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年の差が20歳で結婚生活20年になるといろいろありますので少しずつお話②

実話がもとなので、生々しくならないように気を付けていますが、やはりそれなりに現実的な事も話題にします。懐かしさも有難みも今さら染みます。


新婚生活

覚悟

教師と教え子の関係は、昔の流行歌のように「淡い初恋」であり、「遠くはなれる」と、周囲のみんなが納得するものです。

友人にもごくまれに、たとえば、自分が勤めていた高校にかつての教え子が教育実習に来たとか、その再会がきっかけで、結婚したという者もいます。
でも、小学生のときに出会い、卒業後もいっしょに音楽活動をしていて、そのまま結婚するとなると、これはなかなか周囲の納得を得られるのは難しいものです。

それで私は、彼女に、結婚する前も、結婚してからも、次のようなことを言いました。

『こうなった以上は、私の教員としての立場は非常に際どいものになる。

何かがあって、同僚や教育委員会や保護者や児童などが「だからダメ教師」みたいなことを言い始めたら、もうどうしようもなくなる。

それを絶対に言わせないように、他の教師の何倍も仕事に力を入れるから協力してもらいたい。

また、私の父も妹も親戚もみんな教師で、それぞれに立場があるから、それをわきまえて、教師の家の嫁としてきちんとしていてもらいたい。』


とは言うものの、それで具体的に彼女がどうすればよいのかは、彼女にも私にもわからないのです。

日常

当時、私は大学附属小学校の教諭で、それなりの役割もありました。

何よりも、その頃はスーツにネクタイが毎日の教員の姿で、清潔でこざっぱりしていることが求められていました。

だから、朝の身支度のときに、シャツやハンケチなどがきちんと用意されていれば、とりあえずはその日の出勤ができるのです。

さらに言えば、その頃の附属小学校は、深夜に日付が変わるころも会議をやっていたので帰宅が遅く、しかもほとんど毎日、翌日までに授業研究のための何らかの資料を用意して行かなければなりませんでした。

だから、夜の夫婦生活は・・・

今夜は、カンベンシテ~、みたいな感じ、です。

「うら若い娘をかどわかして、毎日楽しくやってるのだろう。むふふふっ」

などと見られているような気配は、身内にも周囲にも、通りすがりの人にも感じられましたが、私としては「決してそんなことはありません」と、いちいち言いたい気分でありました。

彼女は、やはり、さすがに、つまらない様子もありました、けど・・・

そして朝から、「ハンカチがない」「靴下はどうした」「シャツはどこ」「ネクタイはどれ」などと戦場のようになるのです。

彼女はお嬢様育ちで、むしろ自分がそのように準備をしてもらうことが当たり前であったようなので、ほとんどこれが毎日の繰り返しでした。

私は、毎朝、事務室のモニターでチェックしている学校の防犯カメラの前を、マラソンの選手のゴールのように、時計を見ながら駆け抜けるのです。

「それでも楽しかったのだろう」と言われれば、それはその通りでしたが。

七光り

私の父は、教育の世界では相当の有名人でした。

彼女と私が結婚したときは、近くの短大の教授として要職に就いていましたし、教員を退職する頃は校長会の会長、その前は若くして県の教育委員会に抜擢されその後は市の教育行政の具体的な実行責任者としての仕事もしていました。

しかも父自身が、附属小学校の卒業生、つまり三重師範学校男子部附属小学校の卒業生です。

それで、まだあちこちで要職について活躍している方々のなかには、師範学校や附属小学校の後輩も何人もいました。

その父が、彼女と私の結婚を、他の誰よりも喜び、どちらの方面に向けても、影日向に、私たちを守ってくれていたのでした。

それを私はそれなりにわかっていましたので、私自身も相当にがんばりました。

「あいつは20歳も年下の教え子を嫁にした不届きものだ」とは誰にも言わせないぞと毎日毎日、気を張って仕事をしていました。

今では信じられないでしょうが、当時の附属学校は市内でも「浮いた」存在でしたが、私が市内の公立学校にいたので、何かあるときはつなぐこともしました。

また、幼稚園、中学校、特別支援学校、そして小学校の四校が附属としてありながら、なかなか交流をしないので、あちこち歩いて少しでもつなぐこともしました。

さらには、これもまた今では考えられないことでしょうが、小学校と大学学部との関係がとても悪かったので、担当していた音楽教科を糸口にしながら大学との結びつきもつくるようにしました。

こういうことは、画期的なことで、多くは歓迎されましたが、かつて附属小学校にいた教師の先輩方からは、とてもうっとうしいヤツ、と思われているのも感じられていました。

それも含めて、私の父の存在は大きく、まさに親の七光りに守られて、私はやれることを一生懸命やったという感じです。

これがいかに大きかったかは、彼女には、今でも理解されていないかも知れません。

でも、彼女と私がいっしょに仲間と音楽活動をしているときに、そばで父がニコニコとしているときは、とても平和で楽しいものでした。


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