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手話研究における親の存在

どうも,ろう児をもつ親御さんが「自分たちは当事者なんだから,脅すようなことを書くな」みたいなことをTwitterで発信し続けているので,親御さんたちがなにを脅威に感じているのか,考え込んでしまった。残念ながら手話言語学や手話コミュニティの「当事者」に聴者の親は大抵入っていない。私もそれに慣れきっていた。

たしかに手話言語学には「ろう者バイアス」が色濃く存在していて,私もまた,ろう者側の言説に慣れきってしまっていると気づいた。明日役に立ちそうなことを全く発信できないことを申し訳ないとおもうし,気づかせてくれたことに感謝もしている。

たとえば手話が必要なのだという私のツイートをみても,地域にその環境がなかったら,すごく頑張って自分で情報収集しなければならない。ヒントは地域の聴覚障害者情報センターとかに行ってみるとか?(丸投げ)。それが現状だという認識は結構重要だと思う。たとえばコロナウイルスに効く薬がないから病院にいっても即効性はないのだ,とかと同じように。悲しいことにそれが現状だと思う。品川の明晴学園に通える親御さん以外は,なかなか環境がない(ろう者がろう児を持つと引っ越してくるケースもあるらしい。明晴学園にはネイティブサイナー児が多い。新幹線でとかも聞いたことがある)。埼玉,北海道…地元の聾学校に手話で対応してくれる環境があればいけるし,近所の聾学校が人工内耳装用児しかいないとかだともうどうしようもない。なんらかの重複障害があって,補聴手段を活用できない,ということもあるだろう。重複障害で声が出せないとかもあると思う。そしたらもう,引っ越して手話を教えてくれる聾学校のあるところにいかなければならない。(だから各地の聾学校にちゃんと手話が教えられる環境があるべきだと思うのだが,子供が減ってる現状難しいのか…)大阪にも施設ができたんだっけ。ろう児を持つ親御さんは,聾学校の側に平日だけ住むとかしている人もいるそうで,本当に頭が下がる。

ろう者バイアスはマジョリティに対するマイノリティのバイアス

このあいだ,木村晴美「日本手話とろう文化」を再読して,以前感じていた脅威を,今なぜ感じないのだろう? と疑問に思った。端的に言えば,脅威を感じた頃の私は,ろう文化というのは「低い」ものだと感じていた,ということだ。立場が低い人間がはっきりものをいう。これを自分の方が立場が上だと思っているあいだは「なにこいつ」って感じる。こういう感情の働きがあるように思う。まあ過去の私相当失礼だなと思うけれど,それも自然な心の働きなのでしかたない。

手話は多くの聴こえる人にとって「低い」存在だ。話者も少ないし,できなくても生きていける。行事にろう者を連れて行くとき,手話通訳を呼ぶのにお金がかかると「なぜ自分たちが払わなければならないのだ」と苛立たれる。海外セレブがイベントに来てくれることになったらたぶん,その人たちは通訳費用を普通に出す。でも,名もなきろう者が来るのになぜ費用負担をしなければならないのだ。それは自分で賄うべきだ。そんな感じ。二つ返事で無理って言われる。「ろう者」を講演者として提案したら「その人でなければならないのか」と文句を言われそうだ。通訳費用だけで,その会の運営費の半分くらいを食う様な額がかかったりするしね。それだけの価値があるのか,と。

そういう,なんかネガティブな感じはよくわかる。言語学者でさえそういう人がまだまだ多い。もっとポジティブな話をしろとかいわれるけど,なんか上から目線に感じるのは,そもそも下から目線を求めてるという偏見があるのかもしれない。一生懸命やっているのに,なんでこんなこと言われなあかんの? みたいな。手話学習をしているときに,いつも叩かれているような気がしていた。

科学と認知バイアス

さて,人の自然な心の動きというのは,科学にとって大変にやっかいな代物である。たとえば今現在,新型コロナウイルスで大騒ぎだが,医学者がいろいろデータに基づいた情報を発信するのを,脅かすんじゃない! と怒っている人たちがいる。まあ,確かに市井の人間として,難しくて怖いのはいやだ。でも,真実が隠されていて「だいじょうぶ」とか言われるのはもっといやだ。

