んだんじゃなくて、ママンがママンの母親に入りこんだせいで、ママンを孕ませたんだとしたら? ――。
 ママンは恐がったが、それでほかの人間たちとの交際を一時的にすべて絶ったが、人間以外への愛は変わらなかった。
 ママンは鹿や蝿を孕ませた。ママンは蜥蜴や鵞鳥を孕ませた。ママンは帆立貝や烏揚羽を孕ませた。
 それが植物にも働くって知ったのは、ガーベラの花弁を撫でた夏。膨らんでいく胚珠、落ちる花弁。愛の姿が崩れていく。
 ママンは悲しみながら、でもなんとなく償いなんだと思った。
 ママンは大きな木にくちづけた。それでジョニーが生まれた。
 ジョニーは木に似ている。二股の木。
 ジョニーは温厚であると知られている。ママンが「甲斐性」ってささやくのもジョニーをいつくしんでいるからだ。ジョニーには近くの子どもも寄ってくる。
 しかしこいつ、今のこの状況には問題がある。ジョニーの車いすが運ばれていってしまうってことだ。ジョニーもうなずいて、駆けだした。義足のジャンピング強度つまみをぐるとひねって、ぴょんぴょんぴょん。
 子どもはきゃっきゃと畑を過ぎる。ママンの育てる野菜はいつもきれいになっている。子どもはみとれることもなく、ぶおおおーん。
 車が大きな音を立てた。車いすではない車だった。車が突っこんできた。そのうしろに怪獣がいた。子どもはみとれた。ごお。
 炎が子どもをのみこんだ。
 車いすは消えていた。
 怪獣は苦しげな目つきで、首を振って、歩いていった。その尾っぽがジョニーの家を叩いた。
 ジョニーは一人きりになった。
 義足だけがジョニーの体を支える使えるものだった。

 ジョニーは義足を駆って海にすすんだ。怪獣は興味をなくしたのか、つぶしにかかったりしてこなかった。ジョニーは背中からへし折られようがきっと気にも留めなかったのに。でも殺されなかった。五キロぐらいだっただろうか。ジョニーは歩数を数えて海にすすんだ。蒸したみたいな魚や貝殻でいっぱいの海に出た。
 沖にぷかぷかプリンのような船とむかれたキャベツのような数艘のボートが浮かんでいる。
 突っ立った鉛筆みたいな船乗りが浜にいた。ジョニーが声をかけると、むこうから日焼けした手を伸ばしてきた。握手だった。ジョニーは眩暈がしたが片手だけ握らせた。
 船乗りに握られた手より急に足を止めたもので放り出された心臓のほうが痛かった。
 ボートをくれと注文する。
 対価? 家はつぶれちまったよ。この義足ぐらいしかないさ。おいてけって? 無茶言わないでくれ。そうだ、あんたの船に乗せてくれないか? どうせ怪獣から避難するだろ、あんたも――。
「おれは逃げちゃいけないのさ。あんなもん相手に」
「仕方ないやつだ! 陸がおぼれる直前でも気づかないんだろうな」
 ジョニーは毒づき、船乗りを義足で殴ってやろうかとちょっと思ったが、口から出てくるのは穏健な言葉。「じゃあおいとくよ、ちょっとだけな。船を戻したら、これも戻してくれよ」と義足を渡す。
 するとジョニーは地べたに落ちて、蜥蜴のようだ。
 浜の砂を這い進んで、小型のボートに移住する。
 人生初航海。
 が始まって櫂の使い方と発電機の使い方を理解――使うという観点で――したら、浜に怪獣が出むいていた。ジョニーは火の粉を浴びながらも順調に距離をとり、色ふかい地へとこぎ出でてた。さよなら船乗り。名前の知らない船乗りだったから、ポートランドの育ちじゃないんだろう。たまたまここにきて居残ったんだろうか。ああ申し訳ないことをした! 連れてきてやればよかったんだ。そうすれば義足だって――。義足は作れる。骨は作れるだろうか、心臓は。
 ママン。
 ジョニーは泣いた。

