「教育は何のためにあるのか?」,河野正夫の教育の原点。

教育の本質とその重要性

はじめに


教育の本質について考えるとき、私は常に「教育は何のためにあるのか?」という問いに立ち戻ります。私の教育への想いは、ローマ帝国の時代にまで遡ります。古代ローマの文明から学べる教訓が示すように、教育は単なる知識の伝達を超えたものであり、文化や技術の継承を担う重要な役割を果たします。

古代ローマの栄光

文明の頂点

古代ローマは、2,000年も前に現在の先進国と同水準の文明を持っていました。ローマやポンペイの都市では、温水浴、冷水浴、サウナ、マッサージ、図書館、レストラン、バーなどを備えた公衆浴場がありました。ローマのカラカラ浴場はその最高峰であり、一度に数百人が風呂に入り、ワインを飲み、図書館で本を読み、サロンで政治談義をする空間がありました。

また、ローマの都市部は完璧な上水道システムと下水道システムを持ち、市民は清潔な水を供給されていました。コロッセオは5万人を収容する大競技場で、各席には座席番号があり、指定席券が発行されていました。さらに、チルコ・マッシモは15万人収容の大競技場で、戦車競技などが行われていました。

古代ローマの科学技術

ローマの道路網は全て舗装されており、その舗装も地下2メートル近くまで掘り下げてから舗装するという徹底したものでした。ローマ建築の優美さは今でも人々を魅了します。パンテオンの美しさ、水道橋の優美さ、フォロ・ロマーノの洗練された姿は、まさに古代世界では屈指の存在でした。

古代ローマやポンペイなどの帝国内の各都市になくて、現在の先進国の都市にあるのは、電気とコンピューターとスマートフォンだけだと言ってもあまり言い過ぎではないでしょう。それくらいローマの科学技術は市民生活を豊かにしていました。

こう言うと、古代中国や日本でも古代建築などに素晴らしいものがあったという人もいるでしょう。素晴らしいものがあったのは事実です。でも、それは一般の市民の生活を直接豊かにするものではありませんでした。ローマの文明は市民全員のための生活快適文化でした。

水は上水道から飲む、トイレは水洗、風呂はスーパー銭湯、道路は舗装、娯楽は数万人収容のスタジアムで競技観戦、バーもレストランも図書館もある、それが、2,000年前のローマ市民の日常でした。

文明の断絶と教育の重要性

文明の断絶

しかし、ローマの高度な文明は中世に入ると失われてしまいました。ヨーロッパでは上水道や下水道がほとんどなくなり、フランス革命前後(18世紀末)のパリでは、トイレの排泄物が窓から通りに捨てられるような状況であり、ヨーロッパで毎日,お風呂に入る・シャワーを浴びるという習慣が確立し始めるのは,20世紀前後になってからでした。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?それは、文明や技術を次世代に伝える教育の断絶が原因でした。

教育が途絶えると、知識や技術は失われ、一度失われた知識や技術を再び発見し、発達させるには何百年、何千年もの時間がかかります。古代エジプトのヒエログリフが読み解かれるまで何世紀もかかったように、教育の断絶は文化や言語の喪失を招きます。

教育は、過去から未来へと知識や技術を継承する手段です。ローマの高度な文明が中世に失われたように、教育が途絶えると文明は衰退します。教育は過去の知識や技術を未来に伝えるための重要な手段であり、それを通じて社会の発展が可能となります。

例えば、現在の科学技術の発展も、過去の科学者たちの知識や技術の継承があってこそ実現しています。エジソンの発明が現代に受け継がれているように、教育は技術革新の基盤となります。もし教育が途絶えれば、現代の文明もまた消えてしまうでしょう。

教育は、単なる知識の伝達にとどまらず、文化や価値観、倫理観を次世代に伝える重要な役割を果たします。古代エジプトのヒエログリフが一度失われ、19世紀に再び解読されたように、教育の断絶は文化や言語の復活を困難にします。教育の継続こそが文明の継承に不可欠です。

