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別々のルートで結果が同じになる?

1. オリンピックの開会式の手話通訳

去年の夏は、東京オリンピックの閉会式から手話通訳がついた。NHKの総合テレビで手話通訳の付いていないものを、Eテレで手話通訳が大きく映ったものを放映していた。

私の周りでは、評判が良かったように思う。通訳者の顔が豆粒みたいになって、顔の文法要素が見えないようなワイプではなく、画面の前面にいるかのような手話通訳者は、細かいところまでよく見えた。

一方で、なぜ総合テレビにつけないのだ、それは隔離的扱いではないか、というツイートも散見された。確かにその点は考えなければならない。

国連障害者の権利条約では、区別・排除・制限はどれも「差別」である。そして、異なったものが同じ結果を得るために「異なった対応」がされないことも「差別」になっている。

みんながアクセスできるはずの場所に、身体的・知的・精神的特徴の違いによってアクセスできないことは、排除や制限にあたり、「差別」だ。一方で、オリンピックを楽しむという「同じ結果」を得るために「異なった対応」、たとえば手話通訳がついた映像が放映される、などがされないことも差別になる。

テレビのチャンネルが異なることは「区別」にあたるのだが、私も異なる対応をしたことがある。

2. 同じ内容でふたつの講演

私のメンターである手話言語学者のW先生が来日したときのこと。某研究所でW先生のレクチャーをさせてもらえることになった。言語学者向けの講演に手話通訳をつけるか、考えた。英語話者である。英語から日本手話への通訳は国内で5人くらいしかいない。この手のイベントをやるとき、この英語と日本手話のできる通訳者の日程から逆算して来日予定を考えることがあるくらい貴重でかつ忙しい人たちなので、あとから持ち上がったこのレクチャーに英語ー日本手話の通訳がつけられないことはわかっていた。

もちろん、英語から日本語をはさんだリレー通訳は考えられなくはない。W先生に相談すると「手話を知らない言語学者に向けたレクチャーはろう者にとってはおもしろくないだろう」という。ろう者が来るように設計するなら、手話を知らない言語学者にとってわけのわからない話になるかもしれない。どうせ手話通訳をつけるならアメリカ手話と日本手話の通訳がいいかもしれない。

ここでは、せっかくアメリカから来てくれた手話言語学者の知見を、聴者の言語学者と、ろう者の研究に興味をもっている非研究者それぞれに十分に知的好奇心を満たせるという結果を求めて、2つの企画を用意することになった。筋書きは殆ど同じだが、前者は英語で、後者はアメリカ手話で行われた。アメリカ手話と日本手話の間の通訳ができる通訳者(ろう者)に来てもらって、ろう者の集まりやすい時間帯に開催した。

この2つの会は想定されている前提知識が違うので、筋書きは同じだが、はしょる部分、足す部分が全然違った。また後者はよりインタラクティブに行われた。

通訳を手配しないディナーに参加できない

もう一つのエピソードを紹介しよう。W先生を訪れているとき、日本人のろう者がゲストトークをすることになった。当然私の知り合いなのだが、月曜日のディナーは、私は来るなといわれた。なぜなら、日本人のろう者はアメリカ手話でやりとりができ、そのディナーの席はアメリカ手話のみで進行することになったからであった。

ディナーの参加者は手話通訳の有資格者が複数いたが、すべての人が通訳ではなく、ディナーを楽しむために集まるべき人だった。今回は、手話通訳を用意しないので、アメリカ手話ができない私は参加すべきではないというわけだ。私が不用意に参加すると、誰かしらがポツンと見つめている私に通訳をしなければと、落ち着かない気持ちになる。だから、月曜日はやめておこう、というわけだ。それで別の日に違うグループで食事をすることになった。

ちなみに、この大学主催の言語学会の懇親会には、アメリカ手話の通訳が何人も通訳者として参加する。ボランティアで通訳するわけではない。そのおかげでアメリカ人ろう者の手話研究者とも懇親会で知り合うことができた。

アメリカでも古参の手話研究者のひとりであるW先生は「分ける」ことにあまり躊躇がない。どこかで線を引いて、無茶なことにならないようにするバランス感覚があると私は思った。

3. 安全地帯と「同じ結果」

W先生が日本に来たときの2つのイベントは、今でもあのイベントは良かったと思うと同時に、良かったのか? と思い返す時がある。

本当に、聴者の言語学者向けのイベントに通訳をつけなくて良かったかと言われれば、それはよくなかっただろうとも思う。手話について話すとき、ろう者が何をどのように言われているか、チェックする権利があると思っている。それはマジョリティ側がマイノリティのことを好き勝手にいろいろいうのを抑止するべきだという側面もある。聴者が興味を持ちそうな内容を、聴者に向けてどのように話すかということを、ろう者が学ぶ機会も重要だ。

しかし、後者のろう者のみを対象としたイベントは必要だったと思う。ほぼクローズドにした会で、いわば「安全地帯」みたいなところで、ろう者が聞きたいことを聞く機会だ。聴者の専門家が大勢いるところでは、的外れな質問なのではないだろうかと思って、なかなか質問できないというろう者は多い。そこに日本語(あるいは英語)への通訳もつけて聴者へもアクセシブルにしろと言われても、そこは拒否するべきだろう。

ちなみに同じようなイベントをさらにその後開催した。そのときは「聴者はオブザーバーとして参加しても良いけど発言は不可」にした。

マイノリティにとって、安全地帯はいつでも必要だ。それを実現するためには、マイノリティの当事者でないものは、一歩引いていないといけない、ということもW先生から学んだ。

安全地帯の話はまた次に書くとして、このイベントの話とオリンピックの手話通訳の話を一緒に考えると、どうなるだろうか。

いろんな解があると思う。総合テレビで手話を大写しにすればいいのか、Eテレも使えるなら、Eテレで手話を大写しにして、総合では手話は小さなワイプでも良いから入れておくのがいいのか、ひとつのチャンネルでオンオフできる技術があればよかったのか、なんなのか。

手話を見えるようにしたい

総合テレビに手話通訳がつけばよかったのにな、という意見の中に、手話の存在をしらない聞こえない子・聞こえにくい子に否が応でも目に入るとこに手話を存在させることができればよかったのに、というのがあった。

こういうところ、「見えないところに手話通訳を置きたがる」講演者は結構いるらしい。講習会に講師として行くと「通訳対象者が後ろのほうに座るので、手話通訳は後ろにいたほうがいいですか」と聞かれたりする。手話通訳を見るろう者が近くで通訳して欲しいのかを確認した上で、そうでなければ「講演者の横の方が同じ視角に入るし、私がどんな風にしゃべるのか感じながら通訳して欲しいし、通訳が間に合わなくなったら私の話を止めるくらいの勢いでやって欲しいので近くにいて下さい。受講生も手話通訳の様子がみたいでしょうし」。どうやらそうじゃない講師もいるらしい。

最後に—「同じ結果」

確かに、総合テレビに手話を「映さない」ために、Eテレでわざわざ手話つき放送を行っているという見方はできる。それ以上に「同じ結果」が得られるというところについて、検討しただろうか。少なくとも、オリンピック・パラリンピックの開会式や閉会式を楽しむという意味では同じ結果が得られたのではないだろうか。

ところでもっと重大なことがある。セレモニーにだけ手話通訳がついても「オリンピックやパラリンピックを楽しむ」という同じ結果には至ってないので、そっちの動きに注目していきたい。

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