あなたに 合う タイヤ あります

私が生活している道に、自動車のタイヤ屋さんがある。その店の前には大きな看板があり、「あなたに 合う タイヤ あります」と書かれている。

その看板の前を通るたびに、私はキン肉マンに出てきた悪魔超人か、アメコミのヴィランとして描かれそうな、タイヤがいくつも重なったタイヤ人間を想像してしまう。

私に合うタイヤって、何だろう。私はもうおじさんなので、タイヤの溝がだいぶすり減った、ゴムが乾燥し始めたが、交換するには惜しい、薄汚れたタイヤをオススメされるのかもしれない。私はそのタイヤをネックレスのように首に巻き、処刑場に徒歩で連行される囚人の列に並んでいる。

といった妄想はどうでもよい。「あなたに 合う タイヤ あります」ではなく、「あなたの愛車に合うタイヤがあります」だったら、私はこんなにモヤモヤすることなく、そのタイヤ屋さんの前を通れるのだろうか。

しかし、私の自動車に合うタイヤがある、というのは分かりきっている。自動車があり、自動車のスペックに合ったタイヤはあるのだろう。「あなたの愛車に合うタイヤがあります」という看板では、単にタイヤの品揃えの豊富さを誇るだけになってしまう。

私に合うタイヤ、は単にファッションとしてではない「私」に、私の外見にマッチしている、という事ではないらしい。私は自動車を持っていて、その自動車に合ったタイヤはある。性能と価格、私が自動車を使用する環境とタイヤに出費できる経済状況を考慮した上で、私の車に合ったタイヤはある。

絶対にパンクしたくないだったり、時速300キロで自分の自動車を走らせたかったり、紛争地の最前線を走り回りタイヤが銃撃されてもびくともしてほしかったりする。しかし、私が持っているお金には限度があり、私に合ったタイヤはこれらの夢を叶えるものではなく、普通に市販されている、それも安めのタイヤになるしかない。

タイヤではなく、別の事例、マイホーム選びを考えてみる。「あなたに合ったお家選び」といったキャッチフレーズは、定番である。「あなたの希望に合った家」はたくさんある。もしないにしろ、建てればよい。しかし、あなたの希望に合い、同時に経済的な条件にも合った家は少ないかもしれない。「あなたに合った」とは、あなたの希望を条件とし、同時にあなたの限界を条件とする。そして、そのマイホームメーカーが提供できうるもの、という隠れた、そして当然の条件もある。ローカルで家を建てる業者が、地中海の別荘を提案してくれるわけではない。

冒頭の、タイヤ屋さんの看板の話に戻る。出費できる額という経済的な折り合いを含めて、私の希望に沿ったタイヤが、きっとそこにはあるだろう。しかしそこにあるのは「私に合ったタイヤ」かつ「タイヤ屋さんに合ったタイヤ」である。タイヤ屋さんも売りたいタイヤがあるだろうが、そうしたタイヤばかり置いていたら、トータルの売上は下がってしまうかもしれない。そして私とタイヤ屋さんのどちらが条件を提示しているかといえば、タイヤ屋さんだ。私が一度も行ったことのないそのタイヤ屋さんがあるから、私は度々、「あなたに 合う タイヤ あります」って看板はなんか嫌だなぁ、と思うことができる。

私たちが生きる社会で、売買という商行為に絞っても、隠れた制約があるのは当然だ。「あなたに 合う タイヤ あります」という看板を出すことで、隠れた制約をチラ見させることが商売上有意義なのかは分からない。まぁ、タイヤ屋さんがお店に来て欲しいのは面倒なことを考えずにタイヤを買ってくれるお客さんだろうから、余計なことを考える客を除外する、良いキャッチフレーズなのかもしれない。




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