 砂漠に行けば怪獣の出生について手がかりがあるかもしれない、って聞いたのは、いつだったっけな。
 ジョニーは飯を食っていた。
 海上の飯はいけてた。やりやすくする方法を知った。船に備え付けだった青い網を投げて、かかった魚を捕ったんだ。最初は。卵がたくさんついていた。魚の皮とか網の筋とかに。すると。ジョニーは試してみたくなった。一匹小さいのを捕まえて育てよう。
 小さな桶にひさしを添えて、銀色のおとなしい魚を入れた。ジョニーは魚の好みそうな水をいれた。
 魚が大きくなっていくまでジョニーは今まで通りに食べていたが、食欲をそそるくらいの大きさになると、魚の尾ひれをつまんだ。できるか。
 ジョニーは自信を持っていた。言葉にはしない自信だ。
 果たして魚は卵を産んだ。
 こいつは雌の魚だったけれど雄の魚を入れてもそれは孕んでいた。
 今までにこんなことをしてはいない。ジョニーは結果をみてしっかり前のことを思い出した。家の畑じゃ、いつでも豊作になるママンと違って、畑作りをする春と秋のたびジョニーは町を半周もして、ゼペットおじさんから肥料の調合の仕方を教わり、それで畑で試して、わかんなくなったらおじさんのほうにまたいって、ってことを繰り返してようやく畑を作るのだ。
 ジョニーは震えた。
 ママン、ママンから、受け渡されたのか。じゃあママンは。
 死んじまったのか。
 ジョニーはつぶやく。ママン、ママン、ほんとうにもういないのか。
 仰向けになって星をみてジョニーの船は流されていく。

 陸地に着いたときジョニーはたらふく食っていたから体格はむしろよかったけれど野菜不足がいかんともしがたく、血色や体の動きは病人のようだった。
 ちょうどそばを通りがかった医者が病人だと泡を吹いて自分の診療所に連れて行き、たくさんの煮物を処方した。野菜の煮物だ。ジョニーはまた畑のことを思い出して泣き始め、
「野菜が嫌いなのか」
「好きさ」
 と答えて目を閉じて食った。
 医者は元々画家になりたかったやつで、医者になれば病人のスケッチなんかもできるからと周りに自分の折り合いの付け方を吹聴していたが、それで時々スケッチなんかもしていたが、ジョニーが食後寝てしまうとその脚に目をやって驚き、とっておきの大判のスケッチブックを取り出した。しゅっしゅっと大根の先のような先端を描いていく。剛毛を刷毛で塗る。でも覚えておくことは、医者はジョニーに出会ったときまったく脚に気をつけなかったことだ。気をつけなくても診療所に連れて行けたんだってのは見苦しいフォローだ。
 目覚めたジョニーの前でスケッチブックは慌てて閉じられ、ジョニーはぼうっとしていたもんだから医者のスケッチを大して気にしなかった。もっとも描きたいんですと言われてもいいですと答えただろう。
 ジョニーは怪獣の話をした。
 医者は首を横に振った。
 ジョニーは黙ってため息をついた。
 それからジョニーは義足屋の場所を聞き、医者に杖を借りて歩きはじめた。「戻してくれなくてもいいからな」と医者は言った。あのスケッチはうまくいった、これを出せば画家としていっぱしの名声を手に入れられるかもしれない、金だって、と医者はそのまえに独り言をいっていたのである。だからジョニーには引け目があった。ただ引け目というより気前の良さだと医者は自分の行いのもとについて感じていた。
「返すよ」
 ジョニーは屈託なさそうに答えた。
 それでジョニーは義足を作り、杖を返した。ジョニーが消えてしまうと医者はうつむいて戻ってきた杖の手で持つ部分をさすった。
 スケッチブックは一日おいてから中身を確かめ直そうと、決めた。
 いっぽうでジョニーは生きていくための、暮らしていくための格闘を始める。
 目指すところは砂漠。