教育の断絶の影響

ローマの文明と科学技術が失われ,1500年間停滞したことは、教育の断絶がもたらす影響の大きさを物語っています。知識や技術は、それを次世代に伝えなければ失われてしまいます。一度失われた知識や技術は新たに発見され、発達するまで何百年、何千年と、新たな発明・発見の苦労を待たなければなりません。

教育の断絶は、時間を、そして歴史を消してしまいます。もっと衝撃的な喩えをしましょう。人間は進化する方法を、遺伝子から教育に切り替えたと言ってもいいかもしれません。

生物の進化の過程を振り返ってみると、海に生まれた生物が陸地に上がるまで何十億年もかかりました。陸に上がった生物が空を飛ぶまで何億年もかかりました。キリン(の祖先)が高いところにあるエサがとれるように首を長くするのにも数千万年がかかりました。

進化を遺伝子に委ねると目的を達成するのに、気の遠くなるような年月がかかります。しかし、人間は空を飛びたいと思ってから数百年で飛行機を発明しました。海に潜りたいと思ってからも数百年で潜水艦を発明しました。宇宙を旅して月に行きたいと真剣に思ってから100年ほどで、月面に到着しました。今では数十年のオーダーでどんどん発明がなされています。

人間は、進化を遺伝子(DNA)に委ねるのではなく、教育に委ねたのです。

人類の数々の発明を可能にし、その発明を使い続けることができるのは全て教育のたまものです。私たちがエジソンの発明の恩恵を今でも享受できるのは、エジソンの時代から今まで教育が脈々と続いているからです。教育が止まってしまえば、それまでです。発明された技術は全て失われ,また、エジソンのような発明家の再登場を待つ必要があります。

進化と教育の関係

遺伝子に進化を委ねるとは、寒くなれば次第に毛深くなり、自分の皮膚としての毛皮をまとうということです。しかし、現在、人間は、教育に進化を委ねて、科学技術を発展させてきましたから、暖房器具を発明し、進歩させることで、何百万年もかけて自分の体を変えて,自分の皮膚を毛皮に変える必要はありません。ほんの数年で大きな進化を科学の力で成し遂げることができます。

これは便利なようで、危険な側面もあります。魚の子は教育を受けなくても泳げます。鳥の子は教育を受けなくても飛べるようになります。キリンの子は育てば、何メートルもの首を持てます。しかし、人間は違います。教わらなければ、パソコンは作れません。学ばなければ自動車は作れません。

現在、飛んでいる鳥が自然に飛べなくなるには数百万年が必要です。キリンの首が再び短くなるにも数百万年以上が必要でしょう。しかし、人間が飛行機のつくり方を忘れるには、数十年間、教育が途絶えるだけで可能なのです。数十年の教育の不在で、人間は文明のほぼ全てを失います。

ローマの教訓

古代ローマの文明が断絶したのは、この教育の断絶が主原因でした。教育の断絶を引き起こしたのは、ゲルマン人の侵入だったかもしれませんし、キリスト教の隆盛だったかもしれません。しかし、文明と技術、知恵の断絶を引き起こしたのは、教育の不在により、知識・技術の世代間伝達が消滅したからです。

古代ローマの教訓とは、大帝国の崩壊のストーリーではありません。学ぶべき教訓は、教育が失われると歴史が止まる、文明が止まる、人類の英知が1,000年以上も忘れ去られるということです。繰り返しますが、数十年間の教育の不在が1,000年以上の文明の断絶をもたらすことがあるのです。

教育の不在で人類の英知を次世代に伝えなければ、これまでの苦労はそこで失われてしまいます。教育はそれほどの大きな責任を担っています。

結論

教育の本質とその重要性について考えると、教育は単なる知識の伝達を超え、文化や技術の継承、個々の人間の成長、社会の発展を担う重要な役割を果たしていることがわかります。教育なしには未来はなく、過去の知識や技術も失われてしまいます。