科学というのは,仮説と無縁ではない。ストーリーがあって,仮説を立てて,検証している。だから,バイアスがない研究なんて存在しないのだ。残念なことに,価値判断が「ない」研究なんてあんまり存在しない。計画を立てるときにはこういう結果が出るだろうと予想までしている。

聴覚障害分野では2つの流れが対立している。ひとつは,聞こえない子供に音声で話せる/聴こえるようになる訓練をして言語を習得させられる,という流れ。これは19世紀の半ばくらいからある流れだ。もうひとつが,聞こえない子には手話を与えれば,その子は言語発達が定型並になる,というものだ。

前者は,1880年の悪名高きミラノ会議で承認された。会議の議決はろう者が席を外させられるという形で,聴こえる教育者だけによって採決された。先天的に聞こえなかったかどうかわからない,「聞こえない子供」が音声でしゃべるさまを見せつけられて,聴こえる教育者はそちらに舵をきることに決めた。補聴器の登場はまだ半世紀くらい後であるが,とにかく聴こえる人に同化することが重要だった。そのころまだ,手話が十全な言語だという知見もなかった。親の希望もまた,「話せるようになるなら」だったろう。

後半の研究は1970年代以降に行われているもので,それが誰もが認める形に落ち着いたのは,2008年の障害者権利条約だろう。その直後にバンクーバー宣言(2010年)が出て,ミラノ会議の結論(口話教育に集中しよう)が完全に間違っていたという帰結をみた。しかし日本ではマルッと無視されている様な気がする。まあ1990年代から聾学校では「手話」は使われているが,声付きだったりする。音声のインプットを継続的にしてほしい,という親御さんの希望もあると聞く。

いわゆる「臨界期」の検証

手話言語学の研究は,この「手話は言語である」という証明に手間隙を割いてきた。差別偏見をひっくり返す強い言説が行われてきた。それはろう者の研究者やCODA(親がろう者なので手話のネイティブ)の研究者,言語学,と脳神経科学,心理言語学などの領域で手を尽くしてきた。残念ながら日本では数えるほどしか研究者がいないが,アメリカではたぶん100人はいる。もっといるか…。日本では手話研究で博士号を取ったという人が10人以下だと思われる。ちなみに私はそうではない。

手話の発達研究についてはMayberryというスター研究者がいる。

1990年代に,Racheal Mayberry(CODAの研究者)は,手話に触れたのが遅いと,手話の文法力も劣る,という研究結果を出す(1993)。この成果は言語関連にしては珍しくNatureに短い記事も載った(2002)学齢期になってはじめて聾学校に入り,6歳をすぎてから手話に触れることになったろう者たちは30年経ってもネイティブとは異なる文法で手話を使っている,第二言語である英語もまた伸び悩む。ネイティブサイナーであれば,第二言語である英語は伸びる人もいればそうでない人もいる(日本語話者の英語がそうであるように)。

第一言語が遅れると,第一言語も第二言語もそれなりの「違い」が30年経っても残る,というのは,手話での教育を後押しするものだったし,早期介入における手話の扱いについても示唆を与えるものである。今も,彼女はニューロイメジングなどの技法で研究を続けている。日本語では武居先生の総説論文でこのへんのことが多少読める。

このいわゆる「臨界期」のようなことを語った論文は,ほかの環境では確かめようがないこととして,かの有名な科学雑誌Natureにも載る様な成果であった。これが対抗したかったのはこういう言説だ。「口話教育でうまくいかなかったら手話に切り替えれば,ろう者たちはみな手話で自由に話せているじゃない。でも口話ができる様になるには越したことがない。それには早期の介入しかない」この論文は,「そんなこと言ったって,手話だって早くはじめなきゃ,ちゃんとは身につかない」と主張する証拠として用いられてきた。現に,手話がわかるようになってみれば,ろう者コミュニティのなかに一定数以上に日本語だけでなく,手話でのコミュニケーションにも困っている人がいる。小説「デフヴォイス」でもそういう人の存在が取り上げられていた。