 砂は人間の夢を乾かしてできている。欲望はうんこのように排泄されてどこへとも。地下か海中か。
 そこに怪獣が生まれる。
 落ち着かない風が吹き土のうえで巡りだして、暗闇の中、灰色の光の中、怪獣の影がうまれる。
 それが起源だった。砂は飛んでいく。怪獣は歩いていく。
 ジョニーの出生地の最寄り駅はその日たまたま交易人たちと孤児たちとお忍びの姫様たちを迎えていた。靴と素足と足袋の下に砂が動いていた。
 駅で叫ぶものがいた。
 砂が集まり、ひとりの駅に座り込んだ老人の呪詛を聞いて、赤くなっていった。ぶたれた赤子の悲鳴を聞いて。恋人を振って駆けていく人間の怒声を聞いて。なんてことないけれど悲しげにしなきゃいけない人間の歌声を聞いて。
 砂はふっと怪獣になる。
 それはママンにみられていた。ママンにみられた駅だった。
 ジョニーはまだそれを知らない。 
 いつ知るともわからない。

 砂漠は遠く、旅人に聞いた道を行けば山があった。山に出れば骨が踊っていた。白いものが木の向こうに踊っていて、ジョニーが茂みを踏んで歩くと、頭蓋骨や肋骨や腰骨のような親しみやすい形が見えた。
 でも動きが速く、三体あるとわかるのに時間がかかった。真ん中の骨がリーダーらしく、眼窩の回りに赤い線が描かれていた。右の骨には緑の、左の骨には黄の線があった。
「どうやって踊ってるんだ」
 三体見分けられるようになったジョニーが尋ねると、「おれたちは外骨格なのさ」と踊りつづける真ん中の骨の下から声がした。
「外骨格?」
「あんたは体の中に骨があるんだろう。おれたちゃ体の外に骨がある」と左の骨の下からの声。笑っていて、軽蔑しているみたいにも聞こえた。
「そんな細いのに、中にいるのか。操ってるのか」
「魂がくっつくのには小さな体で充分さ」と左。
 ジョニーは目をしばたたく。「つまり、おまえ、神か?」ジョニーは無学かつ神という話を知っている。
「似たようなもんだな」「まさにそうだな」「全然そうじゃないな」
 骨たちは左から順繰りにいう。混乱したジョニーを取り囲む。手を伸ばしてきたのでジョニーは気が遠くなった。へたり込んでしまうと、三組みの骨は申し訳なそうにお辞儀して、自分たちで輪を作って踊りを続けた。
 輪は白かった、輪は回った、回れば赤く、緑く、黄く、く、く、くく、くくく、く、て、ろ、そ、ひ、ん、し、く。
 ジョニーは気づくと麓にあった。
「そいつは『勝利』と『陶酔』と『熱望』さ」ジョニーから話を聞いたおじおばさんが言った。ジョニーは東屋の中にいた。おじおばさんは体の右側がおじさんみたいで左側がおばさんみたいだった。そのおじおばさんにおぶわれて、麓の地べたから東屋に運ばれたのだ。
「かれらは強いほう、日の当たるほう、あんたは日陰の紙みたいに薄っぺらい気持ちでいった。でもよかったね。逆の三つじゃなくて」
「逆があるのか」
「そりゃ。『敗北』と『孤独』と『退屈』さ。この三つはとても美しい肉をしているよ。二つの三つが合わさると一つの子どもができるんだ」
「ハン?」
「いやいや。あたしらみたいな子どもだね。ああ、でもね。まんなかに空気が必要なんだ」
「怪獣は?」ジョニーは半分飽きていた。
「怪獣はね、あっちだよ。山をまた二つ越えたところ。でもおすすめしないさ。だってあの三つと鉢合わせするんだから! あんた、やられちまうよ」
「どうすりゃいい?」
「さっきの三つを呼ぶのさ。交わっているときに急いで駆け抜けるんだ。決して振り返るんじゃないよ。さあ、行きな」
 おじおばさんの膚がもわっとかすんでいって、全部がぐるぐるまきの煙になると、ふんわり天井にのびあがる。そして天井を煙の頭でノックしたかと思えば、東屋は壁や壁掛けの調度品をつれてぺろっと空に吹き飛んでしまった。床もひっぱられて、ジョニーはずりおちる。さっき気に入った床の木目や椅子ごと東屋が消えていくのを見て、足下に目線を落とせば、また地べたの上にいた。
 ジョニーの前には大きな山が待っている。
 ふとジョニーは、山は幻で、自分は砂漠を歩いているんじゃないかと思う。だが、山を歩いてみると、斜面で、自分の体は少し真下とは違う方向へと引っ張られている。体が傾いている。それに葉っぱをかき分けていったために手も顔も傷だらけだ。砂漠だったら別の傷つき方をするだろう。それに砂漠は暑く寒いところだと聞く。ジョニーは昼でも太陽の熱さを感じない。夜でも葉と土に身をくるめばまだ暖かい。それに泉から水を得ることができる。
 水。
 山の水には草の薫りがする。かわりに、なにかがないようだ。少し考えて、魚のにおいがしないのだと腑に落ちた。
 樹皮にも土にも薫りがするのが好きで、いつまでも歩いていたい気になった。
