「うみはひろいな」は生命と平和を感じさせる壮大な歌 2024年7月23日
ほとんどの日本人が歌える「うみ」は。1941(S16)に学校の教科書に初めて発表されました。
作詞は、林柳波(はやし・りゅうは)で、作曲は、井上武士(たけし)です。
私は、海を眺めていると、この「うみ」を自然に口ずさむことが少なくありません。
第1節は、月も太陽も私たちも海から生まれる壮大さを感じます。第2節は、日本の歴史や文化が海の交流の恵みであることを思います。
発表された時代でお気づきになられた方もいらっしゃると思いますが、この曲が生まれたのは戦争中です。
何もかも戦争に向けたものにしなければならないとして作られた国民学校のための、最初の教科書の1年生用の音楽「ウタノホン上」に載せられたのが、この「うみ」でした。
今も学校で習う歌の一つになっています。
学校で勉強する内容は、国が「学習指導要領」というものを示し、教科書もそれに合わせて各社が作ります。
学校の先生も、どの教科や領域などについて、この「学習指導要領」の内容を教えなければいけないことになっています。
音楽教科では、戦後から「共通教材」というものが作られました。
私の恩師の真篠将先生(ましの・すすむ)先生は、最初の「学習指導要領」を作るときから文部省(当時)の若き官僚として、音楽担当をしていました。
私は真篠先生に大学院で直接指導を受け、その後も東京の自宅までお訪ねして、親しくいろんなことを教えていただきました。
歌の「共通教材」を作ることは、当時の文部省の音楽担当者の悲願であったそうです。
「誰もが歌える心のふるさとのような歌を持てる国にしたい」
その願いが強かったのは、明治時代に学校が日本に生まれてから歌い継がれてきた唱歌や童謡が、消されようとしたからです。
日本が再び戦争をすることを恐れたアメリカを中心とした連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争につながるものはすべて日本から何もかも消そうとしました。
今では、少し調べればあちこちでわかりますが、私はこの歌の「うみ」を具体的に「共通教材」にするために努力した真篠先生に、直接うかがったことをご紹介します。戦後直後はまだ学生だった真篠先生は、指導を仰いだ人が文部省の音楽担当だったので、当初からGHQとの交渉に係ることが多かったそうです。
GHQは、この歌の第3節の、海に船を浮かべて「よそのくに」に行きたいというのは侵略を思わせる、という理由で、この曲を教材にすることを認めませんでした。そのために、その後もそのような見方をされてしまうことも生まれて、歌える人は多いのに、子どもたちに受け継ぐことができない曲の一つになってしまった時期もありました。
「共通教材」として再びどの教科書にも載り、子どもたちが学ぶ曲となったのは、1977(S52)年のことです。
私が「うみ」を音楽室で教えると、ほとんどの子どもがだいたい歌えます。
そして、授業で学んで、アニメソングや歌謡曲と同じようなぐらい好きな曲として歌えるようになって家に帰ると、幅広い年代で歌える経験をします。
「共通教材」にはそのような魅力があり、どの曲をどの学年で授業しても、「家で家族と歌った」という子どもがいっぱいになります。
これを真篠先生たちは、期待していたとつくづく感じます。
私はそれでよいと思っています。最初に述べましたように、私は生命を育み天体を映し、海外との交流によって発展してきた日本の歴史をこの曲に感じますが、それは私個人の想いで、歌う方や子どもたちそれぞれの「うみ」があるおおらかさがこの曲の良さだと思うからです。
作詞者も作曲者も1974年に亡くなられていますので、日本の著作権法によって70年後の2044年まで著作権が保護されています。
そのために歌詞も楽譜もここでは紹介しませんでした。
こういうことも、音楽文化を大切にするためには必要なことだと私は思っています。
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