最近では,アメリカで,割と有名な人工内耳の研究者であるAnn Geersらが,人工内耳装用児で手話を併用したら,むしろ音声英語の発達が遅いとかいう論文(2017)を出している。残念ながらこの調査でわかるのは,人工内耳を入れても音声英語の伸びが悪い子は手話併用をやめられない,ということだけで,手話を使ったから英語が伸びない,という因果関係は証明できてない。ただこの論文を日本の医師も参照していて手話を使うなとか言ってるらしいから要注意だ。人工内耳を装用しているASLネイティブの子(親がろうのASL話者)は英語力がバイリンガルの聴こえる子相当(悪影響はない)という研究だってある。

心の理論

もうひとつ,重要な研究が,心の理論の研究である。Schick et al.(2007)の規模の大きめの調査(N=176)で,ネイティブサイナー(親がろう者のろう児)は定型発達と同等の心の理論の発達を見せるが,親が聞こえる,手話で育ったろう児はそれよりも劣り,音声英語で育つろう児はさらに遅い,というものである。

これは似た様な報告が日本でも行われている(Fujino et al. 2017)。ただしこのとき,親がろうであるかどうかみたいな差についてはちゃんと調査できていない(日本の聴覚障害児教育って日本手話環境を重視しないのだ)。同じ手法ではないからなんともいえないが,日本のろう児は,アメリカの調査よりなんとなく悪い気がする。普通4-6歳でできるテストを,10歳で6割しか通過しないというのは絶対に見逃しちゃいけない「できないこと」であろう。

この「心の理論」の研究は,「親がろう者でスムーズに親子コミュニケーションできる場合をのぞいて,聞こえない子どもは心の理論の発達が定型にならない」というもので,割とショッキングなのだが,親が聴者でも,手話を使えば口話教育をするより効果はある,ということも示している。

心の理論の研究のなかで,聴覚障害児を扱うのは,「言語が伸びれば心の理論も伸びる」という言説を強化している。実は心の理論のテストというのは,これができないと自閉症傾向が高い,というテストだ。他者と自分の心の状態が違う,ということがわからない。

言語発達と心の理論の発達は相関関係があり,どっちかが遅れるともう一方も遅れるようである。聴覚障害で言語発達が遅れていれば心の理論も遅れる。自閉症傾向の高い子供は心の理論の発達が遅れるが,言語が伸びた子どもは,心の理論のテストをクリアできるようになる。心の理論の測り方がそもそも言語依存なのかもしれないと研究者はいろいろ手を尽くして言語が介在しない様にと測定方法を試していて,ただの言語能力を測っているテストだともいいにくい。

心の理論には年齢の上限みたいなのがあるのだろうか。ここで,手話言語の進化のような研究を参照しなければならない。

手話の進化

ニカラグアの手話の話は,「子育ての大誤解」の下巻に載っている。わからない人は読んでほしい。大雑把にいうと,ろう児を集めたら手話言語ができたよ,って話だ。1世代目の子どもたちは完全に「言語」といえるものではなかったが,2世代目になると,しっかり複雑な構造を持つ言語になった。

手話の起源はこないだ紹介した論文にも書いたけど,ろう児の集団だ。ニカラグアの研究の支えもあって,近代の寄宿舎制の聾学校ができて,大きな手話言語が誕生したと考えられている。

じゃあ,聴こえる親の家庭にろう児が生まれた場合はどうなるの? その子たちは割と野に放たれていたのか集団を形成できていたのかはあまりよくわかっていない。でも今ある補聴器がなかったから,言語がいまいち身につかなかった子は今より多かったろうし,熱病で早期に聴覚を失った人とかも多かったろう。そうしたところに,コミュニケーション手段がなかったわけではない。

Susan Goldin-Meadowという人が1970年代(だったかな)に,ろう教育から漏れていて,家庭で育っていたろう児のコミュニケーションビデオを分析しながら(今ならなんらかの教育を受けているだろう)「ホームサイン」の存在と構造を分析した(2005)。

親の存在は?