 だけれど三日目の夜だった。笛のような細い音がした。獣だろうかとジョニーは思うが、どんな獣か、知れない。それに音は上下した。繊細に上下した。規則正しく上下した。人間の指が操る笛のようだ、けれど、その音は獣が吠えるときに持ち合わせているあの特有の洞を含んでいた。洞窟を吹いて戻ってくる、威厳と生々しさをそなえた音だ。獣と人間の強さが混じっているんだったら? とジョニーは腕が震えた。寝袋にこもって耳をふさいだ。だが音は大きくなってくる。ジョニーは手を下ろし、心抜け出すようにして、体に残った耳を研ぎ澄ませ、音の方向を探る。鋭く分解すると方向は三つに分かれていた。三つの筋が合わさってひとつの細い音をつくっていたのだ。
 ジョニーは寝袋の中で膝を曲げた。脚のひげがつっぱる。星の神もおびえてしまいそうな恐い音。ジョニーは頭の中の天空に、星々に、自分の顔を投影していた。そうやって恐さを発散させなければ、ここにいるのはひとりだけだ。肉体が放置されている。
 音が止んだ。
「ああここにいた」
 と、薄い光が、目の前にあった。ジョニーはいつからか目を開けてしまっていた。そのせいで光が顔そのものから発していることまで認めてしまった。そう、三つの顔があった。ジョニーは心臓がとろりとするように感じた。血が蜂蜜のように甘くなって腕や脚の根や耳のあたりに運ばれる。額も甘く感じる。
 手を伸ばしてしまいたい。
「『敗北』と『孤独』と『退屈』」
 ジョニーは口にした。自分にかけるまじないだ。警戒するようにと。
「だれから聞いた」三つの顔は顔をゆがめた。
「なぜたじろいだ?」
「いいや。われわれをそのようなものだと誤解するものが多いのでね」
 と顔は微笑みあい、ジョニーは、
「ほう?」
「だがかれらは醜い。われわれとは大違いだよ」
 そう言ってくる顔の肉を前に――おじおばさんを思い出す。比べようとする。眉をひそめたと知れたのだろう、顔はにこやかな声を出す。
「つねに勝ち続ける必要などないのだよ」
「ぼくが思うのは、殺されるか生きるかどうかだ」とジョニー。
「では、殺されるのが負けで生きるのが勝ちか? それとも、殺されるのが勝ちで生きるのが負けか? どっちだい?」
「ぼくは――」
 おまえたちの相手をするのはぼくじゃない、と、ジョニー思う。「来てくれ、『勝利』、『陶酔』、『熱望』の骨たち。ぼくは怪獣に会いにいく」
 とたんに一陣の風が吹いた。
 がたがたと鳴る、三組みの骸骨。「やあ!」いっそう大きく顎を鳴らして、この場に来たのである。
「どうして――」
「ああ。われわれは会わなくてはならなかったんだ、君たちと」
 骸骨は三つの光に覆い被さる。そこでジョニーは光る顔が顔だけしか見えていなかったのだと改めて認識した。胴体は暗かった。それは骸骨に抱かれてはじめて輪郭をジョニーに知らしめた。ゴボウのように細く、そんな筋が、蜘蛛の巣のように八方に広がっている。しかし、ふちどりはなめらかである。骸骨の肋骨がかぱりと開き、暗い筋に突き刺さる。貫かれた箇所から赤い液体が飛んだ。逆に下の方の筋が骸骨の腓骨に巻きついた。白い骨が割られて、赤い液体が滴った。声。けたたましい笑い声。擦過、破砕、放射の音。袋がはじけてこぼれるように景気よくながれていく液体はそれ自体が解放解放と踊っているようだった。かれらは服従させあっている。かれらは支配させあっている。かれらは自身と相手を両極往復運動させ、置換させ、定まらぬことによって忘れていこうとしている。そんなことばをジョニーは頭の内側で聞いた。
 ジョニーは交わるものたちに背を向けた。
 ジョニーは、背の後ろでたっている音については、自分が木々の高所の枝葉であって風に吹かれているのだという想像をして、音はひたすら体を通っていくものとして感じ、走って行った。木々の間を縫って走って行った。途中で山猫に出会い、止まり、とたんに枝葉の気分は、膝を曲げて屈んでいる人間の像に置き換わり、そうだ状況が気になるぞ、と引き返した。戻りは歩き。汗を何度か拭いた。
 茂みからジャンプを決めて元の場に降り立つと、三つのものら二組みは、全くばらばらになっていた。肉とも骨ともつかない白いものが、トマトを取られたカプレーゼのように散っていた。つまり離散的チーズである。
 白の中央に赤子があった。真っ赤な肌をした子どもだった。他の赤色は失せていた。
 裸で仰向けの赤子。その目にジョニーは息を呑む。
 思い出さざるを得ない。
 尻尾でジョニーの家を押しつぶした、怪獣の瞳。
 赤子はぷっくらした腕をあげて、自分の頭の先を指さした。
 ジョニーは膝を突いて、うなだれた。