教育は、未来を創る手段であり、過去の知識や技術を未来に伝えるための重要な手段です。教育の重要性を再認識し、未来に向けて教育の在り方を考えることが必要です。教師として、教育の重要性を理解し、生徒の成長を支える役割を果たしていくことが求められます。

教育は、過去からの遺産相続であり、未来の設計図でもあります。教育の本質を理解し、未来に向けて教育を進化させることが、私たちの使命です。教育の重要性を理解し、熱意を持って教育に取り組むことで、未来の社会を築いていきましょう。

教師を目指している皆さん、皆さんが担うことになる教育という仕事は、目の前の子どもを成長させることだけではありません。そのことを通じて、人類が数千年にわたって築き上げた文明を次世代に、未来に伝え続ける責任を果たすことなのです。

教育が止まれば、人類の進化が止まるだけでなく、人類の財産が全て失われます。人間にとって、教育はDNAと同じくらい大事なものです。教育なしに人間の社会は築けません。教育は、過去からの叡智という遺産相続であると同時に、未来の設計図でもあります。

DNAが失われれば生物としての人間は消滅します。教育が失われれば社会的存在としての人間文明は失われます。教師の存在がどれほど重要なものかがおわかりいただけると思います。

熱く語ってしまいました。実は、この話は、今から20年以上も前に、私が初めて教員採用試験対策講座を担当した時の「講座開き」でお話ししたものでした。私の教員採用試験対策講座は、このお話からスタートしたのでした。現在も、私は、このお話を時々、受講生に話すことがあります。教育がなぜ大切かを、人類という大きな存在においても気づいて欲しいからです。

今日のお話のテーマである「教育は何のためにあるの?」を考えてもらうための刺激剤としています。教育は何のためにあるの?私なら次のように答えたいですね。子どものため。未来のため。過去のため。人類の歴史のため。人類の存在理由のため。

これでは教採の面接の答えにはならないでしょう。でも、教育は人類にとって、とてつもなく大きなものであることを自覚していたいですね。私はいつも「教育とは何か?」「教師とは何をする職業か?」を問い続けていきたいと思っています。そして、できれば、教員採用試験を受験する皆さんにも、この問いに対して、自分なりの考えを抱き続けて欲しいと思っています。

受験技術だけで教採に合格しても、教育への想いや情熱がなければ、子どものためになりません。人類のためになりません。随分と偉そうなことを言うようですが、想いなくして教壇に立つ教師を、私は想像したくありません。少なくとも、私は常に熱い想いを持ち続けようと心に誓っています。

確かに、教採という競争に勝つためには合格戦略や受験技術は必要です。それは厳然とした事実です。でも、何のために競争に勝つのかの志が必要です。競争に勝つというのは、出発点に立つことに過ぎません。重要なのはなぜ、何のために出発点に立つのかを、自分なりに分かっておくことです。

教師として歩きながら、走りながら考えることもできますが、大まかな目的や目標は必要だと思います。もし、何の想いもなく、教壇に立って試行錯誤だけをしているというのであれば、その時、教わる子どもたちが気の毒です。子どもは教師が成長するための道具ではありません。

もちろん、教師も未熟な段階から段々と成長します。最初からベテランではありません。でも、成長していくということを、今は何もなくてよい、想いもなくてもよいということにすり替えてはいけません。何かがなければ、何らかの想いがなければ、教師として教壇に立ち子どもに向き合うことはできません。

この点に関しては、私はどうしても譲れないのです。子どものためにも、社会のためにも、人類の未来のためにも。

教育の本質とその重要性について深く考え、未来の教育をどうしていくかを常に問い続けていきたいと思います。教育の力を信じて、次世代に素晴らしい未来をつなげていきましょう。教育は私たちの未来そのものです。


河野正夫
レトリカ教採学院


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