ニカラグア手話とホームサインの研究は,親にとってはなかなか厳しいものがある。

聴こえる親の元にいた子どもたちを聾学校に集めたら,手話が生まれ,そこにさらに若い子供を放り込んだら複雑な手話が生まれた。ろう児ってすごい。

ホームサインは,聞こえない子同士の交流がほとんどないところで,親子のあいだに生まれる。実は子の側ではそれなりにルールがあって,それが外部の音声言語の語順などとは別のものだ,というのが大発見だった。親が使っているジェスチャーをインプットとしているなら,親の言語の影響をうけそうなものだけれども,子は独自のルールをもった記号系を作る。親は子のホームサインほど体系立ててそれを使っていない。つまり,親は子が使ってる体系についていけてない。子どもはニカラグアのように自分と同質の子どもがたくさんいる集団に放り込まれて初めて,相手に自分の言語体系を理解してもらえて,その体系を進化させることができるのだ。つまり,うがった解釈をすれば,聴こえる親って無力だ。

このように,聞こえない子にとって,聴こえる親はあんまり役に立たないというストーリーが手話言語学のなかでは共有されている。もちろん,十分な環境があってこそ子どもは精神的にも肉体的にも健全に育つと信じたいのだけれど,なんやかんやで差分が「言語」になってしまう。親から引き離して,聾学校にいれたほうが,子どもは生き生きと自分たちの言語を「創り出して」身につけてしまう,という話は強烈だし,たぶん手話を導入したいというときに越えなければならない壁として存在する。

聴こえる人に厳しい手話業界

なんでこんなに手話言語学は聴こえる人に厳しいのだろうと思うけれど,そういえばろう者コミュニティは聴者の手話言語学者に対しても割と厳しい。手話は長いこと差別されてきた言語で,ろう者は聴者を抑圧者(敵)とみなしがちだ。だから聴者にとって「都合がいい」言説が発表されにくいというのはあるかもしれない。だけれど,一定の手続きをへて発表された研究の裏には,ろう者たちの実感がある。妄想とか脅しとか恨みとかの文学作品じゃない。ちゃんと検証されて、その検証がそれなりの信憑性があるものが学術論文だ。(★この記事はそうではない。論文は示してあるが)

聴こえる親にとっては子が音声言語を身につけられるというようなポジティブな知見の方が,良いものに見えるのだろう。自分の言語だし,それが「自然」だ。でも,ろう児にとって聴こえる,手話のできない親は「自然」ではないらしい。自然に身につくはずの言語が身につけられない。

私たち聴者は,常にろう者側を見るときマジョリティ側に立っているように認識している。だから,手話を学んでやろう,とか思ってしまう。でも向こう側から見れば「手話がわからない親」のほうが弱者なのかもしれない。

ろう者と聴者のあいだのコミュニケーションはいつも不平等だ。こちらが手話を学ばない限り,ろう者にはきちんと届かないし(筆談でややこしいことが話せる相手は限られる),手話を使ったところでろう者にとって第二言語話者に話すのはそれなりに面倒臭い行為である。子供でもそうだろう。それが親子関係だったらなおのこと大変だ。尻込みする気持ちもよくわかるし,第二言語で子育てなんて,と思うだろう。子供が明晴学園なんかに入ったら,子供の方がぐんと手話力が伸びて,早晩子供の方が親と話すのに手加減しなければならなくなる。

おそらく聞こえない子どもは,遅かれ早かれ手話に出会う。そのときに,親とコミュニケーションが取れるといいよねとおもっている。今の時代,本当に手話に出会わないままずっと生きていく聴覚障害者もいるとは思う。でも,十代で聾学校に戻ってくる子は絶えていないとも。