 赤子が示した方向に、赤子を抱いたジョニーは、下山する。日が昇って小さなしゃれた村に着いた。心配なので赤子を医師に診せれば、健康この上ないとのことだった。ジョニーは見聞きしたものを話した。
「おまえも赤子だったころ、ひとの望むものをひとつ示したことがあるだろう」
 医師はそう言う。
「この子の目は、大丈夫ですか?」
「わたしには赤子の目と見えるさ」
 ジョニーはミルクをたっぷり受け取って、赤ん坊に、与えた。
「ここのほうに怪獣は出ますか?」

 あっちの村で昔出た、と医師。
 ジョニーは行く。それを繰り返す。
 が、十七個目の村だった。最近出た、と、ジョニーは聞いた。赤子の飲むミルクも増え、かれらはすでに砂地に出ていた。
 張り込んだ三日目のこと。砂のむこうに影がある。
 怪獣だ。まだ小さい。

 ジョニーは静かに待った。世話になったものたちのために植物をこっそり孕ませて、みやげにした。
「どこでとってくるんだい」と尋ねられて、危険な予兆をかぎ取ったので、それからは自分では渡さず、村のものたちがいく場所のものを孕ませるだけにした。妙な豊作に村のものたちが喜んだので、ジョニーは少し悲しくなった。自分が消えたらかれらは不作に戸惑うだろう。未来の損の原因を作ってしまったのだ。おれのやったことは罪じゃないか? 誰かを助けられる力があると、使いどころを選ばなくてはならない。ママンだったらなんと言っただろう。傲然と生きただろうか。
 怪獣が近づいてくるのをジョニーは待った。