日本語がかなりよく身についていればよいかもしれない。でもちょっと古い話だけど「たったひとりのクレオール」に出てくるように,母子にしか通じないような体系になってしまったとしたら…? 今度出る論文の最後に慌てて書き足したけど,聾学校には中学部になって戻ってくる子どもも多い。そのとき,手話に出会って,「もう声では話さない,親が言ってること全然わからない!」と「気付く」子もいるという。そしてそこから親子でコミュニケーションが成立しなくなる。そういう話は結構聞く。子どもが自我を確立した瞬間,吉と出るか凶と出るか……。

大人のろう者が「手話を選ばない聴こえる親」を批判するのは,早期にうまくいっていなかったからじゃない,むしろ10代以降に問題が発覚する。親子関係ってかなり難しい。自我が成立していない子供の意思を本当に汲み取ることができるのだろうか。本当に,我が子のことは私が一番知っているのだろうか。心の理論の一次誤信念課題が出来てない間は、我彼の区別があんまりない。そう、これが遅れてると、子ども自身の意思が親と切り離して確認できないことが危惧される。そして日本の調査では10歳で4割の子が一次誤信念課題をパスしてなかった。この子たちは親と自分の意見を切り離せていない可能性が結構ある。

私はホームサインの研究や,手話に限らず親子関係は育ちにあまり影響しないという「子育ての大誤解」という本を読んで,親がしてやれることは,できるだけ周りによい友達ができるようにすることだけだ,と自分の子育てについて割と諦めがついている。(実はそれって結構大変なことだ。孟母三遷をやれっていうことだから。孟子を育てているのかな我々は。)

心の理論ふたたび

手話は聴こえる親の理解が得にくい。でも諦めちゃいけないことが一つある。「心の理論」だ。これに習得の「臨界期」があるのかはよくわからない。ニカラグア手話の最初の世代にはできない人が多いらしい。

「心の理論」はろう・難聴者がサバイブするのにとても重要で,人工内耳の適用者でも是非とも定期的に検査してほしいと思っている。聴覚活用をしていようが情報が欠けがちな難聴者にとっても,手話で生活するろう者にとっても,この能力がとても重要。これは「空気を読む力」を図るものだと理解しておけばだいたいあっている。自分が今どういう状況に置かれていて,たとえば自分だけ知らない情報がありそうだぞ? ということを察知するのにこの力は大変役に立つ。ろう者には第六感が働いてるのか? ってくらいカンがいい人が多いが,大抵ネイティブサイナーである。この力が伸びないと,情報が欠けがちな聴覚障害者は,社会に出てからかなり困る。「ろう者の祈り」でも,聴覚障害者は転職率が高いという話が書いてあるが,それらのエピソードもこのことを想像しながら読むと納得できる。9歳の壁問題についてもこれと関係がある要素が多い。

心の理論は,複文構造だとか言語発達と相関関係があるといわれているが,私はコミュニケーションの経験の問題が大きいだろうと思っている。経験を稼ぐには,同質の仲間がもちろん必要なのだけれど,家庭の役割がないとはいえない。だって,ネイティブサイナーの子どもは定型発達相当で,4〜6歳で身につく。(そして日本の難聴児はおしなべてこれが遅れる)

学齢期に突入するころに一次誤信念が身につく。学齢期がこの年から(集団生活を始められる)ということとこれが無関係には思えない。そして,ネイティブサイナーであっても,ろうの仲間がいないインテグレーション教育を受けると,学校の中で孤立して経験が稼げないのか,二次誤信念課題をふくむ10歳くらいでの心の理論のスコアが定型発達より悪くなる。(これはコミュニケーション発達の理論と支援の章で書いた)

以前,手話で教育をしている明晴学園の教諭募集で聾学校出身者という限定があったときに「なるほどな」と思ったのはこのためである。このへん,経験が非定型という特徴を呈するのが聴覚障害なので,心の理論を研究している人はいろいろ実験したいと思っている模様。私もしたいが,手話でできるように実験を組むには日本手話の基礎研究が先,と言ってずるずる後まわしになっている。2010年時点では日本の先天聴覚障害児のスコアはかなり悪いというのも知っておくべきことだ。