 怪獣が大きくなってきて、村のものたちは逃げる相談を始めた。ジョニーも誘われた。「この子だけを」とジョニーは赤子を託す。
 そして空っぽになった小屋たちのなかに、ジョニーだけが、残った。ジョニーは一人、植物を友として、夜昼夕朝と暮らした。
 怪獣が大きくなってきて、その熱気で植物もへたばってしまう。ジョニーは蜥蜴や飛蝗を食べた。
 来る動物たちは一時期数を増していたが、あるとき峠を越えて、減った。よしジョニー、今、いまが、出るときだ。
 ジョニーは義足で村を出て、入道雲のように伸びた怪獣の麓へ歩いていく。
 怪獣の焔が脚を焼く。
 ひげ根ごと義足が焦げていく。
 ジョニーは手を天に掲げた。ひとかけらの黒い雲に指を伸ばした。
 はら、と滴が頭に落ちる。ぼたぼたと続いてくる。雨の兆し。怪獣は驚いたように咆えて後退した。
 ジョニーは止まらない。土に手を差す。地が震える。怪獣は左右に揺れる。
 ジョニーは止まらない。一粒混じった種をつかむ。指の間から茎が漏れる。
 ジョニーは止まらない。空いた手が水浸しになる。手に触れている空気がなにかを孕んでいる。ジョニーのまわりに風が起きる。風は体を巻いて薄暗いさなぎのようにしてしまう。
 ぶうん、と、蠅のように低い音。
「ジョニー、ジョニー、帰るんだ」
 車いすの急停止の音だった。声をかけてきたのは赤子。いくぶん大きくなった赤子だった。
「ジョニー、これで怪獣はもうこっちにはこない。ジョニー、君は怪獣に近づいちゃいけないんだ」
 ジョニーは答えない。揺れる怪獣のほうに進んでいる。
 赤子の乗った車いすはジョニーに向かって走る。
 ジョニーは追いつかれてしまう。
 でもほんとうに追いつかれきる、その寸前、ジョニーは体でたどり着く必要がないと知っていた。
 ジョニーの風が怪獣に向かう。ほどかれたさなぎの中で、ジョニーの目は怪獣を見つめている。怪獣が腹を曲げる。屈んでうなる。土に落ちている影がぶれる。怪獣は背中側に倒れることもできない。その腹が突っ張っている。

 汽車が音を立てて走っている。乗り込んでいるものたちは吊革につかまり、一部は捕まる場所もなく、みっちりとくっついて存在している。
 荒野に生きた弱い怪獣の影が光に食われる。光は荒野をぱらぱらと照らしてふっと天に駆け上がる。
 動物園の檻の中で鎖つきの怪獣が細長い熊手で引き倒される。

 怪獣はひとりで海に歩いて行く。
 とても大きいようだが、そばに大きな動物はなく、もしかしたら小さいのかもしれない。シルエットのように薄いようで、霞のように淡いようで、空間を切り抜いた不在である怪獣。怪獣は海に進行していく。だれもいない砂地に足跡だけを残して進む。足跡の縁も、風が吹いて、さらりさらりとゆるやかになっていって、怪獣がこれまで何歩或いは何千歩何万歩あるいたのかを、決定された事象の位置からほどかせていく。
 けれど海はそこにあり、怪獣は海に入る。
 海に入った怪獣は砂でできているようで、全身がじわりと広がる。しかし浜のすぐそばで泥のようになってしまわないように、沖のほうまで進んでいく。
 天には陽ざしがある。進んでも進んでも太陽の真下には至らない。
 けれど浜だった場所は遠く、波は白いあぶくを失い、青と緑と紺の中で、怪獣はようやく解体する。
 不在の粒が上へ下へ伸びていく。
 一部は浮かんだ白雲を下から上へ、一部は沈んだ火山を上から下へ。
 たどりつく予感をひっくりかえされたおもちゃ箱のようにあらわしながら、怪獣は粒の縦筋になる。

 ジョニーは立っている。
 怪獣の影が小さくなる。
 怪獣が出したのは長い長い塊だった。それを失った怪獣は小さくなっていった。
 ジョニーは瞬く。ひどく腹が減る。この獣は終わってしまうのだ。
「食べるか」と赤子が言った。
「名前を聞いていなかった、あんたの」とジョニー。
 赤子は車いすを動かして、炒めるように音を言った。

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