4〜6歳時点での心の理論の発達について,ネイティブサイナーで定型相当ということは,親子のコミュニケーションだけで支えられて発達する要素ということが示唆されている。だとすると,親密な親子関係の上になりたつ言語コミュニケーションが重要になるということになる。この辺でブカレストの孤児院の話をしたいが今日は匂わせるだけにしておく。

親子関係に支えられる一次誤信念までの過程は親の出番があるんじゃないか,と思う。2007年のSchick et alの調査でも,遅れるにしても手話を導入した家庭の子のほうが,英語で育った子よりスコアが良かった。

おしまい

手話研究そのものが親御さんに厳しくて,ごめんなさい。よく鑑みてみたら,ほんとに聴こえる親に対して魅力のない言説が多いのだ。親への恨みがこもった「言語剥奪」という用語もそうだ。なんか一気に書いたし時間切れなので,失礼だとかあったらすみません(全体が失礼だろう)。

勘違いしてる親御さんとかいるけど,私は「手話で教育しましょう」っていうことを高らかに宣伝する宣伝マンじゃない。今,手話でちゃんと教育を受けられる場所はとても少ない。宣伝をしたところで恩恵に預かれる人はとても少ないのだ。でも,出会えたらそれを大事にしてほしいと思うし,手話での教育が必要だと思ったら,「小指のおかあさん」よろしく大暴れするか,孟母三遷の技を使うしかない。自力で手話を学んで子供に使う? 手話は自習じゃ身につけるの大変だし,あんまりおすすめできない。なかなか難しいのです。私の知るアメリカのニューメキシコ州の早期介入ではろう者や手話ができる専門支援員が毎週家にきていろいろ教えてくれる。それくらいしないと難しいものだと私も思っている。事情を知るものとして行動してはみていますが,日本の聴覚障害児教育の現状は,うーん。現場の先生方はものすごく奮闘されているのですが……。大ボラを吹くとか言ってると炎上するんじゃないかと思うけど関係者が少なくて炎上しない(関係者にしかわからないパート)。

親を支えるための言説,手話に関するポジティブななにか,もっとあるといいのだけれど私が把握しているのはここまで。東京周辺の人は明晴学園に行ってみてください。

とりあえず,難聴児を持つ親御さんは,こちらの本を見ればいいと思う。とくに低年齢のときには役にたつだろう。セルフアドボカシーや,専門家との関わり方のガイドまで書いてある。カナダ,進んでるなあ。ちなみにこれは,バンクーバーのあるブリティッシュコロンビア州に3つある団体の1つが出してるガイドブックで,聴覚活用派のもの。手話を使う団体が別にあることに注意。

そして「子育ての大誤解」での主張「子どもは子供の集団でのコミュニケーションの方が重要」ってのは,とくに聴覚障害児教育で言われる「やせたことば」を「生きた言葉」にしていくための重要な示唆。自然言語と同等に複雑な手話言語が子供たちに生み出されたのも,同質な子供集団であって,親とのコミュニケーションでは無理だったのを思い出してほしい。親は万能じゃないし,自然な言語を生み出す相手じゃなかった。一人で解決できる問題は少ない。親もまた「同質な集団」があったほうが,いいのかもしれない。まあ親同士で変に争うとかがないなら,と思うけど。人間関係は複雑で,子供をみてるだけで精一杯になりがちかもしれないが,たぶんそれは「不自然」なことなのだろう。

長々と書いてしまい,たぶんここまで読んでいる人はあんまりいないだろう。ちなみに私は言語学者であって,文法を分析したりするのの方が専門だ。発達心理学者ではないので,これは本業ではない。たぶん好き勝手に情報発信するのも今年度いっぱい。

ただ,こうした知識は,手話言語学者がいるアメリカの大学では学部レベルで学ぶことだと思われる。こういうことは「最先端」とかじゃなくて,基礎知識のはずだが日本で知っている人が少ない。それこそが,日本の聴覚障害児教育の「現在地」だということは知っておいたほうがいいのかもしれない。

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